さよならカナリア
九太郎
第1話
カナリアは妙な女の子だった。一見して彼女はとても痛々しい格好をしていた。三角巾で吊るした左腕はギプスで完全に固定されていたし、喉には包帯が巻いてあり、頬っぺたには白いガーゼが張り付けてあった。そういう視覚的な痛さだ。ギプスに固定された左腕を隠すように半分脱いだブレザーを肩から羽織っていたのだが、隠すにはあまりに白く、ブレザーの紺によく映えた。もしかしたら黒いストッキングの下には別の怪我があるのかもしれない。そう思った。
彼女は中学校の制服を着ていた。夕方の六時でありこの近くに中学校はなかった。彼女の年齢と制服のイメージからどうしても活き活きとした若者を連想してしまい、痛々しいカナリアとのズレに思わずフェチズムを感じてしまった。カナリアはそんな僕の思案にも気付かず、そっとヘッドホンを外した。
そう、巨大なヘッドホンをつけていた。彼女の小さな頭の、両側頭部を殆ど覆ってしまうような立派なヘッドホンだ。家の中ならまだしも外で使うにはあまりにも危険な良く出来た代物だった。
案内図を見ていた僕はそんなカナリアの妙な印象に些か驚いていた。カナリアは僕のカーディガンの裾を引っ張り、オーケストラに連れていくよう言った。……いや、言っていない。正確には、そう書いた紙を僕に渡したのだ。『オーケストラをやっているミヤコホールに連れて行ってくれませんか?』と。
彼女は終始びくびくと怯えていた。初めて野生に触れる血統証付きの子猫みたいだった。僕の顔をちらちらと盗み見て、しかし裾はぎゅっと握りしめたままだった。本当はこんなことしたくないのだ、と怯えた目が言っていた。誰にも頼るつもりはなかったのに、みたいな。
よく見ればカナリアはかなり可愛い顔をしていた。まだまだ幼さが残るところはあるものの、顔のパーツはどれもよく出来ていたし配置だって完璧だった。大きな潤んだ瞳はとても魅力的に映っていたし、桃色の頬や小さな唇も綺麗だった。可愛いな、と僕は改めて頷いた。
紙に書いたメモを渡されてすぐ、ああ、喉を怪我して声が出ないのだな、と僕は思った。僕が思うだけであり、人によっては別の解答を出すのかもしれないが。そう考えるのが無難だと思いまた頷いた。こんなに頷いてばかりだと女子中学生を見定めている変態だった。
「構わないよ」となるべくゆっくり喋った。それでもカナリアは不思議そうな顔をした。僕は昔から少し発声が悪い。口を少ししか動かさないから相手にとって聴き辛い声になるのだ。幼稚園の頃などそれで苛められたこともある。喉を鳴らして調子を整えてからもう一度言った。「僕も、行こう、と思っていたんだ」
なんせ、オーケストラのチケットとビラに印刷された地図を眺めていたんだから。僕は左手に持っていたチケットを振ると、カナリアは少しだけ安心したように口元を緩めて僕のカーディガンを離した。どうするのか、と思って見ていると、ヘッドホンのコードを指先でくるくると丸めて恥ずかしそうに僕を見ていた。ふむ。
「君は、怪我で、声が出ない、んだね」
カナリアは頷いた。頷き、案内板に胸ポケットから取り出したメモ帳を押しつけてそこに中学生らしいシャーペンで何かを書いた。『声、少し出るけど、変な声になるから、出したくない』
僕はポケットから電子型のメモ帳を取り出し、指先で小さなキーボードに打ちこんだ。『構わないよ。僕も声が小さい方で馬鹿にされてきたから、今ではあまり喋ることが好きじゃない』
『それかっこいいね。大人はみんな持ってるの?』カナリアは目を輝かせてメモ帳にそう書いた。
『みんなは持っていないかな。僕は仕事の都合上。かっこいいだろ?』
カナリアは何故か嬉しそうに微笑んだ。その幼い微笑みを見るとついこちらも微笑んでしまう。だが笑っている場合ではない。これは困った事態になったなと腹の底で思った。大問題だ。
そんな僕の様子に気付かずカナリアは僕の背中にメモ帳を押しつけてまた何かを書いた。なんて人懐っこい奴だ。
『あなたのお名前は?』
「マキノ。君は?」
『金糸雀』
「カナリア」
『読めるんだ』
「まあね」
