第7話

 目を開けると白い天上が見えた。首を巡らせて見回すとそこは2階の、伸二を見つけたもののすぐにその姿が消えてしまった部屋だった。家具の位置はそのときのまま変化はない。だが室内は明かりがついており、カーテンが開いたままの窓にそっと視線を向けると外は暗くなっていた。時間が止まっているかのように感じられたが、そうではないらしい。

 誰がここまで自分を運んだのか──そんなことを思いながら潤はゆっくりと体を起こす。かけられていた毛布がずり落ち、バスローブを着せられていることに気づいた。しかしふいに視界の隅に映ったそれに目をやると潤は動きを止める。

「……」

 足元に伸二がいた。ベッドの側に寄せたソファにかけ、潤の足元に顔を伏せて眠っている。

(お前が運んでくれたのか)

 こちらへ顔を向けて眠る伸二の顔を潤はぼんやりと眺める。ということは伸二が風呂から引き上げ、バスローブを着せ、自分を抱えてここまで運んだのだろう。その行為がどうにも伸二にそぐわなくて潤は苦笑した。まさか湯に沈んだままにはしておかないだろうが、本物の伸二だったら引き上げて終わり、あとはその場で体を拭いて毛布をかけるくらいだろう。

 それにしてもなぜ伸二は消えないのか。伸二から姿を現したのにも驚いたが、その姿が消えないことにも潤は不可解さを感じていた。この部屋で逢ったとき、伸二は明らかに驚いて姿を消したのだ。だからもし次に姿を現すのだとしても、先ほどのように側へ寄って来ることなどなく、すぐに消えてしまうのだろうと思っていた。なのに伸二はこうして側にいる。

(夢だと思えば納得できるけどね)

 しかし夢にしてはリアル過ぎるし、整合性がとれている。とは言えどう考えても怪奇的な現象も起きてはいるのだが。

 しかし潤はそれを頭から振り払い、そっと伸二の髪に手を伸ばした。ふれると心地良く、それは本物と変わらない。しかし実際に本当の伸二にそんなことなどできるはずもなく、潤は伸二の眠りを覚まさぬよう、何度もその髪を梳いた。だがふいに伸二は身じろぎ、静かに目を開ける。

 半分寝ぼけたような顔で、しかし潤が目覚めていることに気づくとその目は軽く見開かれた。そして慌てたようすで立ち上がると枕元に寄り、潤の顔を覗き込む。その表情はまるでお気に入りのオモチャが壊れてないかどうか確かめる子供のようで、潤は小さく吹き出した。すると伸二は顔をしかめ、潤の頭を軽く小突く。何が言いたいのかわからず見上げると伸二は頬を膨らませた。

 これが本物の伸二なら、心配してんのに笑うなんて、というところだろう。目の前の伸二もそんなようすではあったが、ひとことも声を発しないので今ひとつよくわからない。

「ごめん。もしかして心配してる?」

 だがそう言って問うように見上げると伸二は眉の強ばりをといた。そして潤の頭、両肩、背中を軽く叩くと最後にもう一度ポンと頭のてっぺんを叩き、満足そうに笑う。

「……大丈夫かどうか確かめたわけ?」

 訊いても伸二はただ笑うだけだ。風呂で訊いたときも答えは得られなかったが、やはりこちらの言うことがわからないんだろうか。それによく見れば伸二はしゃべらないだけでなく、唇が言葉を発する形には動かない。ということは、意思の疎通はボディランゲージしかない、ということだ。

(困った……いや何が困るのかわかんないけど、困った……よなぁ)

 己が何に困っているのかわからないまま見ていると、伸二が潤の手を取った。握られた手は温かく生きた人間のそれとしか思えなくて戸惑う。だがそんなことにはおかまいなしに伸二は潤の手を引く。どうやらベッドから連れ出そうとしているらしい。

「おい、何だよ。そりゃ何ともないけど……」

 ためらっていると伸二は両手で潤の手を握り、力任せに引っ張ろうとする。潤はベッドから落ちそうになって慌てた。

「ちょっ、待てって」

 そして伸二の手を引っ張り返す。

「わかったから。引っ張んなくても行くから。だからそんな力一杯引っ張んな」

 言っても無駄なような気はしたが、そう言って見上げると伸二は手を引くのをやめた。もしかして、本当は潤の言っていることがわかるのだろうか。

「……俺の言ってること、わかる?」

 もう一度潤は訊いてみる。だが伸二は首を傾げた。やはり言葉を理解しているのではなく、潤の慌てたようすを見ての反応らしい。潤はひとつ息を吐くとベッドから降り、伸二と並んで立った。自分より少し高い位置にある目がこちらを見る。

「で? どこ行くのよ?」

 訊くと伸二は廊下への扉を指差し歩き出す。本当の本当に自分の言っていることがわからないんだろうか、と釈然としない気持ちのまま、潤は伸二に手を引かれその後に続いた。


 二階の廊下から階段を下りて一階へ、そこで伸二は足を止めて迷うように左右を見る。手は繋がれたままで伸二がそれを離そうとするようすはない。それが本当の伸二の手ではないにしても、潤はなんだか落ち着かない気持ちになった。

 決して仲が悪いわけではなく、むしろ自分達の仲は良い方だと思う。でもだからこそ勘違いした。自分の伸二への感情は友人知人へ向ける以上のものだと。そして、その感情は自分でコントロールができないまま一気に膨れ上がった。

 自分と同じように、おそらく伸二にとっても自分はある意味特別な存在であろう。だがそれが己の内に潜む邪なそれと違うことは、常に自分に正直である伸二のようすを見ていればわかった。だからずっと見ないふりをしていたのだ、伸二に対する思いを。

 なのに今、たとえ本当の伸二ではないにせよこうして手を繋いでいると、押し込めていた思いが外に出たがっているのがわかった。

(アホか俺は、どう考えたって本物じゃないってのに。それともこれは本当に夢で、夢だから、なのかな……)

 階段も廊下にも明かりが灯されており、天井からつり下げられたシャンデリアからは暖かい光が周囲を照らす。自然光ではない光の下で見てもやはり伸二は伸二で、しゃべらないということを除けば本物とまったく変わるところがない。ふと潤は、自分は伸二の容姿が好きなわけじゃないよな、とその顔を見上ながら苦笑した。

 するとちょうどそのタイミングで伸二が歩き出す。階段を下りて右手──厨房の方へ向かおうとしているようで、心なしかその表情は楽しげだ。

(まさか──)

 嫌な予感がした。本物の伸二ではないのだが、その行動は伸二に似ていなくもない。まだそうと決まったわけではないが、厨房に連れられて行くということはつまり、食事を作らせられる、ということではないだろうか。

「伸二」

 呼んでみるが伸二が歩みを止める気配はない。そもそも話しかけても言葉が返ることはないのだが──などと考えているうちに厨房と書かれたプレートのかかる扉の前まで来てしまう。躊躇することなく開かれるドアに、潤は小さくため息をついた。

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