第3話

(潤──)

 誰かが自分の名前を呼ぶ。それは聞き覚えのある声だったが、そんなふうに優しげに呼ばれたことなどはなかった。

(潤──?)

 額に誰かの手が触れる。そっと髪を梳き、頭を撫でる手の感触は彼のもののような気がしたが、そんなふうに触れられたこともない。

(潤……)

 くり返し呼ぶ声にかすかに苦しげな響きが混じる。その声音に押し込めていた思いを呼び起こされるような切なさがこみ上げ、意識が浮上して潤は目を開ける。そこには誰もいなかった。

 視界に映るのはモスグリーンをベースに細かな模様が描かれた、落ちついた風合いの絨毯とその先にある玄関の白い扉だけだった。人がいる気配はない。潤は怪訝に思ってゆっくりと起き上がり、周囲を見回す。

(さっきの……)

 無意識に腕が上がり髪に触れる。先ほどの感触を思い出すようにして、しかしすぐに潤は頭を振った。自分は夢を見たのだ。こんな、わけもわからず思ってもいなかった状況に陥ったせいで不安になっており、それであんな夢を見たのだ。そうでなければ──

 彼のことを考えたせいだろうか、ふいに潤は思い出す。皆はどうしているだろう。どんなふうにして己が姿を消したのかもわからないが、他のメンバーやマネージャー、スタッフ達は自分を心配しているだろうか。どこへ行ったのだろうと探してくれているだろうか。

 俯いて眉根を寄せ、しばし考え込んでいた潤は、だがふと違和感を感じて軽く目を見開いた。身体の痛みがまったくなくなっている。まじまじと己の身体を眺め、手を握ったり開いたりした後、試しに肩を回したり全身を捻ってみるが、嘘のようにどこも痛むことはない。

(なんで?)

 訝しく思うのと同時に腹が鳴った。一瞬呆気に取られこんなときにと思うものの、それまでも空腹ではあったのだろうが、まったくそんなことに気を取られる余裕がなかったのも事実だ。ということは、痛みが引き疲労が取れたことで少しは気持ちに余裕が出てきたのだろうか。

 潤はとてもそんなふうに考えることはできなかったし、こうしてふいに痛みや疲労が消えてしまうことに不信感がないこともなかったが、ともあれ、こんなときでも空腹を訴える身体と、それを感じることのできる自分に苦笑した。

 そしてふと室内をもう一度見回す。閉めた憶えはないが扉は閉ざされており、しかしその他には眠りにつく前と何ら変わったところはなかった。玄関ホールには甘い香りが漂い、目覚めると廃虚になっていた、などということもなく、先ほどは背を向けていたため気づかなかった、扉の上にある窓から射す光が室内を明るく見せていた。

 潤はしばしこれからのことを考えこむ。どれくらい眠っていたのかわからないが、その間に人が現われた気配はなく、また今もそんな気配はない。ドアが開いていたからといって勝手に中に入り、その上家捜しのようにうろつくのははばかられるが、しかしこうして誰も現われないということは、やはり誰もいないのではないか。

 空腹感は意識した途端どんどん増してゆくようで、こうして腹を空かせたままじっと待っていても事態は変わらないように思える。自分はおそらく遭難者であり、救助を求めるのはおかしいことではない。どうにも良心が痛まないこともないが非常の際だ、致し方ない。まずは食料を探すことにする。

(取りあえず、人が出てきたら説明すればいっか)

 自分に言い聞かせるようにして潤はゆっくり立ち上がる。やはり身体からは嘘のように痛みが消え、むしろ軽くなったかのような感覚さえあった。ふと視線を右に向けると、奥へと続く廊下が見える。

 見ると同じように左側にも廊下があったが、なんとはなし、初めに視線を向けたそちらへと潤は歩き出した。


 外から見たときはさほど感じなかったが、その洋館の中はかなり広かった。廊下自体もふつうの家の倍ほどの幅があり、高い天井からはクラシカルな装飾のほどこされたシャンデリアがぶら下がっていた。左右の壁には開け放たれた扉が並び、中を覗くとそこは応接室というよりはサロンのような広間であり、その広さゆえにいくつもの扉がついているのであったり、あるいは小さな部屋があったにしても、そこは個々の控えの間のような趣があった。置かれている家具や調度品も時代がかった品のあるものばかりだ。

(別世界って感じ)

 ふだん目にすることのないそれらに目を奪われそうになりつつ、潤は洋館の中を徘徊する。ほとんどの部屋には大きな天井まで届く窓があり、そこから入る光で室内は明るく、廊下も明かりをつける必要がない。右側にあるひとつの部屋に入り窓から外を覗くとそこは中庭で、見ればこの洋館はロの字形をしているらしかった。

 まるでホテルのようだと思いながら、潤は奥へと進む。途中廊下を右へ折れると右手は全面硝子扉が続き、その向こうは中庭を見下ろすテラスになっていた。左手は、とこれまた扉の開け放たれた部屋を覗くと大食堂のようだ。大きく細長いテーブルには真っ白いクロスがかけられ、その上には均等に燭台が並び、また真っ赤なランチマットが両側に並んでいる。

(ここが食堂ってことは、キッチンも近いよな)

 そう思いながら潤は視線を廊下へ転じようとし、しかしその瞬間、視界の端を何かが掠めた。一瞬だけであったが、その姿形は潤が見間違うはずのないものだった。潤はすぐさま振り返ったがそこには誰もいない。

(今……の)

 足音はまったくなく、しかしどこかに隠れているようすもない。廊下から顔を覗かせすぐに引っ込めた彼の姿は、それが幻覚ででもあったかのように掻き消えていた。潤はその場に立ち尽くし、廊下と大食堂の中を交互に見やる。だが何ひとつ動くものなどない。

 気のせい──先ほど夢に見たせいだろうと気落ちしてため息を吐き、潤はのろのろと廊下へ戻り先へ進もうとする。だが今度は、バタバタという足音と扉の軋む音が聞こえて来た。

 不意を突かれたように潤は目を見開き、一瞬逡巡する。しかしわずかに顔を顰め、それが聞こえてきた廊下の先──洋館の奥へと走り出した。

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