紙と口のたどたどしい会話を終えても問題が解決に至ることはない。むしろ動揺だけが大きくなった。なるほど、やはりな、と僕は心の中で一人ごちだ。
「一つ、残念だが」僕は諦めて彼女の目を見詰めてゆっくり言った。「実は僕も、“迷子”というやつなんだ」
その時の、カナリアの「使えない人……」という呟きは、声が無くたって、流石に聞こえたよ。
彼女はいつも怒っている。不満を漏らす。僕の恋人の話だ。
彼女は可哀想な人だ。辛いことがあれば全てを周りに押し付けて、悪いことは全て他人のせいにした。私は悪くない。何も悪くない。そういうことを考えた末に言ってしまう人間だった。泥水の中から一つの宝石を拾うようにして自分の逃げ道を見つけ、身勝手な正義を手中に収めようとする悪い人だった。彼女の論理的で誇張された言い訳には不思議と納得してしまう。
それは彼女の喋り方がいつも真に迫っていたものであることや、彼女の美しさが根拠となり得る悲劇性を有していることに繋がる。美しいものと悲劇はいつだって表裏一体だ。悲劇があるから美しさは際立つ。彼女はそれを本能的にわかっている。だから僕は離れることが出来ない。
僕は白馬の王子というガラではないが、悲劇のヒロインに恋をする靴磨きの子供という役柄なら、上手にこなすことができる。僕は彼女のそういう身勝手なところに振りまわされていたかったのかもしれないし、単純に美しい彼女の近くにいれることに対し、他の男たちに優越感を抱いていたのかもしれない。
久々に口を動かしたからひどく顎がだるかった。僕は大学を卒業してから四年間、ろくに友達も作らず、人と関わらず生活してきたのだ。自分で言っていておかしな事態だと思う。ここで顎を撫でるのもわざとらしい行為に思えて、そっと僕はマフラーに口元を埋めた。
夜の入り口はもう肌寒く、僕はこれから来る冷気を思い、身を震わせた。それほど厚着しているとは思えないカナリアにそんな様子はなく、健常の右手で僕の左腕の裾をちょいと掴んで歩く。ちょろちょろと飼い主の機嫌を窺うような具合に僕を見上げては不思議そうな顔をしている。気になりカナリアのほうを見ると、別に恥ずかしがるわけでもなく、僕をじっと見つめ返してくるので、こちらが照れてしまう。何だ?と首を傾けると、ふるふると髪を揺らして首を振った。
土地勘の無さから案内に従っても目指していた場所に着けない。困ったな、と思いスマホの地図アプリを開いた。最初からこうすればよかったのだが、どうにも気乗りしなかった。こうやってGPS機能を利用していると、いつも誰か監視されているような気がするのだ。それに加え、スマホをつけると大抵仕事の連絡があるのだ。
距離を確認すると、ミヤコホールはそう遠くない。
「どうした?」僕はまた訊ねた。カナリアはスマホを見詰めていた。そして僕の顔を見て眉をひそめた。どうやら女の子と二人なのにスマホに意識を向けるなと言いたいらしい。思春期のマセガキが背伸びしやがる。「違う。地図でミヤコホールの場所を確認していたんだ」
カナリアは首を捻った。カナリアに何かを訊ねる時は、イエス・ノーどちらかで返事ができる問いにしなければ会話が滞るなと考える。長い言葉はおそらく上手く伝わらない。
ほら、と僕が見せた画面に映るここら一帯の地図に、カナリアは驚きの表情を見せる。当然地図を見るのが初めてなわけではなく、スマホにそういう機能があることを知らなかったようだ。
スマホの画面を見詰めたまま、カナリアは周りの建物を見詰め、また画面を見詰め、自分の場所で遊ぶようにして辺りを駆け回った。そのはしゃぎように少しだけ笑みを零してしまう。まるで幼い子供だ。ヘッドホン。怪我。スマホを持っていない、中学生の、女の子。
「カナリア、君は友達がいないのか?」
はしゃぐ彼女の背中に問いかけてみても、当然返事はなかった。
僕は二年前から小説を書いていて、殆ど売れはしないけれど、一人で食べていくことは出来て、彼女は僕が本を出している会社の編集者だった。
「本が嫌いなのよ」彼女は初めて会った時言った。「本が嫌いなの。もう見たくないわ。紙に文字を書いてそれをまとめるだなんてナンセンスだわ。本当に嫌になる」
「じゃあどうして編集者なんてやっているんですか?」
