第4話

 館の奥──日射しの降り注ぐ廊下を駆け抜けその突き当たりまでゆくと、右に折れるそれとは別に左側壁の奥に陰になって気づきにくい細い廊下が伸びていた。誘われるようにそこへ足を向けると、奥にわずかな隙間を覗かせた扉がある。いかにも何かありそうな気配に、潤はもしやとその扉に近づいた。

 潤は物音を立てないようそっと中を覗く。と、見えたのは棚の置かれた壁とテーブル、そして無造作に積み上げられた段ボール箱だけだった。人の姿はなく、物音もせず、特に何かしらの気配がするわけでもない。しかし先ほどの物音は確かにこちらの方向から聞こえてきたはずだと、潤はノブに手をかける。ゆっくりとそれを回し、少しずつ手前に引く──

 だが、やはりそこには誰もいなかった。中を見回すとそこは使用人のための休憩室のようで、それまで見てきたどの部屋よりも狭い室内には、雑多な物が積まれた棚やその手前に積み上がった箱などがあり、中央に置かれたテーブルや椅子、壁際に置かれたソファなどは、質は良いもののようだがずいぶんとくたびれていた。

 向かい側の壁にも扉があり、閉じられたそれを開いて中を覗くと厨房になっている。しかし人の隠れる場所のないそこにも人の姿はなく、またもや潤は肩を落とし部屋を出て行こうとし、しかしそのとき、食欲をそそる匂いが鼻孔をくすぐるのに気づく。振り向いてテーブルの上を見ると、そこには軽い食事の用意がしてあった。

「……」

 バスケットに入ったやわらかそうなパンと皿に盛られたソーセージ、刻み野菜の入ったスープは湯気を立てている。だが先ほどまで、テーブルの上には何もなかったはずだ。厨房を覗いていたのはほんのわずかの時間で、しかも中に足を踏み入れることはなく入り口から覗いていたのだ。誰かがやって来たのなら気づくはずだった。

(これって……)

 混乱し始める頭で潤は必死に考えようとする。が、それを押しやるようにふいに猛烈な空腹感が湧いてくる。用意された食事はどれもが美味しそうで、出来立てのいい匂いを潤の鼻へ運んで来ていた。

 変だ、と思う。

 だが突然目の前に現れたそれに対してそう思うのではなく、潤は自分自身に戸惑っていた。ふつうなら今起きた事象に対して恐怖を感じてもいいはずだ。しかしそれに対する疑念がわいたのは一瞬だけで、潤の中でどんどん、奇怪と言ってもいいそれに対する引っかかりがなくなり、むしろそれが当然なのだと受け入れる気持ちが大きくなってゆくことに違和感があるのだ。

 現にもう、目の前で起こった不可思議な出来事に対する疑問や当惑は薄れ、先ほどまで追いかけていた人物のことも忘れ、抗いがたい空腹感だけに支配されようとしている。

(えーい、ままよ)

 潤は手近にあった椅子を引き寄せ、テーブルにつくと添えてあったスプーンを握った。考えてもおそらくわかりはしないのだ。そう思うことすら自分の思考ではなく、そう思わされているような気もしたが、どうすることもできなかった。

 いつから食事をしていないのかわからず、湧いてくる食欲のまま潤は夢中でそれらを口へ運んだ。そうしてそのほとんどを平らげると、今度はまるでタイミングを計ったように部屋の外で物音がした。

 潤は慌てて立ち上がり部屋を出、周囲を見回す。扉を開ける音、さらには何かの家具を引きずるような音が上から聞こえた。潤は元来た廊下を突き当たりまで戻る。見るとテラスに続くのではない方の廊下の途中に階段が見えた。

 階上からの音は途切れることなく続いている。潤はためらうことなく廊下を走り絨毯の敷かれた階段を駆け上がる。二階の廊下から左右に目を走らせるとひとつだけ開いている扉があり、音はそこから聞こえていた。

 潤はゆっくりとその扉へ近づく。引きずるような音は止み、代わりにクッションか何かを叩くような音がしていた。その音が止まないことを祈りながら、潤は扉の前で歩みを止め、そっと中を伺う。

「……」

 室内は寝室らしかった。元々は中央に置かれていたのだろうベッドが窓際に寄せられ、元はその場にあったのだろうひとり掛けのソファやテーブルが脇へ無造作によけられている。ベッドの傍らには潤の良く見知った姿があった。普段着姿の彼は己の半分ほどもある枕を抱え、埃を払うようにそれを叩いていた。

「伸二──」

 知らず潤は呟いていた。途端びくりと身体を震わせ伸二が潤を見る。その目は驚きに見開かれ、今にもこぼれ落ちそうだった。そして──

 ふわり、と伸二の輪郭が霞んだように見えた。そうして、その姿はまるで幻ででもあるかのように透き通ってゆく。潤は動くこともできずそれを見つめる。驚いた表情のまま、伸二の姿はどんどん薄くなり、向こう側の壁が見えるようになってゆく。その姿が完全に消えてしまったとき、床にばさりと枕が落ちた。

 潤はようやく我に返り、慌ててベッドへ駆け寄る。だがすでにそこには誰もいない。落ちた枕を拾い上げるとかすかにぬくもりが残っていた。

「伸二……」

 ぬくもりは少しずつ失われてゆく。潤は枕を抱きしめた。それでは、やはり階下で見たのは伸二だったのだ。見間違いや錯覚などではなく確かに伸二だったのだ。掻き消えるように姿が見えなくなったのは、きっと今と同じように消えてしまったからなのだろう。

 と、そこまで考えて潤は混乱した。人の姿が消えるなんてことがあるんだろうか。自分は今、なぜそれをおかしいと思わなかったのか。

 わけがわからない──。

 一体自分の身に何が起こり、どうしてしまったというのだろう。というより、これは本当に現実なのだろうか。始めは深く考えないようにしていた。考えずに動けばどうにかなると楽観していたのかもしれない。だから不可解に思えることがあっても気にしないようにした。しかしそのうち心に浮かぶ違和感は、それを留めておこうとしても何らかの力に押し流されるように遠くになってゆくように感じた。

 伸二のことも──こんなところにいるはずはないとわかっていながら、先ほど目の前にいたのは伸二で、そして消えてしまったのだと、その事実だけを何の疑問もなく認識してしまっている。どう考えてもそれはおかしいだろうと思いたいのに、そう思うことの方がおかしいような気がしてくる。

「──っ」

 そればかりか、本当はそれが何なのか正体のわからないさっきの伸二を求める自分に、ふと気づいてしまう。それはこんなわけのわからない場所で、良く見知った姿を目にしたからなのか、それともそうではないのか──

 ベッドの向こう側の窓から射し込む陽の光は明るく暖かく、それが余計伸二を思い起こさせて潤は枕に顔を埋めた。そしてそのとき、またしてもふいに強烈な睡魔が潤を襲う。

(甘い……匂い……)

 気づくと周囲に甘い香りが漂っていた。閉じそうになる瞼を無理矢理こじ開けて室内を見回すと、角に置かれたテーブルの上、そこに置かれた花瓶に真っ赤な大輪の花が生けてあった。それを目の端で捉えながら、潤はもう何も考えることができずベッドの上に倒れ込んだ。

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