s/第25話/024/g;
前に立っていた水面と影中を押しのけて、本田が室内に入ってきた。
まだ固まったままの谷中のところまで来て、手を強引に笹目の胸から引きはがす。谷中は、あ、と意味のない声を漏らした。直後。
拳が飛んできた。
実際には、そう認識することもできずに衝撃だけを感じた。
身体が床に落ちて、ほぼ同時に倒れた椅子が、金属パイプと床のぶつかる、けたたましい音を立てる。
「——ってぇ」
見上げると、鼻からふいごのように息をしている本田と目が合った。
睨み合う。
「お前……」
口を開いた本田の台詞を途中で遮ったのは、笹目だった。彼女に抱きつかれた本田は、ゆっくりと呼吸のリズムを下げていく。
やめて、と繰り返す笹目の声だけが室内を埋めている中、谷中はじんじんと痛む頬の熱を感じながら、首を巡らせた。
最初に目が合ったのは、水面とだった。
彼女は、目を丸くして、床に座り込んでいる谷中を見つめている。怖いくらいに一心不乱なその視線が、谷中のそれと絡み合ったのを契機に、そらされる。
水面は、肩を動かして、ふう、と小さくため息をついた。
笹目の声にかき消されて、聞こえないはずのその音が谷中の耳には確かに届いた。
そして。
くるりと、いつかのスピンを想い出させるような、そんな鮮やかさできびすを返した水面が、無言で部屋から出て行こうとした。
「……ちょ」
呼び止めようとした谷中は、口を開いたとたん襲ってきた痛みと、目の前に立ちふさがった影に言葉を呑む。
「保健管理センターに行った方が、いいでしょう」
落ち着いた声でそう勧め、手を伸ばしてきたのは影中だった。
差し出された手を取り、立ち上がる。
そのとき、水面は既にいなくなっていた。
心配そうな笹目と、まだ憤懣やるかたないといった表情の本田、それに奇妙なくらいに平静な影中の視線を感じながら、谷中は一言も喋ることなく、現ミ研のクラブ室を出た。
急いでサークル棟を出るが、水面の影は見えない。
痛む頬を押さえたまま——歯がぐらついているような気がするし、少なくとも口内は何カ所か切っている——、谷中はゆっくりとため息をついた。
……突然の出来事に頭が混乱していた。
もう一度、ため息をつく。
今度は素早く。
そして、息を吸い込むと、歩き始めた。
保健管理センターではなく、自宅へ向かうために。誰にも邪魔されたくなかったのだ。とにかく、落ち着きたい。一瞬で大量の誤解を積み上げてしまった……。
大学の敷地を抜ける間に、痛みは強くなってきた。
歯の付け根や、あごまで痛むようだ。
本田の馬鹿力め、と思いながらも、谷中は歩みを進める。家に帰れば、風邪薬ぐらいはある。鼻炎止めのような成分まで入っているが、痛み止めの成分が入っているのだから、痛み止め代わりに使っても問題ないだろうと思う。
学生用のロッカーに置いてきた荷物のことも思い浮かんだ。
……たいしたことじゃない。
明日、どころか、今週いっぱい置いていても問題ないようなものだらけだ。外出時にたまに鞄を使うので、中身はともかく鞄だけはあったほうがいい、という程度。
水面にはどう思われただろうか。
そこに思い至ると、心中に苦みが広がった。あの場面は、言い訳ができない。水面より笹目のことが好きだと思われても、何も不自然でない。それは……嫌だった。
説明すれば分かって貰えるはずだ、と。
そう自分に言い聞かせつつも、不安が残る……。
いや、言い聞かせなければならないという時点で、そもそもの自信が不足しているわけだ。
今は何を考えても良い方向に行きそうにない。
谷中はなるべく考えるのをやめて、家路を急いだ。
そして、自宅のアパートの直前で、記憶に残っている姿に出くわした。
「やあ……お待ちしていましたよ、山下さん」
立ち止まった谷中の前で、温和な語り口で話しかけてきたスーツの男。
「覚えていらっしゃいますよね……。一課の尾張です」
「……ええ」
口を動かすと傷が痛んだ。
「おや、怪我をされているようですが。打撲のようですな」
「ええ……ちょっと」
口ごもる谷中に何を思ったのか、尾張はにんまりと笑みを浮かべた。
「まあ、若い人には、色々ありますかね」
本人もさほど歳ではないだろうに、そんなことを言ってから、一転してきびきびとした口調に変わる。
「事件の件なんですがね。調べてはいるものの、分からないことが多くて。現場百遍ともいいますし、関係者の皆さんにもう一度話を伺ってみようと——まあ、そういう次第でして」
「それで、お……僕にですか」
「山下さんは、第一発見者でいらっしゃいますから」
それなら、水面だってそうなんだが。
「お時間、ありますかね?」
こんなタイミングでなければ、と思う。しかし、警察の要請を、断りたくても断れないのが普通の学生だろう。谷中は、痛む頬に再び手を当てて、頷いた。
よかった、と笑う尾張の顔に、今さらながら不吉な予感を感じるが、今さらだった。
それから一時間ほど。
ここではなんですから、と近くの喫茶店まで連れて行かれた谷中は質問攻めにされた。細かな行動の齟齬や認識の違いなどまでねちねちと聞かれて、終わったあとは完全に疲労しきっていた。尾張が話を切り上げたときは、助かった、と感じたほどだ。
しかし。
「ご協力ありがとうございます。もしかすると、またお話を伺う必要がでてくるかもしれませんので、そのときはよろしくお願いしますね」
伝票を取りながら——飲み物だけだが、流石に奢りだった。こんなに話が長くなると知っていれば、サンドイッチぐらいは頼んでやったのに——、最後に尾張はそう言い残した。
その一言に、再び肩に疲れがのしかかる。
喫茶店を出て、尾張と別れる。
アパートの階段を上る頃になって、つと頭を過ぎった考えがあった。
逮捕とまではいかなくても、取調室で事情聴取、などにならなかっただけでもマシなのかも知れない、と。
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