第6話

 浴室は玄関から入って右手奥、厨房と対象になる位置にあった。外に面する壁は一面ガラス張りになっており、館の脇に広がる草原が良く見える。20帖ほどのそこは洗い場も広く浴槽も楽に5、6人がゆったりとつかれるほどで、見ているだけで気持ちがリラックスしてゆくようだった。

 しかし先ほど覗いたときは乾いていた浴槽に湯が張ってある。しかも入浴剤でも入れてあるのか湯は白く濁っており、あの赤い大輪の花のものであろう、たくさんの花びらが浮かんでいた。見れば四隅には花を生けた花瓶が置かれており、そこにも赤い花はあった。

 ふつうならここで考え込むところだろう、あまりにも出来過ぎている。だが潤は何も考えないことにした。ここへ来てから起こるのは考えても仕方のないことばかりだし、かと言ってそれが害をなすものかと言えばそうでもない。だったらそういうものだと受け入れてしまった方が楽だ。それにせっかく汗を流しに来たのだ。

 まるで銭湯のように棚にしつらえられた篭に服を脱ぎ、潤は浴室へと入る。壁がガラス張りであることに戸惑いはするものの、これまで誰とも会わなかったのだし、人に見られることはないだろうと自分に言い聞かせた。そうしてまずは髪と体を洗い流し、浴槽につかる頃には潤はすっかりくつろいでゆったりとした気分になっていた。

(誰もいないってのはアレだし、連絡が取れないのも問題だけど、ある意味至れり尽くせりだよなぁ)

 そう、もしこれが夢であったとしても、こういう夢ならばそう悪くもない。腹が減ったときには何もせずとも食事が用意され、風呂に入りたいと思えば用意ができているのだ。それをおかしいとは思わずにいれば、快適と言えないこともない。

 もしかして自分はもうすでに──と考えないこともないが、それならそれで諦めなければならないのだろうし、ただの夢なら目覚めるのを待つしかない。

(ひとりっきりってのが寂しいけどね……)

 浴槽の側面に寄りかかり、潤は両手で湯をすくう。幾つかの花びらが浮き、その白と赤のコントラストは目をちかちかさせそうだったが、逆に潤は穏やかな気持ちになる。ふと片手を寄せて匂いを嗅ぐと甘い香りが移ったかのようだった。

(香水はあんまり好きじゃないけど──)

 ぼんやりとまどろむように考えたとき、ふいに脱衣室から物音がした。潤はそっとそちらへ続く扉を見る。何かを探しているのかがさごそという物音は続き、かすかに足音まで聞こえてくる。

 誰もいないと思っていたが、実は人がいたんだろうか。単に留守にしていただけでたった今住人が帰ってき、館のようすがおかしいことに気づいて闖入者を探している──それとも元々ここの住人はどこかにいて、この広い館を歩き回るうちにすれ違ってばかりいたのだろうか。

(どうする……?)

 思う間にも物音は続き、ふと磨りガラスの扉の向こうに人影が見える。それはこちらへと近づいてき、ドアに手をかけたかと思うといきなりそこを開けた。

「……」

 扉から顔を覗かせた人物を見て潤は言葉を失った。驚いた顔で自分を見ているのは、そう都合良く現れるはずはないと思っていた伸二だった。


 人がいることに驚いたのか、それともそれが潤であることに驚いたのか、伸二はしばし潤を凝視し、潤も言葉も失いまま伸二を見ていた。だがふと微笑むと伸二は中へ入ってくる。

 先ほどは服装を気に留める余裕もなかったが、Tシャツにジーンズという普段着姿は本物とまったく変わりがなく、潤は近づいてくる伸二をただ見つめた。

 伸二は浴槽のそばへ寄ると潤と1メートルほど距離を置いてしゃがみ込み、そのふちに手を置く。

「お前──」

 話しかけてどうするつもりなのか自分でもわからなかったが、すぐそこで微笑む伸二に潤は黙っていられなかった。だが言いかけた途端伸二の目が悪戯っぽく輝き、その手が湯をすくって潤の顔へかけられる。

「お前ねえ……」

 顔を拭って伸二を見ると伸二は声を上げずに笑っていた。顔を顰める潤に機嫌を良くしたのか、伸二はさらに潤に向かって両手で湯をかける。飛沫が上がって伸二の服も濡れたが、気にしないようだった。

「ちょっ、待てって!」

 両手でそれを防ぎながら言うが伸二は聞き入れるようすがない。幻なのだろうからこちらの言うことを聞かなくとも仕方がないにしても、逢いたいと思っていた相手に一方的にこんなことをされるとどうしていいかわからなかった。いや、もし何もせずにただ側にいるだけだったとしてもどうしていいかはわからないような気がしたが、その方が今の状況よりはマシな気がする。

「お前ね、待てって言ってんだろ」

 しかし何度もくり返されるそれにそんなことはどうでもよくなってき、潤は伸二に向かって同じことをやり返した。伸二は一瞬呆気に取られたが、すぐに満面の笑みを浮かべてやり返す。そうしてしばらくその応酬が続いた。

 始めはムキになっていた潤だったが、しかしふとその手を止めた。伸二は笑ったままそれをくり返している。

「伸二……」

 声をかけてはみるものの、それが本当の伸二でないことは知っている。ただその姿は伸二そのもので、潤はそう呼びかけずにはいられなかった。

「伸二」

 やり返すことなく自分を見つめる潤を不審に思ったのか、もう一度呼ぶと伸二は動きを止めた。

「何でこんなとこにいるの?」

 自分でもおかしなことを訊いていると思った。目の前にいるのは伸二ではなく伸二の幻なのだから、なぜここにいるかなど訊いても答えようがないだろう。それに先ほどから見ていると伸二は声が出ないのか、笑い声すらあげていない。

「お前、もしかして俺の言ってることわかんない?」

 目を見開いて自分を凝視する伸二に苦笑して首を傾げると、伸二はおもむろに手を伸ばし、潤の額に張りついた前髪をそっと払う。伸二の指が額にふれた途端、潤の肩がびくりと震えた。

(幻覚じゃないのかよ)

 湯をかけることができるのだから実体もあるのだ、と潤は思っていなかった。それも含めて幻だと思っていたのだ。伸二の指は髪を払うとゆっくりと下へおり、潤の頬にふれた。その指は暖かく、ふれた感触も幻とは思えなかった。

 潤は手をあげ、恐る恐る伸二の指にふれる。すり抜けることなくその感触と体温にふれ、驚いて潤は伸二を真っすぐに見た。伸二は不思議そうに潤を見返している。

「お前……」

 言いながらその指を握ろうとしたとき──ふいにあの甘い香りが強くなるのを感じた。途端また強烈な睡魔が襲ってくる。

(何もこんなときに──)

 あの花の香りにはおそらく睡眠作用があるのだろう、そう潤は思った。しかしこれまで館のどこへ行ってもその香りを嗅いでいたはずで、それならなぜ、今このタイミングでこんなことになるのか。

 潤は必死に意識を保とうとしたが香りはさらに強くなってゆき、それと共に瞼が落ちてゆく。力が抜け、体が傾いてゆくのを潤は遠くで感じていた。

(伸二……)

 ふれていた指がどこにあるのか、もうわからない。体はどんどん傾いてゆき、湯の中へ沈み込んでゆく。閉じた瞼の裏に水面が見えたような気がし、意識を失う寸前、以前どこかで同じことがあった、と潤は思った。

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