第8話

 ……何故、さぶに恐れ入る? 恐ろしい、の間違いじゃないのか? 気持ち悪い、も有効だよ。


「矢追さん、今のうちに徒無一佐を追い掛けましょう!」


 俺に押し倒されたままの倉橋三佐は、俺を押し退けて立ち上がる。

 実は密かに彼女の柔らかい肉感を楽しんでいた俺だったが、少し口惜しがりつつ立ち上がり、徒無の後を追い始めた。

 俺達が研究所の玄関を飛び出したのと同時に、戦闘ヘリAH―1Sは飛び立った。

 ヘリポートの周りには、逃走する徒無に叩きのめされて気絶している自衛隊隊員が累々としていた。

 ヘリのローターが巻き起こす突風に眩みつつ、その進行方向が新宿都心である事を知ると、俺は最悪の事態にある事を悟った。

 他にヘリはないのか、ヘリは!?


「無いわ。元々ここは、ヘリコプターが常駐出来る様な場所じゃないのよ。

 桜木の偽造申請を受諾したのは、こちらの動きを悟られない為に、徒無一佐にごり押しされて仕方なく――」


 ちいっ、ヘリの事も徒無の意中だったわけか。あいつ、只の筋肉だるまじゃなかったな。

 仕方ない。非常に不本意だが。――さぶ、カム・ヒア!

 俺の呼び声と共に、さぶは研究所の玄関を『アブドミナル・アンド・サイ』のポーズで粉砕して飛び出して来た。


「何ですかぁ、兄貴ぃ!?」


 俺達を乗せて、ここを飛び立ったあのヘリを追い掛けろ!


「いえっさぁぁっっ!」


 了解するなり、さぶは俺と倉橋三佐を上空に放り投げる。

 俺を右肩、鳥肌びっしりでビビりまくる倉橋三佐を左肩でがっしり受け止めたさぶは、新宿方面へまっしぐらに駆け出した。


 そう、『まっしぐら』。


 闇天を駆ける戦闘ヘリを追っ掛けて、一直線に。

 たとえ、その進行方向に十階建てのビルがあろうが、さぶは平気で壁を素足で駆け上がり、飛び越して行く。

 案の定、左肩の倉橋三佐は2回目であるにもかかわらず恐慌を来していた。

 さぶのこの非常識な突進振りは、今なお絶叫系アトラクションマニアの中でも高い評価を受けている『浅草・花やしきのジェットコースター』に匹敵するスリルが味わえる。

 あの、レールの直ぐ周りにある民家に、いつ突っ込んでもおかしくない緊張感が、この肉だるまをこき使えば手軽に味わえるのだ。

 結構これは壮快なンだが、慣れていない者には酷い拷問なのかも知れない。

 実際、左肩に居る倉橋三佐は、半分あっちの世界にイッているみたいで、虚ろ気な眼差しはあさっての方向を見ていて、うわ言で『イエローサブマリン音頭』を唄っている。


 ――おっと、ヘリが歌舞伎町の辺りで滞空し始めたぞ、急げ、さぶ!


「いぇっさぁあっ!!」


 さぶは更に加速を増す。もはや、走っていると言うより、怪鳥よろしくビルとビルの間を軽々と飛び行くと表現した方が適切だろう。

 お陰で、俺達はあっと言う間に徒無のヘリに追い付き、未だ眠りを知らぬ歌舞伎町の往来から、上空で滞空している徒無のヘリを見上げた。

 でも何で、こんな所で滞空しているンだ?


「兄貴、向こうにも自衛隊のヘリが飛んでいますぜ」


 左右共に20.0という、都会の明るい夜空でも星を一つ一つ見極める驚異の視力を誇り、明かりの漏れる隙間一つない真っ暗闇の部屋に落ちている一本の髪の毛を一発で見つけ出すさぶの両目は、都庁舎の昏い上空で滞空している自衛隊の戦闘ヘリを、機体下面で明滅する僅かな灯火だけで見極めていた。

 それなりに対策は打っていたらしいな。

 そういや、徒無の戦闘ヘリは火器が使えないンだっけ。だけど、あちらさんも手を出せないと来たもンだ。ヘリをこのまま逃がす訳にはいかンな。


「……しかし、ヘリを攻撃すれば、解毒剤のデータが失われるだけでなく、搭載されている新型B兵器が新宿を汚染してしまうわ」


 『イエローサブマリン音頭』を唄い終えた後、ビートルズの『HELP!』を虚ろげな顔で唄っていた倉橋三佐は、目的地に着いてようやく正気を取り直したが、事態の進展の無さに困却した顔で頭を振ってみせた。

 確かにその通りだ。はっきり言って、追い付いた後の事を考えていなかった。はっはっはっ、迂闊、迂闊。

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