これが恋でも、恋じゃなくても
日曜の朝。
僕は仁川(にがわ)駅の改札口を出ても、まだ少し迷っていた。
迷っていたと言っても、道に迷っていたわけじゃない。
本当にこのまま、ねえさんに会いに行っていいのかを、だ。
夕べはねえさんに会いたい衝動が抑えきれなくて、なかなか寝付けなかった。
ベッドの上で何度も寝返りを打った。
もう眠ってしまおうと目を閉じると、ねえさんの笑った顔が次々と浮かんだ。
まるで恋をしているみたいだと思うと、胸がドキドキして、また眠れなくなった。
たった一度会っただけの、何も知らない相手の事を考えてこんな気持ちになるなんて、どうかしてる。
僕はきっと、初めて会った綺麗な人に思いがけず優しくされて、勘違いしているだけなんだ。
もう一度会えば、これは恋なんかじゃない、勘違いだと気付くかな?
ようやく眠りの淵に落ちる頃、薄れていく意識の中で、勘違いでもなんでもいいから、もう一度ねえさんに会いたいと、僕は思った。
ぼんやりとそんな事を考えながら歩いているうちに、競馬場に着いてしまった。
今日もここでレースをやっているようで、先週ほどではないけれど、たくさんの人が訪れている。
どうしようか。
やっぱりこのまま引き返そうか。
ここに来てまだ及び腰になっている。
ああ、そうか。
今日もここに確実にねえさんがいると決まっているわけじゃない。
僕は競馬場に来たんだから、素直にレースを観ればいいんだ。
誰が咎めるわけでもないのに、心の中で自分自身にそんな苦しい言い訳をしながら、場内に足を踏み入れた。
先週は案内板の前で立ち止まって因縁をつけられたから、今日はもう立ち止まらない。
僕にも学習能力ってものがあるんだ。
まず向かうのはどこだ?
いきなりゴール前?
買いもしないのに、馬券売り場なんて行っても仕方ないしな。
とりあえず、フードコーナーでコーヒーでも飲んで落ち着くか。
いや…それこそ落ち着けよ。
やっぱり、どう考えてもパドックだろ?
あんなに会いたいと思っていたくせに、そこにいて欲しいような、いて欲しくないような、妙な気持ちだ。
僕は恐る恐るパドックに向かって歩く。
もしねえさんがいたら?
遠くから一目だけその姿を見られたら、声を掛けずに帰ってしまおうか。
いや、ねえさんが僕に気付いて声を掛けてくれるまで、黙って待っていようか。
それともやっぱり…勇気を出して、声を掛けてみようか。
すり鉢状になっているパドックに着くと、下には降りずに、周回する馬を見るよりもまず、ねえさんの後ろ姿を探した。
緊張して、胸がドキドキして、握りしめた掌に汗がにじむ。
……いない。
もうゴール前に行ったのかな?
それとも今日は、ここには来ていないのかも。
ホッとしたような、残念なような。
なんだか気が抜けた。
ホントは、ねえさんがいないなら、僕がここにいる意味なんてないってわかってる。
やっぱり帰ろう。
ああそうだ。
せっかく来たんだから、カツサンドくらいは買って帰ろうか。
あの美味しいカツサンドを買いに、わざわざここまで来たんだと思えばいいじゃないか。
よし、そうしよう。
クルリと振り返ると、ねえさんがいた。
それも、僕の目の前に、だ。
急激に胸が高鳴った。
「あ…ねえさん…。」
僕の頭の中は真っ白だ。
だけど目の前にいるねえさんは、他の人とは違う輝きを放っているように見えた。
「おお、アンチャン!!今日も来たんか!」
ねえさんが僕の肩をポンポンと叩いた。
ねえさんの手が触れた場所から、僕の身体中が熱くなった。
な、な、なんだこれ…?!
僕はおかしくなってしまったのか?