「他に好きなものがなかったのよ。本が唯一好きだったの。仕事になって嫌いになったわ。でも生きていくためには仕事をするしかないの。わかるかしら。この世で唯一幸福だと思っていた存在が地獄になるということが。凄まじいわよ。もう誰も私を助けてくれないのよ。あなたもそうならないようにね。それであなたの書いたものなんだけど、私は嫌いなんだけど本になるわ。おめでとう」
心の底から喜んだ、何百回目かに書いた短編がある賞を獲った出来事は他人からすればこうもつまらない出来事だったのか。僕は頷いた。彼女とはそれから何度も会い、担当の編集者になり、ご飯を食べるようになると愚痴に付き合わされ、そのうちホテルに泊まるようになった。僕の同年代と比べるとやはり張りの無い体だと自嘲するし、若い子のほうがいいんでしょうと、そういうことばかりを言う。どれもこれも彼女の言葉は結局皮肉でしかない。皮肉を言うことで自分を誤魔化しているのだ。真実なんてどこにもないのだ。そういう生活をしているうちに、彼女自身に真実が無くなってしまったのだろう。
「あなたのことはとても好きよ。まあ私結婚してるんだけどね。あなたと私はとても相性がいいの。偶然だけどね。本当、恐ろしい偶然だわ。私たちが出会ったことは、中々ない、偶然。私があなたの担当になったのだって、つまりはそういうことだもの」彼女は表情を一切変えずにそう言った。
目を細めることも、眉を寄せることも、鼻の穴を膨らませることも、当然、口元に微笑みを浮かべてなんて、ありはしないのだ。やたらと妖艶的だったと思う。彼女が手を動かしたように、僕も全くの無表情で手を動かし「ありがとう」と言った。無表情。本当にそうだったのか、今は不思議と思い出すことが出来ない。
「それにしてもあなたは妙な話を書くのね。母親に捨てられた子供の話だなんて、おかしな話。そんな風にして育った子供はどんなことを思うのかしら」
「小説ってのは大抵おかしな話だと思いますよ」
と僕は笑った。彼女に対して初めて笑ったような気がするのだが、どうして笑ったのかよくわからなかった。
僕らがミヤコホールについた時はまだ六時だった。夜の部の開演は七時からであり、一時間以上も余裕があった。どうしたい。とカナリアに訊ねると、相変わらず僕の顔を、じっと見つめながら何かを考え、ゆっくりお腹を撫でた。腹がすいているのか。うん。
こういう会場にあるレストランは往々にして高いものだが、ここもそれなりの値段だった。普段使うあてもない金である。カナリアに好きなものを好きなだけ頼め、と言うと初めて尊敬の眼差しを頂いた。悪くない。ただ僕らは少しだけ目立っていた。
カナリアは怪我していたし、制服を着ていた。僕はスキニーにカーディガンにマフラーとあまり出来た格好ではなかった。それにカナリアと僕とでは兄妹と言っても年齢が些か離れているような気がする。
『マフラーとらないの?』
『寒がりゆえ』僕はメモ帳にそう打った。
カナリアはハンバーグステーキを頼み、僕はオムライスを頼んだ。店員がくすりと笑った。僕は無視をし、カナリアは気付かなかった。カナリアはまた何かを記し、僕の方に見せてきた。
『トイレ』
どうぞ、と僕は手の平を差し出した。
カナリアは例の巨大ヘッドホンを装着して立ちあがった。店の奥にあるトイレに向かう怪我人の姿をしたカナリアを目で追っていると、親切な老婆がカナリアに向かって後ろから何か声をかけた。カナリアにその声は届かず、ヘッドホンによって遮断されたのだと老婆は視線をテーブルに戻した。
なるほど、誰にも声をかけられたくないなら便利だな、と僕は水を飲みながら一人で納得した。僕もああすればわずらわしい風俗の勧誘なんかを堂々と無視できる。
タイミングを見計らって、僕もトイレに立った。洗面所は男女別トイレの外にあり、そこで待っていると、女子トイレから現れたカナリアがびくりと震え怪訝な顔で僕を見た。
『お婆さんが君の怪我を気にしていた。すぐそこの席だ。帰りに頭を下げておけ』
電子メモの画面にそう打って僕はそっと彼女に見せる。カナリアは驚いた顔をし、すぐヘッドホンを外した。眉を寄せてあわあわとしだしたので、とりあえず手を洗うよう促した。鏡に映る僕とカナリアは完全な他人にしか見えない。親と子の年齢ではない。兄と妹にしてはあまりにかけ離れた顔つきだ。
