転落

 ある日歩いているといつもあるはずの道がなくなって、

 落ちた。


 最悪の事態は何の必然性もなく起こる。空は晴れて星が美しく感じられた。そんな日が月に二三度ある。だから上を向いて歩く機会も多かった。しかし、原因はそこに起因しない。歩いているとなんとなく歩調を変えてみたい気持ちになった。左足から踏み出した。それから左足が気になって仕方がなかった。そこで一旦両足を揃えて立ち止まり、右足から進み直した。そしてちょうど三度目の右足が下ろされようとしたとき、黒い何かを認めた。それは虫のように感じられた。とっさに踏み潰すことをためらった。足をずらして下ろした。ところがそこにあるべきはずのものがなかった。足はそのまま吸い込まれるように沈み、体勢と重力を失った。一匹の虫を助けたがために招いた災難(はたして虫はそこにいたのか)

 まっさかさまに落ちていったのだが、体が自由落下する感覚のほかにはそれほどの恐怖は感じなかった。視界は暗く、自分が落下することを確かめる対象物を見つけられない。あくまでも正気だった。だから落ちながらも一瞬のうちにこんな考えをしていた。

(転落死する者は地面に叩き付けられるまでには気を失っているという。だから痛みなど感じる間もなく、取り返しの付かない状態になった時にはもう彼岸の彼方に旅立っているのだ。少なくとも落ちるまでに気を失うことができるだろう)

 そのようなことを考えるうちに徐々に……いや、急激に地面は迫っていた。しまった、と思ったときにはすでに遅く、信じられない痛みが我が身を襲った。脳天から叩きつけられ、その痛みをリアルに味わった。


 悲鳴を上げた。しかし、当然即死であるから悲鳴などあげられようはずもない。そう考えるまでに時間はかからなかった。気付いた時痛みは失せていた。それなのに声を出して叫んでいる自分を妙に感じたのだった。

 寝床から体を起こして、暗い部屋で独り一点を凝視している自分がそこにあった。

(夢だ)

 何気ない眠りの中で一瞬の恐怖を味わっただけだ。ただそれだけの事だ。まだ強い心臓の鼓動もやがて落ち着きを取り戻すだろう、と。一服するべくいつものごとく手探りでタバコに手を伸ばした。しかし、ないので、立ち上がって電気を点けようとした。

 うろたえた。まず明かりのリモコンが見つからずに暗い部屋をうろついた。すると顔に紐が当たるのを感じて、それを引っ張ってみた。電気が点いた。

 明るくなると、部屋そのものが自分の知らないもので溢れていた。部屋の匂いにも違和感を感じる。他人の部屋だ。そう思った次の瞬間、彼の脳は記憶の補正をし始めて、この部屋の主にふさわしい人物に変えていった。もはや、事態は異常でなくなっていた。

(夢ではなかったんだ)

 こういう思いが束の間生じてすぐ消えた。彼は新しい世界でまた生きていかねばならないのだ

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る