第5話
深い眠り──夢を見たような気がした。手を伸ばせば届きそうで、しかし触れようとするとするりとすり抜けてゆく記憶。思い出したいのに思い出せない、憶えているはずの暖かくやわらかなそれは、ふいに上昇する意識から遠く離れていった。
「……」
ベッドの上で潤はゆっくりと目を開ける。枕の上に頭を預け、体には毛布が掛けられている。視線だけを動かして室内を見回すが誰もいなかった。誰が掛けてくれたのだろうと毛布に視線を移すが、しかし潤にとってそれはもうさほど気に留めることではなかった。
のろのろと上体を起こし窓の外を見るとまだ陽は高い。まるで時間が止まっているかのように、この島で意識を取り戻したときから太陽の位置が変わっていないように見えた。だが、それもまた潤は気にしないことにする。
室内に漂う甘い香り──そう、この島はそういう場所なのだ。
わけもなくそう考えて納得し、潤は大きく伸びをした後ベッドの上であぐらをかいた。
(どうしよう……かな)
自分の身に起きた不可思議な出来事について、潤はもう考えるのを放棄していた。眠りにつく前まで、それは何かによってそう仕向けられているような気がしたが、抗うことをやめた。抗ってもどんどんそう思わされてゆくのだ。この島に、この洋館に人はいない。けれども何の気配もなく何かしらが起こる、そしてそれはそういうものなのだ──そう思うことにし、意識を切り替えることにした。
(取りあえず腹は空いてないし、伸二は──)
まだぼんやりした頭で、目の前で消えてしまった伸二を潤は思った。自分はおそらく海で遭難し、この島に流れ着いたのだ。その島に伸二がいるわけはない。だからあれは本物の伸二ではない。消えてしまったことから考えても、あれは幻なのだ。
己の心が生み出す幻影なのか、それともそうではないのか、それは判断がつかない。だが、ここでこうして待っていても現れることはないような気がした。館中を探しまわってみてもそれは同じことで、もし現れるのだとしても、それは潤の意志とは無関係なところへだろう。伸二に関してはただ、現れるのを待つしかない。
(やっぱり電話とか、探した方がいいのかなぁ……)
だがこれまで見て回った中にどこにも電話や、あるいは外界との連絡を取れそうな機器は見当たらなかった。しかしそれはこれまで見て来た部屋が応接室やサロンであったり、食堂だったりしたからかもしれず、もしかするとこういった館には電話室なるものがあるのかもしれない。
(二階と、一階の半分もまだだったよな)
空腹を満たすという当初の目的は果たされたものの、途中まではまるで、こんなときだというのに探検をして楽しんでいるようだったのも事実だ。この館に人はいない、というのは潤の中で確信になり、それが覆されることはおそらくない。だが、「しかし」というかすかな希望もあって、潤はまた館の中を探索することにした。
そうして、一通り館の中を見て回ると、潤は最初に寝入ってしまった玄関ホールのソファに腰を下ろした。二階はほとんどがシャワールーム付きの客室で、館の主の部屋であろう寝室や書斎もあった。階段を下りて一階を巡ると、他にあったのはビリヤード台やポーカー台の置かれた遊戯室、大きな浴室に洗濯室、衣類やさまざまな備品の置かれたクローゼット、さらに地下へ続く階段を見つけて降りてみると、そこは貯蔵庫になっていた。
しかし、その部屋部屋のどこを探しても電話は見当たらない。それどころかテレビやラジオなどの電波を受信する機器すらなかった。
(これはもう、誰かがこの島に来るまで待つしかないってことなのかね……)
諦めたように潤は背もたれに身を預ける。幸い貯蔵庫にはさまざまな保存食が備蓄され、ついでにもう一度厨房を覗くと、幾つか並んだ大きな冷蔵庫の中はこれまたありとあらゆる食材で一杯だった。浴室やシャワールームも問題なく使えるようだし、眠るところには困らない。
(無人島に漂着したにしては恵まれてるんだろうけど)
そもそもこんな無人島があること自体あり得ないのだが、自ら悪い状況を望むこともない。それにこれまでに起こった出来事を考えると単純に喜んでばかりもいられない。果たしてこれは現実なのだろうか、という疑問も薄々感じてはいるのだ。
もしかしてすでに自分は命を絶っており、肉体から抜け出た魂が現実と夢の間をさまよっているのではないか──
そう考えればこの身に起きている不可解な出来事も納得できる。しかし考えてみたところで己の命が絶たれているかどうかなどわかりようもなく、もしそれが真実だったとして、自分はどうすれば良いのかもわからない。
玄関ホールは甘い香りが漂っており、潤は階段前に置かれた真っ赤な花に目をやる。館を探索していて気づいたが、この花はあちこちに生けられていた。甘い香りを放つ赤い花──睡魔に襲われる前のようにくらくらするほどではないが、どの部屋を覗いてもその香りがしていたことに今さらのように気づく。
気分を落ち着かせ、まどろみを誘うようなその香りはともすれば思考を麻痺させ、気力すら奪ってゆくような気がして、潤は慌てて頭を振った。
(風呂、入ってこようかな)
頭を振って頬に当たった髪は塩のせいかごわついている。それに海岸に打ち上げられていたということは海水に浸かっていたということで、それを意識してしまうとどうにも体中がベタベタして気持ち悪いような気がしてきた。
先ほど覗いたときに脱衣室にタオルやバスローブが用意してあることは確認してある。こうしてぼんやりとしているといろいろ余計なことを考えてしまいそうだったし、体だけでなく気持ちもすっきりとさせたかった。気分を変えれば何か名案──とまではいかなくとも、新たに思いつくこともあるだろう。
(風呂、入ろ……)
潤は立ち上がり、浴室のある方へと廊下を進んでいった。
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