パドックで会いましょう
櫻井 音衣
競馬場デビュー
その時僕は、途方にくれていた。
職場の先輩に、半ば強引に誘われた競馬場の前で、腕時計を見るのはもう何度目だろう。
約束の時間を、もう20分も過ぎている。
つい先日こちらに越してきたばかりの僕は、職場の先輩に、日曜日に競馬場に行こうと誘われた。
この辺りはまだ慣れていなくて右も左もわからないのに、先輩は当たり前のように、競馬場前で9時に待ち合わせな、と言った。
仕方なく競馬場に行く交通手段や駅からの道のりを調べ、日曜の朝早くから家を出て、今に至る。
競馬場には続々と人の波が押し寄せ、どの人も競馬新聞やスポーツ新聞を片手に、目をギラギラさせている。
先輩、もしかして寝過ごしたのかな?
黙って待っているのもなんだからと電話を掛けようとした時、ポケットの中でスマホの着信音が鳴った。
「先輩!今どこですか?僕、ずっと待ってるんですけど!」
「すまんな、ちょっと事情があってな、行けんようになってしもた。おまえ、俺の代わりに馬券買(こ)うといてくれるか?」
「えぇっ…。」
「メインレース5ー7頼むわ。千円な。」
「そんな事言われても…。」
「頼むでえ!明日の昼飯奢ったるから!ほんじゃ、また明日な!!」
「ああっ、先輩!」
言いたい事だけ言うと、先輩は電話を切ってしまった。
事情があってな、なんて言ってたけど、先輩の後ろで女の人の笑い声がしていたのを、僕は聞き逃さなかった。
大方、夕べの合コンで意気投合した可愛い女の子をお持ち帰りしちゃったとか、そんなところだろう。
…羨ましい。
先輩は僕と違ってイケメンで背が高くて、おまけに口が達者だからモテるんだ。
彼女はいないと言っていたけど、女の子に不自由しているようには見えない。
女の子をお持ち帰りどころか、背が低くて童顔で冴えない僕は、好きになってもフラれるのが怖くて、告白する勇気もなくて、もちろん恋愛経験がまったくない。
モテる先輩が、ただひたすら羨ましい!
今すぐ先輩より背の高いイケメンになって、可愛い女の子と付き合いたい!!
……そんな事は置いといて。
しかしどうしたものか。
競馬場なんて初めて来るのに、馬券の買い方はおろか、まずはどこに行けばいいのかもわからない。
だけど、頼まれちゃったしな。
僕は仕方なく、並々ならぬ闘志を燃やす人たちの進む先を見る。
どうやらあの場所で入場料を払って場内に入るようだ。
この人たちについて行けば、なんとかなるのかな?
とりあえず頼まれた馬券を買って帰ろう。
電車代と入場料は、明日の昼飯を奢ってもらえばチャラになるはずだ。
列の最後尾に並んで待った末に、未成年ではとか学生ではとか訝られながらも、ようやく入場料を払い、なんとか場内に入る事ができた。
しかし馬券売り場はどこだろう?
場内の案内板を見て位置を確認しようと立ち止まると、後ろから歩いて来た人たちにぶつかられた。
「こんな所で立ち止まんな、邪魔やろが!」
前をろくに見もしないで歩いてきたこの人たちも悪いのに、関西弁で怒鳴られると、怖くて文句も言い返せない。
神奈川生まれの神奈川育ちの僕にとって、関西は未知の世界で、言葉といい勢いといい、何もかもが恐ろしい。
とりあえず殴られないうちに謝っておこう。
「す、すみません…。」
素直に謝ったと言うのに、男は僕のシャツの襟首をガシッとつかんで顔をグッと近付けた。
「すみませんで済んだら警察要らんのじゃ!」
えぇーっ?!
ぶつかっただけで大袈裟な。
そもそも、ぶつかって来たのはそっちじゃないか!
…なんて、怖くて口が裂けても言えない!!
強面の男たちに、わけのわからない因縁をつけられる僕を、誰もが見ないふりして素通りしていく。
誰も助けてくれないなんて、関西人は情に厚いんじゃなかったのか?!