ふと、僕は何をしているのだろうと思った。
「大丈夫。きっと、気にしていない」
僕は鏡の中のカナリアを見て言った。彼女は慎重に頷いた。まるで自分自身に言ったような言葉だ。僕もそっと頷いた。
「手を出せ」
濡れた右手をハンカチで拭ってやると、少しだけ顔を赤くして俯いた。そうだ、そうしていれば君は可愛い。なんてことは言わない。
僕の尿意を無視してカナリアはカーディガンの裾を引っ張った。老婆の前に立ち、ぺこりと頭を下げると逃げるようにして自分の席に帰ってしまった。後始末を頼むということか。なんて奴だ。
ところが僕はそんな出来た大人ではない。老婆の前に立つと一度おじぎをしただけだった。
『マキノ何歳?』
トイレから帰って来た僕を待ちうけていたのはその質問を書いた紙だった。
「二十六。カナリアは?」
カナリアは少しだけ斜め上を見て、『十六』と書いた。
『嘘をつけ。お前が今着ている制服は中学の制服だ』僕は欠伸をしながらそうメモ帳に打ち込んだ。
『なんで知ってるの? 変態?』
「通っていたから」
『女子中に?』
『……僕の頃は共学だったんだ』
しまった、失敗した。と思っていると良いタイミングでウエイトレスが食事を運んできた。先ほど注文をとりに来たウエイトレスとは別のウエイトレスであり、僕の方にハンバーグステーキを、彼女の方にオムライスを置いた。
「頂くか」
『違う!』怒るカナリアについ笑みがこぼれた。そうだな、逆だな。
最後に彼女に会った時、やはり彼女は怒っていた。そして何かのことを悪く言っていた。彼女は先日事故に遭い、右足を折ってしまったのだ。まだ一人で生活できるレベルではないので、近くの大学付属病院に入院していた。彼女の運転する、スピードを出し過ぎた車と、赤信号を無視した車とがぶつかったのだ。生きているだけマシだった。
「もう嫌だわこんなの。ねぇあなた。あたしこれで離婚するかもしれないのよ。知ってる?」
「知らないよ。初めて聞いた」
「今まで不満が溜まっていたんですって。それでお前はろくに運転もできないのか、って怒られてね。もううんざりなんですって。あたしは悪くないわよ。だってスピード違反なんて誰だってやっているじゃない。たまたま事故に遭っただけだし、第一向こうのほうがひどいわ、赤信号ぐらい守りなさいよ」
「…………」
「私って面白いわ。何をやっても上手くいかないの。結婚だって、子供だって。全然上手くいかないのよ。子供だって私のことが嫌いなのよ。最近何をやっても悪いことばかりで、笑っちゃうわ」
「…………」
「ねえ、私離婚するのよ」
僕は、目を瞑って首を掻いた。伸び始めた後ろ髪が、襟首を撫でて痒かった。そのまま、目を瞑ったまま二度と開きたくないような気分になった。僕はパイプ椅子に腰かけ、彼女はベッドの上で足を吊っている。個室の病室には僕たちしかいない。そしてそこには沈黙があった。僕は首を掻いていた。
行こうかカナリア、と言うとカナリアは一度頷き、チョコレートパフェのスプーンをグラスの中に入れた。からんと音がした。結局左腕が使えない彼女のためにハンバーグを六等分にしたり、水を新しく入れてやったり、テーブルから落としてしまいそうな皿を慌てて制したりと忙しかった。
肉に喜ぶカナリアはそんなことも気にしてくれない。まだまだ可愛い女の子だ。最近お魚ばっかりだったから、パフェを食べながらそんなことを書いた。
ふと、ブレザーの内ポケットをまさぐるようにしているなぁ、と思ったら財布を取り出したので焦った。
「流石に格好つけさせてくれよ」
売れない小説家の癖に?とじっとりした悪戯的な目で言われた。言うんじゃなかった。
会場へ向かう途中チケットを確認すると、僕がC席、彼女はS席だった。
「高かっただろう」驚いた僕にカナリアは首を振った。
「では、ここで、さよならだカナリア。帰り道、わかるか?」
