第2話

 森の中の行進は想像以上に困難だった。人の手が入っていないのを証明するかのように下生えは伸び放題であり、それに隠れ地面のそこここから突き出る根の瘤に足元を掬われそうになり、かと思えば朽ちた枯れ枝やそれに絡みついた蔓が行く手を阻もうとする。傾斜が緩やかなのだけが救いであった。

 しかし潤の息はかなり上がっている。痛みに小さく呻くその顔には薄らと汗が浮かんでいた。海岸にいたときは海風のせいかそれほど感じなかったが、気温と湿度は結構あるようで、あまり陽の射さない森の中でも熱気が籠っており、それが肌に絡みつくようだった。

 潤はふと立ち止まり、頭上を見上げる。うっそうと生い茂る木々の合間から木漏れ日が射す以外は特に何も確認できず、自分が一体どの辺りを歩いているのか、どの程度歩いて来たのかさえわからない。手を見るといつの間にできたのか、枝に引っ掛けたのであろう擦り傷がいくつかあった。

(どっちから来たのかさえわかんなくなりそうだな……)

 近くの樹に手を突いてため息を吐くと潤は辺りに目をやる。波の音が微かに聞こえてくるお陰で大体の方向は掴めそうな気がしたが、もう少し進めばそれも聞こえなくなるだろう。あるいは周囲を海に囲まれた小さな島なのだ、全方向から聞こえてくるようになるかもしれない。

 骨が折れているわけではないようだし、どこが特に痛むというわけでもなかったが、身体の疲労はかなり限界に近い。ここで倒れるわけにはゆかない、と潤は再び歩き出す。光は金属に反射したように見えた。鉄塔か、それとも別のものか、いずれにせよそれの元にゆけば何かしら人と連絡を取る手段は得られるだろう。

 そうして、木々に邪魔されながらも森の中を進んでゆくうち──ふいにそれが途切れ、視界が広がった。目の前に草原があった。

(──)

 そこは島の中央、丘の頂上らしかった。直径100メートルほどだろうか、森の深い緑に囲まれたそこは、まるで穴でも開いたようにそこだけぽっかりと青い空を覗かせている。その下に柔らかな緑が広がり、風が吹き、草がそよぎ、草原は波のようにうねる。青々とした草の合間にはたくさんの白い小さな花が揺れていた。そしてその奥、草原が途切れ森になる手前、潤がいるのと対称の位置には白い洋館が建っていた。

(人がいるのか……?)

 それまでそんな形跡すらなかったというのに、あるのが当然といった風情でその洋館はそこに建っている。赤い屋根の上には風見鶏があり、それは風に吹かれて時折その向きを変えた。潤が見た光の反射はそれによるものと思われた。

 家がある、ということは人が住んでいる可能性があるということだ。もし現在人が住んではおらずそれは以前のことなのだとしても、こんな島なのだ、何かしら外と連絡を取る方法が見つかるかもしれない。

 不自然だ、と潤は思わないこともなかった。不自然さを感じさせないことそのものに違和感を覚え、それが何かがあるような気にさせたが、しかしここまで来たら後戻りはできない。その洋館にしか縋る術はないのだ。ふと、誘われているようだ、と思いながらも潤は洋館に向かった。

 赤い屋根に白い壁のいかにもといった外観の洋館は、潤が近づいても静まりかえったままだった。大きなフランス窓の並ぶ白い漆喰の壁は建てられたばかりのように美しく、ポーチの支柱には細やかな模様の彫刻が施されている。ドアの前に立つとちょうど首の高さに円形をした真鍮のドアノッカーがあった。

 潤は戸惑うような表示を浮かべていたが、意を決してそれへ手を伸ばす。二度ドアを叩き、しばらく待った。だがいらえはない。もう一度ノックしてしばし待ったが、何の反応も返ってはこなかった。

(やっぱり誰も住んでないか……)

 潤はため息をつくと洋館の周囲を見回す。人が現れそうな気配もなかった。潤は扉に視線を戻す。住人に中へ招いてもらえないとなれば無理矢理にでも押し入るしかない。だがその前に、潤は扉が開くかどうか試してみることにした。窓を破って侵入するより、もし開くのなら扉からの方がいい。

 しかし潤がドアノブに手をかけるとそれはあっさり回り、重厚そうに見えた扉は引けば簡単に開いた。呆気に取られながら少しだけ開いた隙間を覗き、次いで力を込めて扉を引く。すると目に飛び込んで来たのは外壁と同じ白い壁の、二階まで吹き抜けになった玄関ホールだった。

 10畳ほどのそこは床全体に絨毯が敷かれており、正面の壁には風景画がかけられ、その下には落ちついた臙脂色のアンティークなソファが置いてある。左右の壁には二階へと続く階段があり、その脇にはそれぞれ猫脚の高めの台がしつえられ、そこにさまざまな草花を活けた大きな花瓶が飾られていた。

 玄関ホールを見る限り、その洋館に人が住んでいないとは思えなかった。しばし放置されたとき特有の埃っぽやひっそりと沈み込んだ雰囲気はまったくなかったし、今にも階段の後ろにある、おそらく奥へ続くのだろう廊下から人が現れそうな気がした。それに何より、階段下に活けられた花からは甘い香りが漂い、それは造花ではなく生花に見えたのだ。

 茫然とそれらを見ていた潤は、扉を開け放ったままつと中へ足を踏み入れた。ゆっくりと左側の台に歩み寄り、目線よりも少し下にある花瓶の花に触れる。やはり生花だ。先ほど草原に咲いていた白い花や、他にもさまざまな色の花がそこには活けてあり、しかし中でも目を引くのは目が痛くなるほどに赤い、名も知らぬ大輪の花だった。

 甘い香りの元はその花だった。潤が顔を寄せるとくらくらするほどに甘い香りがした。実際、それは錯覚ではなかったようだ。頭の芯が霞むような感覚に陥り、潤は先ほどまで感じていた、身体が悲鳴を上げそうなほどの痛みが少しずつ和らいでゆくのがわかった。

 と共に、急に強烈な睡魔が襲ってくる。目を開けていられず、しかしこんなところで倒れ込むわけにもゆかないと視線を彷徨わせると、入口正面のソファが目に入った。潤はふらふらと誘われるようにそこまでゆくと糸が切れたように崩れ落ち、意識を手放した。

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