こちらに来てからまだ1週間しか経っていないのに、意外と冷たい関西人に絶望しそうになっていると、誰かが男の腕を掴んだ。
天の助けか、はたまた神か。
きっとさらにイカツイ強そうな男の人に違いない。
「ちょっとアンタらぁ、そんな坊や相手に何調子こいてんねん。ええ加減にしときぃや。」
予想に反して女の人の声がした。
「あっ、ねえさん…。」
…ねえさん?
どう見ても20代半ば過ぎの、華奢な体つきをした女性だ。
この強面の男たちが怖れるような女性には見えない。
「大の男がしょうもない事でいちいちガタガタぬかすな。」
「すんません…。」
「わかったら早よ行け。」
ねえさんと呼ばれたその女性がシッシッと手で追い払うと、強面の男たちは頭を下げて、そそくさと去って行った。
一体この人、何者なんだ?
「大丈夫か?ケガしてへん?」
「あっ、大丈夫です。ありがとうございました。」
僕が慌てて頭を下げると、その人は笑って僕の頭をワシャワシャと撫でた。
「ええって、気にせんといて。なんや、この辺の子やないな?競馬場、初めてか?」
「はい…。馬券を買って来るように頼まれたんですけど、どこに行けばいいのかもわからなくて。」
「そうなんや。じゃあ、ついといで。アタシが連れてったる。」
ねえさんは僕の頭をポンポンと叩いて笑った。
よく見ると、肌が白くて切れ長の涼しげな目をした綺麗な人だ。
笑うと形の良い唇から八重歯が覗いて可愛らしい。
「ありがとうございます…。」
初めて会ったのに、綺麗な上になんて親切な人なんだろう。
関西人の冷たさと恐ろしさに絶望しかけていた僕に、関西人も悪い人ばかりではないと教えてくれた気がする。
「馬券買うだけでええの?せっかく来たんやから競馬見て行けば?今日は開催日やから目の前で馬の走るとこ見れるし、G1もあるしな。」
「僕、競馬見た事もないんですけど…わかりますかね?」
「大丈夫やって。賭け方わからんでも、馬走るの見れば面白いから。」
「そう言えば僕、馬が走るの生で見た事ないです。見てみようかな。」
「そうしとき。見て行かんかったら、入場料もったいないで!」
僕はねえさんの半歩後をついて歩く。
さっきは強面の男たちから恐れられていたけれど、そんなに怖い人とは思えない。
「頼まれたレースは何レース目なん?」
「えーっと…確か、メインレース…って言ってました。」
「ああ…桜花賞やな。まだ時間あるし、後で馬券売り場に連れてったるから、先にこっち行こか。」
ねえさんは僕の腕を掴んで、人混みをすり抜けるようにしてスタスタと歩く。
生まれてこのかた、母親と身内のおばさん以外の女の人に腕を掴まれた事なんて初めてだ。
僕の腕を掴む、ねえさんの細くて柔らかな指先に、ドキドキして顔が赤くなってしまう。
ねえさんは立ち止まり、人のたくさん集まる場所の先を指差した。
「ほら、見てみ。」
「あ…馬…?」
そこには数頭の馬がいて、丸いトラックのような場所を周回していた。
「ここ、パドック言うねん。これからレースに出る馬が見れる場所。」
「へぇ…。」
目の前にいる馬よりも、僕の腕を掴むねえさんの手が気になって仕方がない。
まだこうしていて欲しいような、恥ずかしくてもう離して欲しいような、妙な気分だ。
僕はなんとか気をまぎらわそうと、ねえさんに話し掛ける。
「ここでこの馬たちの何を見るんですか。」
「今日の馬体の仕上がり具合とか、馬の調子とか、今の状態やな。歩様がしっかりしてるなとか、落ち着いてるなとか。逆に興奮しすぎて勝負にならんなとか。」
「そんな事までわかるんですか?」
「ずっと見てるからな、だいたいはわかるよ。ホラ、5番のあの馬なんか、イレ込みまくって思いきり頭上げ下げして、厩務員振り回してるやろ。ああなってまうとろくに屋根の言う事も聞かんで、勝負にならんのよ。」