「さては、競馬にハマったな?」
「まぁ…そんなところです…。」
違う、違うよ。
僕は競馬じゃなくて、ねえさんにハマってしまったんだ。
会いたくて会いたくて眠れなくなるくらいに。
ねえさんの笑顔が、頭から離れなくなって。
ねえさんの声が、何度も耳の奥に響いて。
ねえさんの温もりを忘れられなくて。
会うのが怖くて、でも会いたくて。
何も知らないとか、勘違いとか、もうどうでもいい。
これが恋でも、恋じゃなくても。
僕は今、ねえさんに会えて間違いなく嬉しい。
それが今の僕の気持ちのすべてだ。
「あ…会えて、良かったです。」
僕はありったけの勇気を振り絞って、今のこの気持ちを、ほんの少しだけ伝えた。
「ん?そうか、一人やとまだ不安なんやな。じゃあ今日も一緒に行こか。」
「はい…。」
……そういう意味じゃないんだけど。
それでもいい。
ねえさんと一緒にいられるなら、僕はもう仔犬でも園児でも、アンチャンでもなんでもいい。
「おう、アンチャン!!また来たんか!」
「あ…この間はご馳走さまでした…。」
……いいんだ、たとえおじさんが一緒でも。
「アンチャン、今日は馬券買(こ)うてみる?」
お昼前、レースが終わってパドックに向かって歩いている時、ねえさんが言った。
「馬券…ですか?」
「そう、せっかく競馬場に来てるんやしさ。賭け方はもう大体わかったやろ?どの馬が勝つかパドック行って予想してみよか。」
確かにこの間は先輩から頼まれた馬券を買っただけで、ただひたすらレースを観ていた。
予想して観ると、面白さも増すかも知れない。
「やってみようかな…。」
「よし、行こ!」
ねえさんが八重歯を覗かせてニコッと笑い、僕の手を掴んでスタスタ早足で歩き出した。
ねえさんの手が、僕の腕じゃなくて、手を掴んでる。
女の子と手を繋いで歩くなんて、幼稚園以来かも知れない。
手を繋いでいると言うよりは、掴まれていると言う状況ではあるけれど、照れ臭くてドキドキする。
ねえさんに手を引かれて、パドックがもう少しだけ遠ければいいのにと思いながら歩いた。
次のレースで僕の予想は見事に外れたけれど、ねえさんと一緒にどの馬が勝つか予想するのは思ってた以上に楽しくて、自分が勝つと予想した馬を応援するレースは、更に面白かった。
初めて自分で予想して、100円だけ賭けたハズレ馬券は、今日の記念に大事に取っておこう。
お昼にはカツカレーを食べた。
場所が場所だけに、勝負事に勝つようにとゲン担ぎで“カツ”メニューが多いんだな。
その後もまたねえさんと一緒にパドックで予想して、100円だけ賭けた馬券を買って、ゴール前でレースを観た。
僕の予想はことごとく外れたけれど、すごく楽しい。
一度だけ、割と高いオッズがついた予想が的中して、払い戻すと7250円になった。
僕はなけなしの勇気を振り絞って、初めて勝った記念に、そのお金で帰りにビールでも飲もうと、ねえさんを誘った。
ねえさんはまた、八重歯を覗かせながら、笑ってうなずいた。
これで今日も、少しだけ長くねえさんと一緒にいられる。
最終レースの後、また先週と同じ居酒屋に行った。
ねえさんと、もちろんおじさんも一緒だけど。
先週はおじさんにご馳走してもらったから、今日は僕がご馳走すると言うと、おじさんは、一杯だけご馳走になるわ、と嬉しそうに言った。
おじさんは今日も勝ったみたいで、料理は俺がおごったる、と言ってくれた。
今日もねえさんとおじさんは、競馬と野球と、身近な他愛もない話で盛り上がっている。
野球の話に入れない僕は、その話を聞きながらビールを飲んだ。
不思議なほど、お互いの話はしないんだな。
不意に、金曜日の合コンを思い出した。
また誘われても、もう合コンは断ろう。
先輩はいい人だし悪気がないのはわかっているけど、引き立て役にされるために行くなんて、二度とごめんだ。
楽しい事なんて何一つない。
合コンに行くより、ここでこうしている方がずっと楽しい。
「アンチャン、どうした?」
「えっ?」
「難しい顔しとったで。」
ねえさんが眉間にシワを作って見せた。
「そうですか?」
「なんかイヤな事でもあったん?」
「イヤな事って言うか…。惨めと言うか、情けないと言うか。」
ねえさんは僕の目を覗き込むようにして、軽く首をかしげた。
