s/第26話/025/g;

 翌日の昼。

 学食の一階は、この時間、とても混み合っている。かなりの席が学生と、一部は教官で埋まってしまい、席を確保するのが難しい。

 といっても、都会における朝方の満員電車ほどではないので、一人だけなら適当に空いた席に座ることが出来るのも事実だった。


 プラスチックの安っぽい椅子に腰掛けて、谷中はカレーを口に運んだ。

 定番のメニューなのだが、選択ミスだったと後悔する。なぜなら。

 しみる、のだ。

 谷中は内心歯がみした。まあ確かに、誤解されても文句の言えなかった状況だと思うが、本田は短絡的すぎる。殴る前に人の話を聞けといいたい。

 痛む口内に、ウォーターサーバーから汲んだグラスの冷たい水を流し込む。

 昨夕もこの方法でなんとかした。

 やはり効果があるらしく、今日も少しだけ痛みが治まった。

 なるべく黙々とスプーンを動かすが、考えは昨日の出来事からついて離れない。特に笹目のことだ。

 そもそも、彼女があんな突飛な行動をしなければ、こんなことにはならなかった。いったいどういう意図だったのか、未だに分からない。謎だ。

 あの場では事情……と欲情に流されてしまったが、笹目が自分のことを好きだと考えるのは難しかった。理由がない。それが普通なのかもしれないが……。

 いずれにしても、笹目とはもう一度話をしなければならないだろう。

 いや、その前に水面の誤解を解かないと。


 再び、口内に走った痛みに、スプーンを持つ拳を頬に当てて、机の上のグラスを手にした。飲もうとして、自然、視線が前を向く。

 そうしたら。

 見慣れたスーツ姿の女子を見つけた。

 外界に面した部分は、光が通るガラス戸になっているこの学食で、水面は光の射し込むテーブル席に座っていた。背後から光があたって、まるで後光のようにも見える。

 谷中は、少しだけ悩んで立ち上がった。

 ここで誤解を解消するのが、いいだろう。

 カレーの残りが乗ったトレイを手にして、側まで歩み寄る。

 ちらりと視線を上げた水面は、何も言わず、視線をテーブルに戻すと、器から白い麺をすすった。見ると、大きな油揚が浮いている、きつねうどんだった。


「座っていいか」


 麺をすすり続けている水面の返事を待つことなく、向かいの席に腰を下ろす。

 どこから話を切り出そうかとしばし迷い……。

 決断して、口を開こうとしたとき。


「なんで座ってるのかなー?」

「……え」


 耳を疑った。


「ボク、座っていいなんて言った覚えないよ?」

「……怒ってるのか?」


 器に視線を向けたまま——つまり、谷中の方は見ないまま——水面が答えた。


「呆れてるんだよ」


 思っていたより遙かに頑ななその声を聞いて、谷中が反応できないでいると、水面はつるりと麺をすすった。


「いや、あれはその、誤解なんだよ」


 このまま、二人で黙っていても仕方がない。

 説明すれば分かってくれるだろうと信じて、谷中は言葉を紡いだ。


「別に、襲ったとか、そういうんじゃないんだ。それは笹目さんだって証言してくれる。本当だって。何なら、聞いてもらっても構わないし。天地神明に誓って、やましいことはないんだから、勘違いしないでくれよ、な。……そこで、じゃあなんであんなことをしていたか、って話だけど、その、信じてもらえないかもしれないが——」


 ぱっ、と。

 白手袋の掌が、谷中の目の前に突きつけられる。

 こちらに右手を伸ばしながらも、左手は変わらず箸を動かしていた。……水面が左利きだということを、このとき初めて谷中は気づいた。

 つるつると麺をすすっていく音だけがしばし続いた。


「ちょっと待ってくれ……言い訳、じゃないか、弁解ぐらいはさせてくれよ」


 その言葉に、ようやく水面が顔を上げた。

 口の端からはみ出ていた麺がすっと唇に吸い込まれて消える。


「……よく分からないなー」

「何だって?」


 谷中の見ている前で、ふん、と鼻息を漏らす。


「キミのするべきことは謝罪のはずだよね?」

「……は」


 息を飲む。


「言い訳? 弁解? まず、ごめんなさいって言ってみたら?」


 ——何を言っているんだ、こいつは。

 本田の早とちり、笹目の意味が分からない行動と誤解を招いた悲鳴、それに尾張の執拗な取り調べがあって、今日も続いている頬の痛み……。

 かちん、と来た。

 谷中は、テーブルの下で、いつのまにか拳を握りしめていた。強く。

 ただの誤解で、なぜここまで言われなければいけないのか。


「……なんで、俺が謝らなきゃならないんだ?」


 水面なら、分かってくれると思っていたのに。

 押し殺したつもりの声だったが、実際はそうではなかったようだ。水面を越えて、もう一つ先の席に座っていた女子が振り返り、こちらをちらりと見た。


「俺は、水面に謝らなきゃいけないようなことはしていないはずだ。笹目さんに謝るってんならともかくな」


 水面を睨む。

 だが、彼女も強い視線を返してきた。

 まっこうからお互いの視線と視線が切り結んだ。そして。


「嘘つきのくせに」


 瞬間、頭が白くなった。

 え、どういう意味? いや、そういえば——

 谷中の思考が辿り着かない解答——水面の怒っている理由に、直感が一足先に到着していた。脳のシナプスが働いて、それを理解に落とし込む前に。

 水面は言った。


「——女の子に興味がないとか、嘘だったんだよね?」

「あ」


 それだけしか反応できなかった。

 初めて居酒屋に一緒に行ったときの、谷中が自分で口にしたその台詞。

 水面が怒ったのは、それが嘘だったからと知ったから……証拠を見せられたからだ。その一言を信じていたから、これまでの自分と水面の付き合いが成立していたのだと。

 ……気づいたときには、遅かった。

 口を開けたまま固まる谷中の前で、水面はトレイを手にして立ち上がった。最後に遺した一言は。


「……二度と顔を見せないでほしーな」

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