「イレ込み…?屋根…?」
「イレ込むっていうのは興奮する事。屋根は騎手の事。わかる?」
「初めて聞きました。そんな競馬用語があるんですね。」
新しい事を教えてもらうのは、なんでも新鮮なものだ。
ついさっきまで競馬にはなんの興味もなかったのに、こんなふうに教えてもらうと、少し興味が湧いてくる。
「おっ、今日は珍しく男連れか?」
ねえさんの隣に立ったおじさんが、ねえさんの肩を叩いた。
おじさんはねえさんと僕を交互に見る。
「なんや、弟か?それとも若いアンチャン、ナンパして来たんか?」
おじさんの言葉にねえさんはケラケラ笑った。
「ちゃうよ。入り口んとこで柄の悪いのに絡まれてたから。ここ初めてやって言うし、迷わんように連れてきたんよ。競馬も初めて言うし、ちょっと教えてた。」
「そうか。ホンマにアンチャンやな。」
おじさんはおかしそうに笑った。
「アンチャン…?」
「新人ジョッキーの事な、アンチャンって言うねん。よし、ちょうどええから、アンタの事はアンチャンって呼ぶわ。」
アンチャンって…。
確かに僕は競馬初心者だし、職場でも新人だけど…。
おじさんは競馬新聞を広げて、ねえさんに見せた。
「ところでなぁ、おねーちゃん。4番どないやろ?」
おねーちゃんって…。
どう見てもねえさんは、おじさんの娘くらいの歳だろう?
「悪くもないけど、良くもないな。勝ち負けは厳しいで。」
ねえさんは差し出された新聞を見もしないで、パドックを周回している4番の馬を見ながら答えた。
「やっぱりそうか。最終追いきりで一番時計出したとか、新聞ではええ感じの事書いてるんやけどな。」
「新馬やからな。そんなもんあてにならんよ。慣れん輸送で疲れたんちゃう?」
二人の会話を聞いていると、見た目によらず、馬を見る目があるのは熟練者っぽいおじさんではなく、若くて綺麗なねえさんの方らしい。
「おっちゃん、毎週来てるくせにホンマ馬見る目ないわ。最低人気やけど1ー3やな。」
「ひどいのう、彼氏にそんなこと言うなや。」
おじさんの一言に驚いて、僕は思わず声をあげる。
「えっ…彼氏?!」
いやいや、どう見ても彼氏と彼女と言うよりは親子だろう?
っていうか、こんな若くて綺麗な人に、こんな無精髭のおじさんは似合わないよ!
「おっちゃん、アンチャンがびっくりしてるやん。」
「週末の彼氏やろ?」
ねえさんはおじさんの一言に吹き出した。
「確かに毎週ここで会(お)うてるし、週末一番長いこと一緒におるな。」
「ほれみい、週末の彼氏や。」
おじさんが肩を抱き寄せると、ねえさんはその手を掴んで捻り上げた。
「痛い、痛いて!!」
「わかったわかった。そういう事にしといたるわ。でもお触りはナシやで。アタシら、ずっと清い関係でいよな、おっちゃん。」
ねえさんはニコニコ笑いながらおじさんの手を離した。
おじさんは痛そうに肩をさする。
「なんや、あかんか。おねーちゃん落とすんは難しいのう。」
そりゃそうだろう…。
多分冗談なんだろうけど、このおじさんの考えている事もよくわからない。
「おっちゃん、馬券買うんやったら早よ行かんと締め切られてまうで。」
「おお、ホンマや。行ってくるわ。」
おじさんは電光掲示板の時計を見ると、慌ててその場を離れた。
ねえさんは離していた僕の腕をまた掴んだ。
「もう少ししたらレース始まるわ。アンチャンはアタシとゴール前に行こか。」
ねえさんに手を引かれながら、人混みの中を歩いた。
春の暖かな風がねえさんの香りを運び、僕の鼻孔をくすぐる。
コロンか何かつけているのかな。
それともシャンプーの香り?
