第10話

 そして──

 ふわふわと波間を漂うようにたゆたっていた意識がひとつにまとまり上昇する。

(そうだ、俺は海に落ちて──それで……この島に流れ着いたのか)

 意識が覚醒すると共に潤はゆっくり目を開ける。体を起こし暗い室内に目を凝らすと、そこは先ほどと同じ厨房だった。

 自分はもう死んでいるのかもしれない、と潤は再び思う。体の感覚はまったく普段と変わるところがなく、己が死んでいるなどとは到底思えなかったが、この島での不可思議な体験はそう思わなければ説明がつかない。いや、もし死んでいるのではなかったとしても自分は夢を見ているのだろう。

(それなら──)

 潤は立ち上がり厨房の中を見回した。暗闇の中のそこは先ほどまでの出来事がまるで嘘のようにきれいに片付いている。伸二の姿もない。

 だが潤にはある確信があった。厨房を出ると廊下もやはり暗く、先ほどまで点いていた明かりはすべて消えている。だが潤はその中を歩いて行く。階段を昇り、ふと目をやると潤の想像通りその部屋の扉は開いていた。近づいて中を覗く。

(伸二)

 窓辺に伸二が立っていた。こちらに背を向け外を眺めているようだったが、潤が足を踏み入れるとそれに気づいたのか静かに振り返る。潤はゆっくりと伸二に近づき、その顔を覗き込んだ。

 何かを訴えるかのような悲しげな顔はけれども微笑んでいて、やわらかく潤を見つめ返す。

「伸二……」

 手を伸ばして伸二の頬にふれる。そっと撫でると伸二はくすぐったそうに身をすくめた。そしてふと伸二の手が上がり、潤の唇にふれ、その形をなぞるように指を滑らせる。離れてゆこうとするその手を掴んで潤はその指先に口づけた。伺うように見れば伸二は目を潤ませている。

(これは伸二じゃない)

 始めからわかっていたことだ。これは自分の知る伸二ではない。いくらその姿が伸二そのものだったとしても、行動が似通っていても、本物の伸二と同じには振る舞わない。だが、だからこそこんなことができるのだと潤は思う。

(これは夢だから──)

 夢だから何もかもが思い通りになるなどとは思っていない。しかし目の前の伸二が自分を拒絶することはないだろう。本当の伸二の気持ちがどこにあるのかなどわからないが、ここで目を潤ませ自分を見る伸二は、己が作り出したのであろう幻の姿は、おそらくここで自分を待っていたに違いないのだ。

 潤は伸二の肩に手を置き、その目元に口づける。その瞬間小さく震えた伸二に潤はかすかに苦笑した。そのままこめかみへ、耳元へ、口づけるたびに伸二は身をすくませた。

「伸二……?」

 その表情を確かめると今にも泣き出しそうな顔をしている。だがそれは「なぜ今までそうしてくれなかったのか」と責めているかのような、そんなふうに潤には見えた。だから今度はその唇へ、ゆっくりと己のそれを重ねる。

 軽くふれてすぐに離れ、もう一度今度はもっと深く。舌を差し入れると伸二はおずおずとそれに応えた。その背に手を回し頭を抱え込み、呼吸困難になりそうなほどそれに夢中になる。頭の芯が痺れるような陶酔感に潤はそっと伸二の体を離した。

 闇の中に荒い自分の呼吸が響く。伸二は肩で息をしているものの、その呼吸音は聞こえない。確かに感じられる肉体はけれども声を発することはなく、それが逆に潤の体温を上げた。つと伸二の手を引き、すぐ脇にあるベッドへ横たわらせる。

 覆いかぶさって見下ろすと何かを待つような目で見上げられ、それに誘われるように口づけると首に両腕が回される。もう迷うことも躊躇う必要もない。指を這わせるとその体は反応を示し、伸二は声を出さずとも顎を上げ、背を反らし、潤にしがみつく。

(ずっと──)

 無理矢理に引き裂いた感情の向かう先、偽りのそれが今己の腕の中にある。切なげにしかめられた眉、潤んだ瞳、上気した頬──熱い息が吐かれ、そのたびに胸は上下し、触れるごとに体温を上げ、自分を求めて腕を伸ばす。そのひとつひとつに心と体を昂らせ、わき上がる欲望に従い、唇で、舌で、指で、全身で、伸二を貪ってゆく。その体を貫くときも伸二は抵抗を見せず、むしろ恍惚とした表情を浮かべた。

 己の行為に喜びの反応を示し、ねだるように応え、求める。あり得ない──そう頭の片隅で思いながらも潤の行為は激しくなり、高みへと上り詰めてゆく。互いを求めるそれはベッドを大きく軋ませ、堪えるような潤の息づかいに重なる。それはすぐそこだった。

「伸二……っ」

 その名前を呼び、伸二が体を仰け反らせた瞬間、潤の意識は真っ白になった──


 遠くから海鳥の鳴く声が聞こえる。

 緑に覆われたその島は中央が小高い丘となっており、そこは一面草原となっていた。白い洋館はなく、だがやわらかな草色の間には鮮やかな赤い大輪の花がそこここに咲き、甘い香りを辺りに漂わせている。生い茂る草の合間を良く見ると、あちこちに動物のものと思われる骨が落ちていた。

 風が吹き、草が揺れる。その中心に人が倒れていた。海で遭難してこの島へ流れ着き、ここまでやって来たのだろうか、服のあちこちが破れ、肌は傷つき、血を流している。目の閉じられた顔は蒼白で、うつ伏せに横たわった体が動き出すようすはない。

 息をしているのかいないのか──早急に手当をしなければ周囲に落ちた骨と同じ末路をたどることになるだろう。だがそれを知ってか知らずかその表情は穏やかで、まるでしあわせな夢でも見ているようだった。満ち足りた安らかな顔を、潤はしていた。

 風が吹き、草が揺れ、甘い香りが島中に広がってゆく。そして島は夢を見る。


 そこは、美しい夢を見せる残酷な島──

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RIVEN ひりか @hirika

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