おじさんはモツ煮込みと瓶ビールを追加して、僕のグラスにビールを注いでくれた。
「なんや、女の事か?」
おじさん、見掛けによらず鋭い…。
「うーん…。そうなるのかな…。」
直接的に彼女らに何か言われたわけでも、フラれたわけでもない。
ただ僕が勝手に不愉快になった。
それだけの事なんだけど。
「話してみ?」
ねえさんは少し笑ってタバコに火をつけた。
こんな話をするのはカッコ悪い。
でも、話せば少しはスッキリするだろうか。
「たいした事じゃないんです。いつもの事だから。」
「うん、だから今日は話してみ?いつも我慢してるんやろ?」
「まぁ…。」
僕は当たり障りない範囲で、先輩がとてもカッコいい事と、金曜日の合コンの話をした。
「先輩はいい人だけど、一緒にいると同じ男としては…ちょっとね、情けなくなっちゃって。やっぱり男は見た目が大事なのかなーって。女の人なら誰だって、チビで童顔の僕より、背の高いイケメン選ぶでしょう?」
「ふーん…。アタシはそうは思わんけど。言うたやろ?もっと自信持てって。」
「そうやで、アンチャン。カッコ良うなりたいのは、俺も男やしわかるけどな。それがすべてちゃうわ。それにな、うわべだけやったら、どないにでもなるぞ。」
「なんぼ見た目が男前でも、しょうもない男はいっぱいおる。見た目ブッサイクでも、中身ええ男もいっぱいおる。アンチャンはこれから両方男前になれ!」
やっぱりねえさんは横暴だ。
また僕に無理難題を…。
「…なれるかな。」
「なれるかな、やないねん。なるんや。その心意気が大事やで!アタシが認めるくらいの男前になったら、チューくらいはしたる!」
チューって…ねえさん、酔ってる?
ただの冗談なのか、僕を励ますつもりなのか。
それとも、僕がそんな男にはなれないって思うから言ってるだけ?
無意識に、ねえさんの柔らかそうな唇に視線が行ってしまい、思わず想像しそうになった。
ダメだ、こんな所でそんな事想像したら、それこそいろいろヤバイって!!
慌ててグラスのビールを飲み干して、それを打ち消した。
でも…ホントにそうなれたら…。
「…ねえさんが惚れるくらいの男前になりたいです。」
「よし、頑張れ!」
ねえさんは笑って僕の背中をバシンと叩いた。
「アンチャンもっと食え、ほっそい体して。しっかり食わんと強い男になられへんぞ!」
おじさんは追加したモツ煮込みを僕に差し出した。
モツ煮込みを食べながらビールを飲んだ。
モツ煮込みも、ビールも、やっぱり美味しい。
自分で自分を卑下して惨めにするのは、もうやめよう。
今はまだ子供扱いされている僕だけど、ねえさんがキスしたくなるようないい男に、いつかはなりたい。
そんな夢くらいは、見てもいいかな。
その翌日から僕は、ただひたすら頑張って仕事に励んだ。
いい男を目指すなら、やっぱり仕事はできなくちゃ。
まだ新入社員だから、教えられた仕事を必死で覚える日々だ。
幸い営業とか取引先の人と会う仕事ではないから、人より効率良く仕事をこなすのに、容姿は関係ない。
背が低かろうが、童顔だろうがやればできる。
仕事はほとんど毎日定時で終わるので、何か新しい事でも始めてみようかと思い、どうせなら体を鍛えてみようかと、会社のそばのスポーツジムに入会した。
ジムに通い始めて最初のうちは筋肉痛でつらかったけど、少しずつ慣れてくると気にならなくなった。
土曜日は仕事が休みなので、平日はできない事をする。
まとめて洗濯をしたり、買い物に行ったり、家でゆっくり体を休めたりする。
そして日曜日は、競馬場に足を運んだ。
相変わらず予想はなかなか当たらないし、馬券も遊びの範囲でしか買わないけど、そこに行くとねえさんとおじさんに会えた。
開催日でなくても、ねえさんとおじさんは競馬場に来ているみたいだ。
ターフビジョンで競馬観戦をして、昼は大抵、カツサンドかカツカレー。
誰かがそこそこの当たりを出すと、帰りにいつもの居酒屋でビールを飲んだ。
何度会っても、話すのは競馬と野球と、身近に起こった他愛ない事ばかり。
自分の事を話さないのは相変わらずだ。
そんな日々を送っているうちに、初夏。
暑くなってきたので、僕は少し短めに髪を切った。
なんとなく、ほんの少しだけど大人っぽくなった気がした。