それはむせかえるような強すぎる香りではなくて、ふんわりとほのかに香る。
満員電車の中で主張し合う、強すぎる香水や柔軟剤の香りとはまったく違う。
ねえさんから香る大人の女の人の香りにクラクラして、抱きしめたい衝動に駆られてしまいそうだ。
「おっ、ラッキーやん、ええ場所あったわ。」
ねえさんが突然立ち止まるので、僕は止まりきれず、ねえさんの背中にぶつかってしまった。
その拍子に、ねえさんの華奢な体がグラリとよろめく。
「うわっ!」
「ああっ!」
僕は咄嗟にねえさんの体を支えようと手を伸ばしたけれど、間に合わなかった。
ねえさんは転ぶ寸前、自力で踏ん張って体勢を建て直す。
「危ないなぁ、もうちょっとでこけるとこやった。」
「ごっ、ごめんなさい!」
女の人一人も支えられないなんて、本当に情けない。
こんな時、先輩みたいな背の高いイケメンならさりげなく片手で抱き止めたりするんだろう。
伸びなかった身長が恨めしい。
せめてもう少したくましくなれるように、筋トレでも始めてみようか。
「ほらアンチャン、こっち来てみ。」
ねえさんは柵に手を掛けて手招きをした。
僕が隣に立つと、ねえさんは正面を指差した。
「あの正面にあるのがゴール板な。馬が1着目指してさ、必死になって駆け込んで来るんよ。ここから観るのが一番迫力あるねん。テレビで観るのとは迫力が全然違うで。」
「へぇ…。」
よほど競馬が好きなのか、ねえさんは目をキラキラさせて競馬の魅力を語る。
「ところでなぁ、アンチャン。」
「はい、なんでしょう。」
「今更聞くのもなんやけどな…アンタ、未成年ちゃうの?」
ああ、まただ。
入場券を買う時にも歳を聞かれたんだ。
「違いますよ…。成人してます。」
「成人してても、大学生は馬券買(こ)うたらあかんのやで。」
そう、これも聞かれた。
学生さんではありませんか?って。
もうため息しか出ないよ。
「…こんな見た目ですけどね…社会人です。」
声を大にして叫びたい。
童顔で背も低いけど、僕は成人した社会人だ!
どこに行っても高校生と間違われるけど、僕はもう大人なんだ!
「そうかぁ、あんまり可愛い顔してるから、未成年の学生さんやと思った。ごめんやで。」
「……いつもの事だから慣れてます。」
こんな綺麗な大人の女の人に面と向かって言われると、ものすごく子供だと言われているようで、正直ヘコむ。
「なんや、いつも言われてしょげてるんか。若いんやから焦らんでもええよ。これからどんどん大人っぽく男らしくなれるって。」
「なりたいですけどね…。」
できればあなたのような大人の女性に釣り合うくらいの大人の男にね、なんて歯の浮くような台詞、僕には似合わない。
「せめて、どこに行っても年齢確認されないようになりたいです。」
肩を落として呟く僕の肩を、ねえさんはポンポンと叩いて笑った。
「なれるなれる。そのうちイヤでもオッサンになるからな。」
「オッサンですか…。」
それでは僕は、オッサンになるまで見た目は子供だという事か?
