s/第6話/005/g;

 警察が来たのが遅かったのか早かったのか、思い出せないことに気がついた。


 段田の遺体を発見してすぐ、水面に警察へ電話をかけてもらった。救急車もやってきた。その前に、水面が、谷中の見ている中で、室内に入って遺体の様子を少しだけ見た。

 どうしても、という水面を止められなかったのだ。

 現場保全だとか、そういう刑事ドラマで見るような知識は完全に頭から抜けていた。気にしたのは、凄惨な様子を彼女に見せていいのかどうか、という一点だけ。だが、それも、水面からの希望だったので、わずかに躊躇いつつも認めてしまった。


 警察が到着したときには、既に二人は部屋の外にいた。

 何か布でもかけてやるべきかと後で気づいたが、再び室内に入って、そうする勇気は沸いてこなかった。


「間違いなく、死んでたよな」

「……うん」


 室内に入る警官の背中を見ながら、谷中は水面に耳打ちしたものだった。

 このときは、水面も言葉少なだった。

 それからもう少し経って……。

 スーツ姿の、刑事を名乗る人物が、二人の前に姿を現した。細身で、穏やかな様相をした、三十代半ば過ぎぐらいの男だった。縦開きの警察手帳を示して、捜査一課の尾張小野介おわりおのすけです、と名乗る所作は、いかにも手慣れている様子。


「お二人が、最初に発見されたとか?」


 低めの声は落ち着いていて、好感が持てた。


「ええ……はい」

「お名前を聞かせてもらえますかね?」


 谷中、水面の順で名乗る。


「大学生でいらっしゃる? 学年は?」


 年上の男性から、丁寧な言葉使いで話しかけられるのに違和感を覚えながら、谷中が大学名と学年を答える。水面も同じように答えた。


「ところで、お二人はお付き合いされてるんですか?」

「いいえ」


 水面が即答。少し遅れて、谷中が首を横に振る。

 あまりに早い返事に、尾張という刑事のほうが呆気にとられたようだった。ぽかんと開けていた口を閉めると、一つ頷く。再度話し始めるまで、少し時間がかかった。


「えっと、まあ……じゃあ……すみませんが、順番にお話を伺わせてくださいね」


 そうして。

 谷中と水面は、それぞれ個別に刑事から話を聞かれることになった。これが事情聴取なのだと気づいたのは、実際に答え始めてからだった。


 谷中が尋ねられたのは……。


 何の目的で、ここに来たのか?

 どうして水面に付き添おうと思ったのか?

 水面とはどういう関係か?

 部屋の鍵がかかっていたのは確かか?

 どうやって開けることが出来たのか?

 大家とはどういう関係か?

 なぜ開けようと思ったのか?

 先に室内に入ったのはどちらか?

 室内で遺体に手を触れたか?

 その後どうしたか……エトセトラ、エトセトラ。


 質問の流れは、ほぼまっすぐ時系列通り並んでいるようで、時々思い出したように「ああ、そういえば……さっきの件ですが、なんたらはどうだったんですか?」などと過去に戻ったり、流した詳細について説明させられたりする。


 谷中が一通り答えるだけで、小一時間はかかっただろうか。

 質問を切り上げるときに、尾張が「うーん。また調書が長くなっちゃうなあ……」とぼやいていたのが印象に残っている。

 その後で、ここでお友達を待ちますか、と聞かれたので頷いた。次の講義のことなんて、完全に忘れていた。どっちにしても、既に時間がオーバーしていたけれども。


 そしてさらに小一時間。


 疲れた顔の水面とともに尾張がやってきた。それではまた連絡しますので、旅行など行かれる場合は前もって連絡してください、と念押しされて。二人はようやく解放された。

 へとへとになった谷中と水面は、あまりものも言わずに早々に別れた。


 帰宅した谷中が、床に寝転んで天井を眺めて、回想を始めたのがついさっきのことだ。

 なんとも、凄い経験だった。


 ……血まみれの遺体のことは、あまり思い出したくない。


 夕食が摂れるかどうかは、微妙なところだった。多分、大丈夫だと思うが、食事中にふと思い出したら、気分が悪くなるだろう。

 水面なら、大丈夫な気がした。

 根拠らしい根拠はないが、谷中の次に遺体を見たときの彼女の目が、落ち着いているように思えたのだ。感情は少なく、ただありのままを観察する目——。 

 それに比べて、あの場面でもっと冷静でいるべき自分は、実際はかなり動転してしまっていたと思う。例えば、警察が来るまでにかかった時間すら覚えていない。


 恥ずかしいところを見せてしまったか、と少しだけ反省。

 続いて、あの状況じゃ仕方ないよな、と誰にも聞こえない言い訳を呟く。


 不意に、誰かに電話で話してみたいと思ったが、警察に止められていることを思い出す。殺人事件——いや、まだ殺人ではない可能性もあるとは言っていたが——の発見者という立場になったのは、もちろん初めてだったが、何かが特別に変わることはなさそうだった。

 すぐ隣の部屋で死体が見つかった——見つけたというのに、多少の気持ち悪さを別にすると、なぜだか現実味がない。それとも、徐々に実感が生まれてくるのだろうか。


 たとえば、事件がニュースになれば……。


 そこで気づいて、テレビのスイッチを入れた。

 だが、この時間、ニュース番組はやっていない。インターネットで新聞社の記事を見てみよう、速報として上がっているかもしれないしな……。

 谷中の心に、遺体発見の時とは異なる、野次馬的な興奮が持ち上がり始めていた。パソコンの電源を入れ、OSが立ち上がるまでの時間を、冷蔵庫から取り出したペットボトルの麦茶を

喉に流し込むことで埋める。


 冷たい麦茶が、胃に染み渡る。

 その時、ようやくのように、思い出した。


 尾張という刑事が、合い鍵の所在について、かなり気にしていたこと。

 別れる直前の水面が、次のように言ったこと。


「ベランダ側も、張り出しの方も、両方とも窓には鍵がかかっていたって聞いたよ」


 鍵のかかった部屋で、仮に自殺じゃなくて殺人だとしたら。

 俗に言う——密室殺人ってやつなのだろうか?

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