第8話

 明るいときに探索したので中のようすは知っていたが、それにしても広くてきれいな厨房だ、と潤は思わずにいられなかった。使い込まれたそこはけれども鏡のように磨き込まれており、調理器具の手入れもきちんとされている。三つ並んだ業務用の冷蔵庫にはさまざまな食材や調味料が詰め込まれており、大抵の家庭料理は作れそうだった。

 厨房に入った途端、伸二は潤の手を離し冷蔵庫を開けて中を物色している。すぐに食べられる物を探しているのか、それともそうではないのか、扉を全開にしてあれこれと手に取る姿はまるで宝探しでもしているかのようだった。

 潤もその側へ歩み寄り、一緒に中を覗いてみる。起きたばかりはそうでもなかったが、厨房へやって来た途端なんだか腹が空いたような気がしていた。調理をするのは嫌いではないが、できることならそのまま口に運べるものを、と見てみたが、それが可能なのは果物やパン、飲み物ばかりだった。

「さっきは手品みたいに出てきたんだけどなぁ」

 呟いて伸二を見るときょとんとした顔で見返してくる。

「お前に言ってもしかたがないか」

 伸二も、気がつくと用意されていた食事も、共にこの館で起こる不思議な現象のひとつだと思うから、伸二に訴えれば何とかなるかと思ったが、やはりそう上手くはいかない。潤が苦笑するとふと伸二は何かに気づいたような顔をした。

「何?」

 訊くと伸二は冷蔵庫脇の棚を指差す。そこには瓶に詰められたさまざまな形や色のパスタが並んでいた。伸二はふらふらとそこへ歩み寄り、迷いなくごくふつうの、スパゲティの入った瓶を手に取ると潤を見てにっこり笑う。

「……それが食べたいわけ?」

 とは言え茹でるだけで食べられるはずもなく、伸二から手渡されたそれを見ながら潤は首を捻る。するとどこから持って来たのか伸二は料理本らしきものを広げ、そこに載る写真を指差した。

「ペペロンチーノ……」

 潤が呟くと伸二はにこにこと笑い、コンロを指差す。早く茹でろ、ということだろうか。手の込んだ料理ではないだけマシなのかもしれないが、しかしやはり伸二は自分に食事を作らせようとしたのだということに潤はそっとため息をついた。

 だがそんな潤などおかまいなしに伸二はそこここの棚の扉を開け、鍋を探し出す。潤も諦めて伸二が差し出す鍋を受け取り、軽く洗って水を入れ火にかけると他の材料を探し始めた。オリーブオイルにニンニク、鷹の爪、イタリアンパセリ。それだけで充分だろうと思っていると伸二がベーコンだの玉葱だのを調理台の上に並べたのでそれらも一緒に刻む。

 湯が沸くまでにはまだ少し時間がかりそうで、潤は刻んだ材料を小皿に取って並べると使った包丁とまな板を洗おうとした。途端「カン!」と小気味の良い金属音が響く。見れば伸二が広い調理台の上に鍋ややかんを並べ、お玉と菜箸を手ににこにこしていた。

(まさか──)

 思う間もなく伸二は鍋を叩き出す。躊躇なく叩いているのだろうそれらは厨房の中にかなりの騒音となって響いた。思わず潤は耳を塞ぐが伸二はずいぶんご機嫌なようだ。

「伸二!」

 鳴り止まないそれに声を張り上げるが伸二には聞こえていそうにない。潤は伸二の側へ寄るとその腕を掴んだ。驚いた顔で伸二が潤を見る。

「それ楽器でもオモチャでもないから」

 言うと伸二はそっぽを向き、潤の手を振り払ってまた鍋を叩こうとする。その行動に潤はなぜか神経を逆撫でされたような気がし、しかしそれを堪えて伸二の腕を押さえ込む。すると伸二が顔をしかめて潤を見つめた。

 途端わき上がる既視感──

 前にもこんな伸二の顔を見たことがあった。だがそれはいつだっただろう。つい最近だったのか、それともこんな顔をもう何度もさせていて、だからこんなことを思うのか。

 ──思い出せない。

 潤は軽く頭を振り、ふと視線を感じて見上げてみれば伸二が怪訝そうな顔で自分を見ている。

「だから──」

 言いかけて潤は口を噤んだ。ふいに、自分は一体何をしているのだろう、と思った。これは伸二じゃない。どれほど見目形が伸二そのものだったとしても、伸二ではない。なのになぜ自分は伸二に接しているような気持ちになるのか。

 黙り込む潤を静止するのをやめたと思ったのか、伸二はまた鍋ややかんを叩き出す。

「やめろって」

 自分でも不思議なくらい静かな声が潤の口から漏れた。するとそれを理解したのか、伸二は手にしていたお玉を放り出す。だが今度は冷蔵庫を開け、中の食材を次から次へと調理台の上に積み上げだした。中にあるすべての物をそうしようとしているのか、伸二は下になった物が潰れるのもかまわず積み上げてゆく。

 刻んだ材料はすでにそれらの下に埋もれ、火にかけた鍋は沸騰し始めている。

 伸二が何をしたいのかわからなかった。いやそもそもこれは伸二ではないのだから、そんなことはわからなくて当然のはずだ。だが、潤の胸にふとどんよりしたものがわき上がる。

 そうじゃない、こんなの自分だって不本意だ、なのになぜそれがわからない? いやそれより、なぜそれをお前に責められなければならない? 一体どんな理由があって、そんな顔をする? お前は──

「やめろ!」

 叫ぶと同時に「これは一体いつの感情なんだ」と潤は思った。しかしその瞬間室内の明かりが消え真っ暗になる。

「……!」

 そしてまた漂う、あの甘い香り。

 また眠りに誘い込まれることを予感して潤は暗闇の中に目を凝らし、伸二の姿を探す。すると手を伸ばせば届くところに立っており、その顔は悲しげに微笑んでいるように見えた。

「伸二……」

 呼んでも応えない。甘い香りはどんどん強くなってゆき、潤は立っているのがおぼつかなくなる。調理台に手をついたが、体はその場にくずおれた。薄れる意識の中、伸二の姿は少しずつぼやけてゆく。

 その姿が消える寸前、伸二から甘い香りがしたような気がした。

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