「年下の可愛い男が好きー!っていう女もおるから、若いうちはええんちゃう?」
「……いればいいんですけどね。」
可愛いとか童顔とかイヤと言うほど言われてきたけど、恋愛対象として見られた事なんて一度もない。
人並みの恋愛経験をする事もできなかった過去を振り返って、余計に落ち込んでしまった。
「しょげるな、そのうちアンタの事がええって言う女が一人くらいは現れるはずやと思うで、多分、おそらく。」
「それ…すっごく曖昧ですね…。」
励ますには望みの薄過ぎる言い方だろう。
嘘でもいいから、もうちょっと強く希望を持たせてくれないかな。
ねえさんは僕の丸めた背中をバシンと叩いた。
「大人の男なんやったら、もっと自信持ってシャンとせぇ!!そんな事より!もうすぐ本馬場入場やから、よう見とけ!」
自分から言い出したくせに、ねえさんはこの話題を完全に投げ出した。
かなり横暴だ。
でも八重歯をのぞかせながらニコッと笑われると、どこか憎めない。
騎手を乗せた馬たちが馬場に姿を現した。
ねえさんが言うには、馬がレースをするトラックみたいな場所を、馬場と言うんだそうだ。
天気の良い今日は、地面が乾いて状態が良いことから、良馬場と言うらしい。
ねえさんは騎手を乗せて軽く流すように駆ける馬を、楽しそうに見ている。
今まで僕の周りにはいなかった自由奔放なタイプだ。
ついさっき初めて会ったのに、どういうわけか僕は、この人に惹き付けられている。
不思議な人だなあ。
競走馬が順番にゲートに入っていくのを、ねえさんはワクワクしながら眺めている。
「おー、あいつゲート嫌って暴れとるなぁ。」
やんちゃな子供を見るように、ねえさんは楽しそうに笑う。
ゴール前からではゲートは遠くて見えにくいのに、ねえさんの目には馬たちの様子がよく見えているみたいだ。
凡人の僕は正面の大きな画面で、ゲート入りの様子を見ていた。
ねえさんいわく、この大型の画面はターフビジョンと言うそうだ。
無事に全馬ゲートインを済ませると、スターターの合図でゲートが開いた。
レースの始まりだ。
ゲートから一斉に馬が飛び出す中、2番の馬がわずかに出遅れた。
「あー、出遅れた。新馬にはようある事や。」
騎手が出遅れを取り戻そうと手綱をさばく。
順調にスタートを切った馬たちの馬群の先頭には4番の馬がいる。
1番の馬と3番の馬は、馬群の後方に控えている。
「さぁ、どっから仕掛けるんや?」
最終コーナーの手前で4番の馬が馬群を抜け出した。
「おい、やっぱり4番来るんちゃうか?!」
いつの間にかねえさんの隣にいたおじさんが声をあげた。
「あー、仕掛けどころ間違えよったな。あいつは直線でガレて沈むやろ。」
最終コーナーを回り直線に入った。
馬たちはゴールめがけて最後の脚を振り絞る。
地を這うような轟音が近づいて来ると、ねえさんはキラキラと目を輝かせた。
「来たで…!!」
「すごっ…何ですか、これ?地響き?」
あまりの迫力に、僕は思わず息を飲む。
「馬の蹄の音。すごいやろ?」
後方から1番と3番の馬が一気に追い上げてくる。
「よっしゃ行けー!!」
馬群を大きく引き離し、先頭で横並びになった1番と3番の馬が、激しく競り合いながらゴールした。
人気の低い馬同士の組み合わせに落胆した客たちが投げ出したハズレ馬券が、紙吹雪のように無数に宙を舞った。
「どっちや?」
「んー…ハナ差で3番やな。最後はもう首の上げ下げやった。」
「はあーっ…。やっぱりおねーちゃんの審馬眼はすごいで…。」
当たり馬券をマジマジと見つめながら、おじさんはため息をついた。
そして嬉しそうに笑って、ねえさんの肩をガシッと掴んだ。
「よっしゃ!!おねーちゃん、今日はおごったる!!飲みに行くで!!」
「ホンマ?」
「ホンマや。おねーちゃんのおかげで大穴当てたからな!アンチャンも来い!ついでにおごったる!」
「あ…ありがとうございます…。」
なんだかよくわからないけど、おじさんがおごってくれるらしい。
「アンチャン、酒飲めるんか?」
「あまり強くはないですけど、少しなら。」
「まあ、無理せん程度に飲めや。」
「はい…。」
あれ?
僕はどうして今日初めて会ったばかりの、どこの誰かも知らない人たちとこうしているんだろう?