カナリアは大きな瞳に僕を映して首を横に振った。困ったな。あまり遅い時間に中学生と歩いているところなんてあまり見られたものではない。僕は頭を掻いた。カナリアはチケットをひらひらと見せ、それを顔の前に止めると、僅かに指を動かした。スッとそれは二枚に分かれた。最初から二枚重ねていたらしい。目尻を上げて口元を緩めながら差し出した。瞳が「プレゼントだよ」と言っていた。
「いや、嬉しいが、いいのか。S席だぞ」
加えて、隣同士だった。それは、本来別の人間の席だったということだ。カナリアにとって大切な誰かの席だった、はずだ。
カナリアはチケットの片方を僕の胸に押し付け、そして手を引いた。早く行こう、と。このタイミングで手を握るなよ。なんだか辛いじゃないか。
席に着く。二階の真ん中あたりだ。僕とカナリアは少し落ち着きがなく辺りを窺っていた。演奏するのは世界的に有名な楽団であり、それなりに人気があるのだろう。C席に集まるのはミーハーそうな若者か、知った顔をしている壮年の夫婦たちだ。それに比べてS席の人たちには落ち着きがある。全くもって自分には場違いだと思った。まだポルノ映画を見ているほうが似合っているような気すらする。いや、カナリアには早いんだけど。
演奏が始まった。指揮棒を見詰める。指揮に合わせ低い獣の唸り声のような音の重なりが会場内を埋め尽くし、僕らはその渦の中に溺れた。高級な音楽には縁が無い。良さも悪さもわからない。だが、心地良くなりつつある。圧倒的な芸術は有無を言わさぬ暴力に近い力で僕の心をさらっていく。そういった現象が起きている。僕の現実と心が乖離していくような、そんな現象だ。目を瞑る。芸術だけじゃない。暴力はいつだって僕らと紙一重で存在している。何かを強制する力は、人に対して大きく作用する。
僕が小さい頃に受けた迫害だってそうだ。幼い時だけではない、人によっては生まれる前からそれを強いられた者だっているはずだ。運命と置き換えてもいい。親を選べない子供。体の一部を失った者。そういった強制力は人に大きく作用する。
音は徐々に僕と一体化してその姿を無くし始める。体と音楽が融合し、心だけが浮かび上がる。大人になった僕は思う。二十六年しか生きていないけれど、そういう人たちは強くあってほしい。なんてことを僕は思う。いや願っているのだ。恨んだり、憎んだりしないように、強くあってほしい。
僕は、カナリアとの会話を思い出す。ついさっきのレストランだ。
『金糸雀だなんて、喋れないのに変でしょ?』
『そんなことはない』
そんなことはない、と口の中で呟く。
『どうして?』
どうして。
『カナリアは、鳴こうが鳴くまいが、カナリアに変わりはない。そういう鳥だっている。高級志向なカラスだっている。人に媚を売らないハトがいる。ベジタリアンなワシがいる。鳴かないカナリアもいる。そういう鳥たちがいる。変なことじゃない』
『変だよ』
『変じゃない。目が見えない人がいる。耳が聴こえない人がいる。足のない人がいる。喋れない人がいる。変じゃない。変じゃないが、強くあるべきだ』
『どうして?』
『それを理由に人を恨まないでほしい。悪いことじゃないんだ。だから、人を憎んじゃ駄目だ』
『……でも、やっぱり変だよ』
『仮に変だとしても、君はかなり可愛い女の子だ。将来は美しくなる。美しさと悲劇性はいつだって表裏一体だ。君は今よりずっと魅力的になる。約束する』
『恥ずかしいこと言うね』
『小説家ってのはそういう職業だよ』
『ありがとマキノ』
『どうしたしましてカナリア。悪い男に引っかかるなよ。強く生きろよ。君は綺麗になる』
一曲目が終わる。拍手に目を開けると、隣に座るカナリアが静かに泣いている。僕とカナリアだけが拍手を送らない。いや、正確に言うならば、僕は送らない、彼女は送れない。左手が骨折しているから、という理由ではない。本当は無理やりにでも動かして彼女はするだろう。だが涙を流して周りが見えないことや、純粋にその行為に馴染みが無いことから、動きがそのまま止まってしまっている。
僕は想う。この女の子の今の気持ちを想う。辛いことが弾けてしまったのだろうか、それとも嬉しいのだろうか。彼女はここまでとても勇気を出して来たのだろう。本当のことを言えば笑われるに違いないと臆病になりながらやって来たのだ。恐怖を押しつぶしてでも会いたい人がいたのだ。