ねえさんは、髪を短く切った僕を見て、よく似合うと誉めてくれた。
少しくらいは、ねえさんが惚れるくらいの男前に近付けたかな。
夏が近付くと競馬場はまた賑やかになった。
レース開催期間がやって来たからだ。
僕はその頃にはもう、ねえさんへのこの気持ちは恋なんだと、ハッキリ自覚していた。
日曜日の朝、パドックにはねえさんがいる。
声を掛けて一緒に馬を見ているとおじさんがやって来て、おねーちゃん、どの馬がええ?と予想をし始める。
昼はアイスコーヒーを飲みながらカツカレーを食べて、たまに僕が馬券が当てると、ねえさんにアイスクリームを奢ったりもした。
なんの進展もないけれど、ただ会えるだけで嬉しくて、一緒にいられるだけで幸せな気持ちになった。
「アンチャン、けっこう筋肉ついたなあ。」
ずいぶん筋肉質になった、半袖のシャツから覗く僕の腕を、ねえさんは笑いながら指先でつつく。
この腕で、ねえさんを抱きしめられたらな。
そんな事をする勇気はもちろんないけれど、一人暮らしの部屋でベッドに入ると、ねえさんの笑顔と、指先の柔らかい感触を思い出し、脳内でねえさんを抱いては一人で果てると言う、不毛な夜をくりかえした。
ねえさんへの想いは、初めて会った頃のような憧れとか、淡い想いではなくなっていた。
いつの間にか僕は、ねえさんのすべてが欲しいと思うほど、どうしようもなくねえさんに恋い焦がれている。
ねえさんの事を知りたい。
どこに住んで何の仕事をしているのか。
歳も、名前さえも知らない。
もし僕が好きだと言ったら、ねえさんはどんな顔をするだろう?
宝塚記念の翌週の日曜日。
朝から最終レースが終わるまで待ってみたけれど、ねえさんは姿を現さなかった。
珍しい。
何か大事な用でもあったのかな。
体の具合が悪いんじゃなければいいんだけど。
もちろん連絡先も知らないから、今日はどうしているのか、知るすべもない。
かろうじて会えたおじさんは、暑そうにバタバタと扇子で仰ぎながら、首に掛けたタオルで汗を拭った。
なんだかおじさんの顔色が良くない気がする。
「しかしあっついのう…。アンチャン、帰りに一杯付き合えや。奢ったるから。」
「いいですよ。」
ねえさんの事も知らないけれど、おじさんの事も、もちろん何も知らない。
今日はねえさんもいない事だし、いい機会だから、今まで聞きにくかった事を少しだけ聞いてみようかな。
いつもの居酒屋でおじさんと一緒に、よく冷えたビールを飲んだ。
相変わらず女将さんの作ったモツ煮込みは美味しい。
「おじさん。僕、ずっと気になってた事があるんですけど。」
「おう、なんや?」
おじさんはネギと生姜をたっぷり乗せた冷奴に醤油をかける。
「おじさんとねえさんは、もう付き合い長いですか?」
「うーん、もう何年になるやろな。最初はただしょっちゅう顔合わせるだけやったけどな。そのうち話するようになって、たまにビール飲みに来るぐらいの仲にはなった。それがどうかしたんか?」
「いえ…。おじさんとねえさんがお互いの話をしないのはなんでだろうって、いつも不思議だったんです。」
箸で切り分けた冷奴を口に運んで、おじさんは顔を上げた。
「そんなもん、必要ないからやろ。」
「必要ないから…ですか?」
「俺らは身内でもないし、友達っちゅうほどのもんでもない。競馬場で顔合わせるだけの関係や。ここにおる時以外の事なんか、どうでもええねん。アンチャンかて、普段俺がどこで何してるかなんて、知りたい思わんやろ?」
「どうかな…。」
気にならないと言えば嘘になるとは思うけど、おじさんの言う事は、わからなくもない。
普段どこで何をしているかとか、歳とか名前とか、一緒に競馬を観るだけの関係なら、必要はないのかも知れない。
でも僕は、ねえさんの事を知りたい。
どんな些細な事でも、知りたいんだ。
そして、ねえさんにも僕を知って欲しい。
おじさんはビールをグイッと飲み干して、空いたグラスにビールを注ぐ。
「人にはな、忘れたい過去とか、知られたくない自分があって当然や。だからあえて、俺らはお互いの事は何も聞かん。アンチャンはまだ若いから、わからんかも知れんな。」
「おじさんにも、ありますか?」
