聖者

 暑い日差しが照りつける駅のホーム。郊外行きの下り電車が到着した。平日の昼間、その割には混んでいた。

 人混みと他人の存在感。冷房の効いた車内でそれがいや増していた。しかし、二駅過ぎたら急にすき始めて、空いた席にゆったりと腰を降ろす。次第に車窓は緑色の風景を増やしていった。

 憂鬱

 ああ、今が真夜中ならいいのに。

 移ろう景色に、ふとそんな言葉が思い浮かんだ。感情の漏出をせき止めて、折り合いをつけた。


 ふと、塩素の匂いが微かに鼻に付いた。たちまち脳裏によぎる光景。

 プールサイドのオーバーフローに浮かぶ虫の屍骸、

 水の中を小刻みにジャンプしながら進む赤い水着、

 平泳ぎでつい深く潜りすぎ、鼻に水が入ってむせ返り、あわてて浮上した。

 女の肩に蛾がへばりついていた。


 目の前に、若い青年が行儀よさそうに座っているのに気付いた。次の駅に到着すると、乗り込んできた乗客がその青年の横に間を空けず座った。初老の男性で、神経質そうに時折メガネをはずして拭っている。他にも席は空いているのに変だな、と思っていると、あろう事か、その座った人物が急に喚きだした。何事かと思っていると、ポケットから小さなナイフを取り出し、逆手に持ち替えた。

 通り魔だ! 大声でわめく人は刃物を取り出して大きく振りかぶった。隣の若い男性は全く気付いていない。惨劇はそのまま実行された。

 めった刺しだった。この前途有望な若者は、人生の苦しみの積み重ねがとうとう溢れて他人に危害を及ぼすことに決めたこの哀れな初老の人物の標的になってしまったのだ。

 ところが、何事も起こらぬかのように若者は平然としていた。それは些かの緊張感も感じさせなかった。悠々と読書を続けていた。

 日常と非日常のコントラスト。

 返り血を浴びながらあくせくと作業を繰り返す人。

 されるがままに平然を保っている人。

 絶望と希望。

 叫びと祈り。

 沈黙、光明…

 聖者だ。直感的にそう思ってしまった。彼の隣に座っているのが聖者だったから、その聖性の臭気に触れてしまい、狂気に駆られたのに違いない。その人は、手足をバタつかせながら、なおのこと凶行に及んでいる。返り血を噴水のように浴びていた。それはますます酷くなり、果てしなく続くかと思われた。

 次の駅に着くと、青年は静かに立ち上がって下車して行った。趣味のよい腕時計をしている方の手に数冊の本をブックバンドで束ねて持っていた。

 めった刺しにしていた人物は死んでいた。安らかな顔だった。彼の逆手に持ったナイフは自らの心臓こころに突き立てていた。

 一九九二年の初夏の出来事だった


 夕暮れの街の営みを見てなんだか悲しくなった。

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