全ての演奏が終わり、僕らは会場をあとにした。外に出ると既に日は完全に沈み、闇が辺りに広がっていた。僕は帰ろうと言いだすことが出来なかった。カナリアが俯いたまま僕の手を握っているからだ。しかたないなぁ、と思い、カナリアの頭を撫でながらそれを待つことにした。寒さも強くなっていたので、僕は巻いていたマフラーをカナリアに譲った。
しばらくすると、入口から一人の男が現れた。少し太った、人の良さそうな男だ。相当慌てて出てきたのか、遠くからでも一見して誰かを探していることが明白だった。辺りをきょろきょろと見回している。植え込みに腰掛けたカナリアが立ちあがると、男に向かって駆けだした。
「パ……パ……」
その声は、怪我をしたゆえに、異常をきたしたような声ではない。掠れもしない、響きもしない、その不安定な声は、音色を知らぬ者だけが放つ不思議な音域の声だ。浮かぶことも沈むことも、誰かの心に溶けることもない。
男はそれに反応して、カナリアに気付く。顔いっぱいに喜びを浮かべ、駆け寄るカナリアを抱き締めた。ぎゅうと強く抱きしめ、温もりを十分感じるとそっと離し、胸の前で両手を動かした。カナリアも同じように動かした。僕はそれを見て、呟く。最初からわかっていたつもりだが、こうもはっきりと見せられるといささか驚いてしまう。
「カナリア、君は耳が聴こえないんだね」
二人が行っていたのは、手話での会話だった。
「子供? どうしたのよ急に。聞きたいの? 構わないけどあなたにとってそれほど楽しい話じゃないわよ」
構わないよ。聞きたいんだ。
「今は十四歳の中学生。耳が聴こえないの。生まれつき。気付いたのは二歳の時だったんだけれど、お医者さんの話じゃ多分生まれた時からそうなんだろうって。私も旦那もおかしいところなんてないのに、不思議な話だわ。もしかしたら、旦那の母親の耳が悪いからそういう遺伝があるかもしれないわ。でも愛しているのよ。だって可愛いんだもの。学校は特別学級に通っているわ。名前は、金糸雀。こうやって書くの。そう、これでカナリア。可愛い名前でしょう。旦那が好きなのよ。とても好きなの。綺麗な声で鳴くのよ。そういう綺麗な子に育ってほしいって名前なのに、喋ることが出来ないのよ。音を知らないから。喋ろうと思ったら喋れるんだけどやっぱり私たちとは少し違うわ。旦那はやっぱりショックだったみたいね。旦那はチェロを弾く職業……」
チェロ?
「そうよ、その世界じゃちょっとした有名な人なのよ。娘に自分の演奏を聴かせるのをとても楽しみにしていたのに、それも叶わないのよ。流石にショックみたいね。そういえば、あの子が原因だったのかしら。私たちの仲が悪くなったのって。いやね、そういう安直な理由で仲が悪くなるだなんて。旦那は演奏のため世界中を回っているから、会う機会なんて殆どないんだけど。娘はどうなのかしら。やっぱり寂しいのかしら。私も仕事上あまり会えないし。もっと大切にしてあげるべきなのはわかっているんだけど」
今思えば、僕は彼女をとても愛していたのだと思う。駄目だとわかっていたのに、踏みこみ過ぎたのだ。彼女の全てが欲しくなってしまったのだ。僕は彼女の旦那を見るため一切興味が無いオーケストラのチケットを購入し、彼女の娘を見るため女子中学に張り付いた。旦那に関する情報をネットで集め、聴覚障害者について調べた。
一方で僕はただ、自分の立ち位置を確認したかったのかもしれない。彼女には一つの家庭があり、そこは僕の踏みこむことが出来ない場所だということを知りたかったのだ。彼女の生活を壊すつもりなんてなかった。ただ知りたかっただけだ。彼女は結婚している。旦那がいる。娘がいる。編集者。僕は売れない作家。それだけだ、と強く心に刻んでおきたかったのだ。
昔のことを思い出す。五歳の時だ。母親が僕を捨てようとした時だ。母親が僕を愛したことなど一度もなかった。未婚のまま生まれた僕は母親にとって重荷でしかなかった。遊園地の鏡迷路に僕は母親と入った。どこを見ても自分を映す四方八方の鏡の中で僕は泣いていた。僕は一人だった。消えた母親を追っても僕しかいなかった。他人に会えたと思ってもそれは結局僕でしかなかった。僕は怖くなって泣いていた。鏡の中の僕を見るのが怖かった。きっとそいつは僕を見て笑っているのだと思った。笑い声が確かに聞こえた。口から響くその気味の悪い旋律が耳に張り付いた。僕はその時とても大切なものを失ってしまったのだ。