「あるある、なんぼでも。俺の場合な、なんぼ忘れたくても、忘れる事はできんのや。だから俺は、競馬場におる時だけは全部捨てて、ただの競馬好きのおっちゃんになる。」
おじさんは少なくとも、僕の倍ほどの年数を生きてきたはずだ。
いつも明るく陽気に見えるおじさんにも、忘れたくても忘れられないような、つらい経験をした過去があるんだな。
僕のグラスにビールを注いで、おじさんは小さくため息をついた。
「アンチャン…。おねーちゃんに惚れとるんか?」
「ええっ?!」
思いがけず図星をつかれた僕は、慌てふためいて手元にあった割り箸を床に落とした。
「やっぱりそうか。なんとなくは気付いてたんやけどな。最初のうちは、綺麗なおねーちゃんに憧れてるだけやと思うてたから、黙って見とったけどな…アンチャン、本気で惚れたな?」
おじさんは僕の方を見ずに、グラスの中で弾けるビールの泡を見つめている。
「僕は……ねえさんが好き、です。」
思いきってそう言うと、おじさんはまたため息をついた。
うつむいて表情はよく見えないけれど、おじさんは少し困っているようだ。
「俺はな、アンチャンの恋路を邪魔する気はないで。人の恋路を邪魔するやつは馬に蹴られて死んでまえ、言うやろ。ただな…。」
おじさんはおもむろに顔を上げた。
そして、僕の目をまっすぐに見た。
「いい加減な気持ちやったら、やめとけ。」
いい加減な気持ち…って、なんだ?
それは僕の気持ちの重さ?
理屈も打算もなく、どうしようもないくらい好きだと思うのは、いい加減な気持ちではないはずだ。
「可愛い女とイチャイチャしたいとか、ただ楽しいだけの恋愛がしてみたいんやったら、相手なんか他になんぼでもおるやろ。」
「そんなんじゃないです。僕はただ、純粋にねえさんが好きなんです。」
「アンチャン、好きな女にどんな過去があったとしても、もし身内とか自分の命を盾に脅されたとしても、その女の一生、背負えるか?」
「え?それどういう…。」
おじさんはグラスを並々と満たしていたビールを一気に飲み干した。
「それくらいの覚悟がなかったらな、好きな女は守れんっちゅうこっちゃ。」
なんだかやけにスケールの大きな話だ。
ドラマじゃあるまいし、実際にそんな事が起こるとは思えない。
「ちょっと飲みすぎたわ。そろそろ帰ろか。」
おじさんは苦笑いを浮かべて、ゆっくりと立ち上がり、ふらりとよろめいた。
「大丈夫ですか?」
「おう、大丈夫や。やっぱりちょっと飲みすぎたみたいやなぁ。」
背中を丸めて、おじさんは少し咳き込んだ。
今日は顔色も良くないし、夏風邪でもひいてるのかな?
「帰り、一人で大丈夫ですか?」
「大丈夫や、すぐそこやしな。アンチャンは心配症やのう。」
店の前でおじさんと別れて、駅に向かった。
改札口を通り、目の前のホームに入ってきた電車に乗り込んだ。
ちょっと飲みすぎたなんて、そんなはずない。
ねえさんと一緒に飲んでいる時は、今日の倍ほどの量のビールを飲んでもケロッとしているじゃないか。
さっきのおじさんの言葉と寂しそうな背中が、なんだかやけに気に掛かる。
おじさんの言っていた、忘れたくても忘れられない過去って、もしかして…。
叶わなかった昔の恋の事…なのかな?
誰に引き裂かれたのか、彼女が何を背負っていたのかはわからない。
ただひとつだけわかったのは、おじさんは今もその人を想って苦しんでいると言う事だ。
恋愛経験のない僕にも、おじさんの哀しみとかやるせなさみたいなものが伝わってきた。
だからと言って、僕とねえさんが同じ末路を辿るとは限らない。
おじさんが僕に本当に伝えたかった事は、なんだったんだろう?
次の週の日曜日も、ねえさんは来なかった。
どうしたんだろう?
もしかしたら、もう会えないのかもと思ったりする。
その日も僕は、帰りにおじさんといつもの居酒屋でビールを飲んだ。
おじさんは今日も顔色が良くない。
やっぱり体調が悪いんだろうか。
おじさんは枝豆を口に放り込みながら、僕の浮かない顔を見て笑った。
「今日もおねーちゃんに会えんで残念やったのう、アンチャン。」
「二週も続けて来ないなんて、どうしたんでしょうね。昨日は来てたんですか?」
「いや、来てへんよ。別に約束してるわけちゃうし、まあ、そんな時もあるわ。」
ねえさんが姿を見せない事、おじさんは気にならないのかな?