だけど全然イヤじゃない。
なんだかとっても不思議な気分だ。
お昼時。
ねえさんが大きく伸びをした。
「なぁ、お腹空かへん?そろそろお昼にしようか。」
ねえさんはまた僕の腕を掴んで歩き出した。
「あの…どちらへ?」
「フードコーナー。お昼ごはん食べるやろ?」
「おじさんはいいんですか?」
「おっちゃんはおっちゃんで、好きなようにしてるからええねん。」
ねえさんとおじさんは顔見知りではあるようだけど、ここで顔を合わせたからと言って、常に行動を共にしているわけではなさそうだ。
「そうや。今やったら馬券売り場空いてるはずやで。頼まれた馬券、先に買(こ)うとき。」
ねえさんは僕を馬券売り場に連れて行き、馬券の買い方を教えてくれた。
ねえさんに教わりながら、マークシートを鉛筆で塗りつぶす。
まるで学生の時のマークシート試験みたいだ。
そんな事を思いながらも、僕のすぐとなりにいるねえさんとの距離の近さに思わずドキドキしてしまう。
モテた経験がないからな。
女の人がこんな近くにいる事なんて、滅多にない。
わざと失敗して、時間稼ぎをしてやろうかなんて、バカみたいな事まで考えてしまう僕が情けない。
よこしまな考えは捨てよう。
素直にねえさんの言う事を聞いて、頼まれていた馬券を無事に買う事ができた。
馬券売り場からフードコーナーへ移動して、ねえさんは僕の手を引きながら人だかりへと向かう。
「ここのカツサンドがな、めっちゃ美味しいねん。」
「そうなんですか?僕、カツサンド好きです。食べたいな。」
「よし、カツサンドに決まりやな。」
カツサンドとコーヒーを買って、外に出た。
ターフビジョンの見える階段に腰掛けて、カツサンドの箱を開ける。
ねえさんはカツサンドを美味しそうに頬張りながら、僕の方を見た。
「どない?初めてって言うてたけど、競馬場は楽しい?」
「はい、楽しいです。」
「そら良かった。」
もちろん一人なら、こんなに楽しいとは思わなかっただろう。
競馬の事はなんにも知らない僕に、あれこれ教えてくれたねえさんがいたから、こんなに楽しいんだと思う。
どこでどんな出逢いがあるかなんて、わからないものだな。
僕もカツサンドにかぶりついた。
「美味しい?」
「美味しいです!」
「せやろ?ここで一番のアタシのお気に入りやからな。」
ねえさんは子供みたいに大きく口を開いて、パクリとカツサンドにかぶりついた。
美人なのに気取らない人だな。
若い女性にしては珍しい薄化粧も、飾り気のないラフな服装も、すべてがこの人を引き立てているように見えてくる。
「アンチャン、ここ、ソースついてるで。」
ねえさんが唇の横を指差した。
「え?」
僕は自分の口元を指で拭う。
「そことちゃう、反対や。」
ねえさんの細い指が、僕の拭った反対側の唇の端を、そっと拭った。
その指先の柔らかさに、僕の胸がドキドキと高鳴る。
ねえさんは指先についたソースをペロリと舐めて笑った。
「子供みたいやね。」
子供扱いされて、僕は無性に恥ずかしくなる。
それだけでなく、僕の口元についたソースがついた指を、ねえさんが事も無げに舐めとった事が、更に恥ずかしかった。
なんだこれ?
なんなんだ、このドキドキは?!
彼女に一度はしてもらいたいシチュエーションじゃないか!!
恋愛経験のない僕には刺激が強すぎて、思わずうつむいてしまう。
これは…僕が子供だと思って、からかわれてるのかな?
もしかして、僕がどんな反応をするのか試して面白がってる?
僕が上目遣いでそっと様子を窺うと、ねえさんは柔らかく微笑んだ。
「ん?どないしたん?」
「いえ…なんにも…。」
からかうとか、面白がるとか、そんな人じゃなさそうだ。
自然に出た行動なのだろう。
と、言う事は。
ねえさんには、こんな事を日常的にやってあげる相手がいるって、そういう事なのかな。
その相手が羨ましい。
ねえさんは気にも留めない様子で、ホットコーヒーを飲んでいる。
まあ、あれだ。
どんなにドキドキしたところで、こんな子供みたいな僕は、ねえさんの眼中にはないだろう。
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