思い出そうとすればするほど、彼女と母親の姿が重なって見える。そんなはずはないのに、幻想のように張り付く。僕は彼女の家庭の崩壊を静かに願い、彼女を手に入れたいと思う一方で、彼女を介して母親に復讐したかったのだろうか。奇しくも母親と同じ立場にある彼女を、僕は。そんなありえない方法で自己満足に浸って、何がしたいんだろうか。
耳が聞こえないということが、十四歳の女の子にとってどれほど辛いものか想像するに容易い。周りが女だらけであれば、その迫害もより一層のものがあるだろう。事実、僕が彼女を監視していた時期、彼女は苛められていた。彼女はそうして、他人にその事実を気取られることに怯えるようになった。
僕と初めて会話した時も、彼女はそのことを告げなかった。迫害や奇異の目が怖かったのだ。ヘッドホンをつけることで、後ろから声をかけられた際の言い訳をなくし、喋るときは必ず唇を見て、言葉を探った。読唇術という奴だ。
だってそうだろう。耳が聴こえないのに、耳に頼るオーケストラを観に行くだなんておかしな話だ。カナリアにとってこれはとても勇気のある決断だったのだ。尖った性格の母親から逃げだし、父親から送られてきたS席のチケットだけを頼ってここまで来た。
だが道に迷ってしまった。地理にも疎く、スマホも持っていない、加えて時間が遅くなれば制服姿の自分は補導されてしまう。早急に手を打つ必要があった。相手に気取られることなく。偶然にも彼女は母親が起こした事故によって喉を怪我していたし、喋れなくても不思議じゃなかった。口を見ていれば相手の言う単語はわかる。それを繋ぎ合わせればいい。最悪聞こえなかった振りをすればいい。ただ、一つだけ彼女はミスをおかした。彼女が声をかけた相手が、全てを知る母親の不倫相手だったということだ。
今考えてみても、僕とカナリアが出会ってから、そこに音は一切ない。僕の声もカナリアの声も、うるさい車の音も、鳥の羽ばたく音も、何もかもがない。オーケストラの演奏だけが僕の耳にある。僕とカナリアの世界に、音はない。
僕はスマホを取り出してメールを打つ。少し悩んだ末、今いる場所は伏せ、カナリアのことと旦那のことを淡々と書く。多分彼女はひどく焦っている。自分の実家に預けたはずのカナリアがいないことで、無理やり病院を抜け出そうとしているかもしれない。
それは少し面白い光景かもしれない。僕は旦那に連絡するよう、打ち、メールを送信した。もうこれで今後は彼女とも仕事の付き合いだけになるんじゃないだろうか、なんてことを考える。それでいいのだろう。少なくとも、僕のようにカナリアが母親を失う必要などどこにもないはずだ。
カーディガンを引っ張られる感触にスマホから視線をあげるとカナリアがむすっとした表情で僕を見ていた。ついでに父親も僕を見ていた。こうして並べてみると口元が似ているな、と思う。カナリアは父親に向かって嬉しそうに『マキノ』と書いたメモ帳を見せる。
「すいません。連れてきてもらったみたいですね。いや、大変だったでしょう。この子は普通の子と少し違いますから」
父親はそう言って僕に向かって頭を下げた。いや、とんでもない、と思いながら僕は頭を掻いてカナリアを見る。カナリアは『ごめんね。実は耳が聴こえないの』とメモ帳で口元を隠しながら申し訳なさそうな顔をした。僕は「気にするな」と言う。
その光景を見て父親はひどく不思議そうな顔をした。僕はカナリアの頭を軽く数度撫でると父親に向かい、
「すいません。昔、精神的に辛いことがあって、それから声が出なくなってしまったんですよ」と手話で言った。これにはカナリアも吃驚したらしく、馬鹿!と背中を叩いてきたので、したり顔で微笑んだ。
さよならカナリア 九太郎 @999_taro
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