そもそも僕は、ねえさんが結婚しているかどうか、独身でも恋人はいるのか、何も知らない。
勝手にねえさんの事を独り身だと思っていたけど、もしねえさんに夫や恋人がいたら、完全に僕の不戦敗だ。
先週、ほんの少しおじさんの過去に触れたせいなのか、それともおじさんの調子が良くなさそうだからか、僕はおじさんが普段どんな生活を送っているのかも気になり始めた。
「おじさんは独り身なんですか?」
「そうやけど…それがどないかしたんか?」
「ひとりだと病気で寝込んだりすると大変でしょう。そんな時に頼れる人はいますか?」
「おらんけど、俺は独り身も長いしな。そんなもん、もう慣れたわ。なんや、アンチャン。俺の心配してくれるんか?」
「心配ですよ。とても健康的な生活を送ってるようには見えないから。先週から、なんだか顔色悪いですよ。」
「まあ、確かに健康的とは言えん。最近ちょっと調子悪うてな。」
やっぱり。
おじさんはまた咳き込んでいる。
「無理すると良くないですよ。もう帰って休みますか?」
「ああ…飯食うたら…。」
言葉も途切れ途切れに、おじさんはまた咳き込んだ。
そして、口元を覆っていたてのひらを見て、ギュッと握りしめた。
わずかではあるけれど、握りしめられたその手は、赤く染まっている。
「お、おじさん!血が…!!」
僕は慌てておじさんのそばに駆け寄った。
「たいした事ない…。悪いな、心配かけて。」
咳き込んで血を吐くなんて、たいした事ないわけがない。
「おじさん、すぐに病院に行きましょう。僕、付き添いますから。」
「大袈裟やねん。帰って寝れば、ちょっとは良うなるし、大丈夫や。」
「じゃあ、送っていきますから。」
「ホンマにアンチャンは心配症やのう…。」
おじさんのアパートは、居酒屋から歩いて5分ほどのところにあった。
木造の文化住宅で、表札も入っていない。
いかにも男の一人暮らしと言う感じの殺風景な部屋だ。
とりあえず、おじさんを布団に寝かせた。
すぐに帰るのもなんだから、また血を吐いたりしないか、もう少しだけ様子を見てから帰る事にした。
「おじさん、飲み物とか、何か必要な物があったら買ってきましょうか。」
「いや、大丈夫や。悪いな、気ぃ遣わせて。」
「何言ってるんですか、当たり前でしょう。」
おじさんは目を閉じて、何かを考えているみたいだ。
僕は殺風景な部屋の中をぐるりと見回した。
独り身だとおじさんが言っていた通り、他の人の住んでいる気配はない。
部屋の片隅には本棚があって、何冊かの本と一緒に、茶色い背表紙のアルバムらしき物が並んでいる。
あれは卒業アルバムかな?
うちの学校のアルバムも、確かあんな感じだった。
おじさんが何十年も前の卒業アルバムを大事に持っているなんて意外だと思う。
おじさんの物にしては、少し新しい気もするけど。
「今日はもう遅いし、帰りますね。」
「ああ…悪かったな、面倒掛けて。」
「気にしないで下さい。今夜はゆっくり休んで明日、必ず病院に行って下さいね。」
「アンチャン、オカンみたいやのう。俺の嫁にでもなるか。」
「冗談よして下さいよ。せめて無精髭とボサボサの頭をなんとかしてから言って下さい。」
「厳しいのう。アンチャンは面食いかぁ。」
おじさんは小さく笑った。
翌日からは仕事に追われ、定時で上がれる日は少なかった。
残業すると帰りが遅くなり、ジムには行かずまっすぐに帰宅した。
おじさんはどうしているだろう?
あれから病院には行っただろうか。
ちゃんと食事はしてるかな。
日曜日には少しでも元気になっていてくれたらいいんだけど。
もし日曜日に会えなかったら、アパートに様子を見に行ってみようか。
だけどこれまで、自分の事を話す必要はないと言っていた事を考えると、そんなお節介は迷惑がられないかとも思う。
もしおじさんが二週続けて来なかったら、アパートに行ってみよう。
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