RIVEN

ひりか

第1話

 そこは、美しく残酷な島──


 遠くから波の音が近づいてくる。音は少しずつ大きくなり、いつしか全身を包み込むように大きさで耳に奥に響く。ふいに肌寒さを感じて目を開けると、視界は一面の白い砂で、それをぼんやりと眺めているうち、ゆっくりと全身の感覚が戻ってくる。

 足元の冷たい濡れた感触に潤は覚醒した。

(どこだよ? ここ)

 軋む身体をなんとか起こして辺りを見回すと、そこは見たことのない海岸の波打ち際だった。寄せては返す波がふくらはぎから下を濡らしているのに気づき、砂の上を這って少し移動する。立ち上がろうとすると体中が鈍く痛んだ。わずかに顔を歪めながら潤は自分の状態を確認する。

 いつもと変わらないふだん通りのシャツとジーンズにスニーカー、どこか怪我をしているわけでもない。ただ、服は一度濡れてそれが乾いたような感じだった。まるで海に潜ったかのような──

(そう言えば俺、なんでこんなとこに)

 手には何も持っていない。周囲に何かそれらしき物が転がっているわけでもない。何度辺りを良く見てもまったく見覚えのない場所だ。それに──

 潤はゆっくりと波打ち際に視線を向けた。

(俺、何してた──?)

 水平線を凝視し考えるが、意識が浮上する以前、何をしていたのか覚えていない。それどころか、今日がいつで、いつから記憶が途切れているのかすら思い出せない。

(ちょっと……待て。これってもしかして──記憶喪失?)

 潤は笑おうとし、しかし表情を凍りつかせた。自分の状態と現在の状況を鑑みるに、海で溺れてこの場所に打ち上げられたとしか考えようがない。どういう経緯があったのかは当然わからないが、体中の痛みも記憶がないのも、溺れていた間に何かあったに違いない。

(マジで……?)

 潤はしばらくただ呆然と海を眺め続けた。しかし、いつまでもそうしているわけにもゆかない。ここがどこなのかはわからないが、取りあえず人のいるところまで行き、事情を説明して知人に連絡を取る他はないだろう。身体が痛むのは我慢するしかない。

 潤は痛みを堪えて立ち上がり、もう一度周囲を見回した。

 人陰はない。それに一体どういうわけなのか、海岸にはごみひとつ落ちてはおらず、美しい海岸線がどこまでも続いていた。砂浜の向こうは森になっており、そちらにも人陰も、人家らしきものも見当たらない。不振に思いながら潤は歩き出し、慎重に周囲へ視線を走らせた。

 白い砂には人の足跡さえなく、森の木々は人の手が入ったことなどないように生い茂っている。波の音の合間からときおりどこかでさえずる小鳥の鳴き声が聞こえ、それ以外の音は一切聞こえてこない。静かな場所だった。美しく静かで──いや、静か過ぎてまるで時間が止まっているかのような──

 森の際まで歩いても潤は何も見つけることができなかった。人がいるという痕跡がまったくない。

 ふいに潤の胸に焦燥感が湧いた。痛む身体を無理矢理引きずり砂浜へ取って返し、その海岸沿いにひたすら歩く。しかしどこまで進んでも辺りの風景が変わることはなく、海の青と白い砂、そして木々の緑しか目に映るものはない。人工的な物など皆無だった。しかしそれでも潤は歩き続け、前方に己のものであろう足跡を見つけたとき、やっとその歩みを止め、ずるずるとその場に崩れ落ちた。

(マジかよ……)

 そこには足跡だけでなく、己が身体を這わせた跡までもが残っている。潤は島を一周し、元の場所へと戻って来たのだ。白い砂浜に響く波の音、微かに吹く風の音に小鳥のさえずり、他に何もないこの島はおそらく無人島であろう。

(なんで……何が──)

 なぜこんな場所へ流れ着くことになったのか、それ以前に何があったのか。潤は必死で思い出そうとするが、なんとか浮かび上がってきたのは数日前、翌日のスケジュールを確認して家に帰ったところまでだった。

(そうだ、あの日は喧嘩して──誰と、喧嘩したんだっけ……?)

 座り込んだ砂浜はひたすらに白く、それを凝視して考え込む潤は考えれば考えるほどに思考がその白い砂に飲み込まれてゆくような錯覚を覚える。

(誰かと言い争って、それで──)

 焦れば焦るほどに焦燥感は増し、混乱して上手く思い出せなくなる。もう少しで思い出せそうなのに、掴もうとするとそれはすり抜けてゆく。潤は己を落ちつかせようと深く息を吐く。しかし一度湧いてしまった焦燥感は簡単に消えてはくれない。

 潤は無意識のうちに両手を上げ頭を抱え込もうとし──そのとき、空を切り裂くような鳥の鳴き声が響く。はっと顔を上げると大きな黒い鳥が一羽、不安を煽るような無気味な羽音を立てて森から飛び立って行く。驚いた潤はしばし茫然と遠ざかってゆくそれを見つめる。

 近くの森から飛び立った名もわからぬその鳥は、島の中央にあたるのだろうわずかに起伏した丘を越えてゆく。ふと、それを見つめていた潤の目が見開かれる。丘の上、木々の合間から一瞬、光が反射するのが目の端を掠めたのだ。

 潤は思わず立ち上がり、途端全身に走る痛みに顔を歪めた。しかしそんなことに構ってはいられなかった。光が反射する、ということはそこに何かがあるに違いないのだ。反射は丘の中心辺りだった。迷うことなく潤は森へ向かい、その中へ足を踏み入れた。

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