s/第11話/010/g;
※作者による注釈
筆者がこの物語を書いたときは、iPhoneが日本にやってきた直後ぐらいでした。作中の時期もその頃というわけで、スマートフォンをよく知らない谷中君が、極端に時代遅れなやつというわけではありません。
二人は、段田の恋人だった御堂みちるがいるという、工学部棟までやってきた。
日頃、谷中がよく見ている経済学部棟は、アルファベットのhのような形状をしているのだが、工学部棟はシンプルなL字型だった。
開放されている玄関口から足を踏み入れてみると、内面もすっきりしていた。どうやら、建てられた時期が新しいようだ。
「何階だったっけ?」
「んーと……三階だね」
スーツの内ポケットから取り出したタッチパネル型の携帯——スマートフォンだったか——に目を落とした水面が、谷中の問いに答える。
「……パソコンと、使い分けてるのか、それ」
入り口そばの階段を上り始めて、二階分登ったところで、水面に聞いてみた。前に居酒屋でも触っているところを見たのが、脳裏に思い浮かぶ。
「そーだよ」
「便利、なのか、それ」
階段を進む足を緩めて、呼吸の間に台詞を組み込む。
「興味、あるんだ?」
「まあ……あるっちゃある程度だけど」
登り切って、廊下に出ながら言うと、水面が「じゃあ今度、軽く説明してあげるよ」と応じてきた。谷中は軽く頷く。少しずつ距離が縮まっているようで、嬉しかった。
「さて……ここかー」
通路を折れて、半ばまで進んだところで、二人はドアに向き直る。
ここまで誰とも出会わなかった。この時間帯、あまり人はいないのだろうか。ドアの前には研究室名が張ってあるから、間違いはないはずだが……。意を決したのか、水面は谷中の見ている前で拳を握ると、二度ノックした。
「——はい」
透明感を感じさせる、澄んだ声だった。
水面がノブを回して押すと、戸は音もなく開いた。
高低がバラバラの風切り音が集まって、ゴーッという騒音になって耳に届く。時折、ごりごりと何かを削っているような物音もする。
室内は広い……はずだ。
片方の壁側と部屋中央には二段の幅広の机風のラックがあり、沢山のタワー型のパソコンと液晶モニタ、数は少ないがブラウン管のテレビのような形状の、CRTモニタもあった。
パソコンは、谷中でも知っている家電メーカーのロゴが付いたものから、無骨なデザインで乳白色のみ、あるいは黒のみで塗られているもの、少し洒落ているといっていいのか、派手めな紫と黒のツートンカラーのものもあった。ぱっと見ではとても数え切れない。
それぞれには、管理用なのか、文字の書かれた白いシールが貼ってあった。視線をそのまま滑らせていく。奥の窓側に、広めの作業テーブルがあって、椅子が複数並んでいた。
腰掛けているのは、一人。
入ってきた谷中たちを眼鏡の奥から観察している、白衣の女性だった。
「どちら様ですか?」
声にはあまり暖かみがなく、冷たい水のようだ。視線はそれ以上に温度が低く、あたかも氷めいていた。
「私は水南水面と言いまして……こちらは山下谷中です」
「……貴方が水南さんですか。初めまして。ええ、山下さんも、よろしく」
水面の言葉を聞いて、少しだけ視線が和らいだ気がする。理由は分からない。
「ここには、何の御用?」
「えーと、御堂さんに、段田さんの事件に関して、聞きたいことがありましてー」
くすり、と。
谷中の事前予想に反して、その女は笑った。軽く息を吐き出すような、ささやかな笑い方ではあったが、それは確かに笑みだった。
恋人が死んだ女性の反応としては、奇妙だと思ったとき。
「貴方がそのようなことを気にするなんてね。聞いてたことと違うから驚いてしまったわ」
御堂は眼鏡を伸ばした指先で直しながら、そう言った。
「……そーですか? まー、何を聞いていたのかは知りませんけど、今ここにいるボクが、ボクですよ?」
「……成る程。失礼だったかしら……いえ、詮のないことね。さて、なんでしょう? 質問にはお答えしましょう——答えられる範囲で。ただし」
谷中は、厳しい彼女の口調にやや気圧されていた。
「質問する側を、回答する側が観察することもあるというのを忘れないで」
「りょーかい。じゃあ、まずは二人の関係について。恋人同士だって聞いたけどー?」
「その通りです」
年齢にして、二人は四歳ぐらい離れているはずだが、力関係はそうではないように見えた。御堂が思わせぶりに話していたことは何なのだろう。二人のやりとりは、谷中に、水面について、まだ知らないことが沢山あるということを自然に想起させる。
「お付き合いは長いのかなー?」
「それは、私に聞かなくても分かることでしょうけど。長いとは言えませんね。私がこの大学に来てからなのですから」
大学院に入る際に、通っていた大学とは異なる大学を選ぶことは珍しくないと聞いている。
「……ここでしか聞けないことを聞いた方がいいと思うけれど」
どういうつもりなのか、御堂はそんな忠告めいたことを言った。
「証言の食い違いを確認するのも、ありだと思うけどー。警察は来ましたか?」
「事情聴取には来ました」
「疑われなかったの?」
「さあ……。それは何とも言えませんね」
のんびりした水面の話し方と、丁寧だがきびきびしている御堂の話し方が、うまく噛み合っているのが不思議だった。
「先週の水曜日、午前一時ぐらいに何をしていたか教えてほしーな」
「同じ質問ですね」
警察にも聞かれたと言いたいのだろう、と谷中は察する。
御堂は、持っていたボールペンの先で、コツコツと机をつついてから答えた。
「かなりの長電話をしていました。相手の名前も教えましょうか?」
水面が頷いて、漢字や連絡先を確認しながら、スマートフォンを操作した。
質問と回答の応酬は、もうしばらく続いた。
その間、谷中は立っているだけだった。口を挟む余地がまるでない。
「最後に……」
「早いですね、もう十分なのかしら?」
「また聞きにくるかもー。みちるさんの、専門は何ですか?」
途中から御堂を名前で呼び始めていた水面が、その質問を発すると、御堂は少し笑った。
「他人に聞いても分からないことを聞いた方がいい、と言いましたのに。専攻は電気音響工学です。これを見てご覧なさい」
言われて、水面はもちろん、谷中も御堂の手元を見た。
そこには、パソコンに繋がっている箱があった。目玉の付いた、小さな立方体という趣である。目玉のところは携帯のカメラに似ている。きっとレンズだろう。
「簡易的ですが、今はこれに組み込まれたマイクを使って実験を行っています。やや情報音響工学に近いといえば、分かりますよね?」
その問いかけは、明確に水面に向けられたものだった。
少なくとも、谷中には何のことなのか分からない。
「うん、まー一応はね。みちるさん、どーも、ありがとう」
ぺこりと頭を下げる水面に、御堂は軽く頷いてから、机に向き直った。
会話はそこまでだった。
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