s/第5話/004/g;
「これが、谷中くんの住んでるアパートかー」
どこにでもあるような、二階建ての木造アパート——数年前にリフォームしたとかで、薄青の一色で表面塗装されている外観は、そこそこ綺麗——の前に着いて、水面が最初に漏らした台詞がそれだった。
「何の変哲もない、ただのアパートだけどな」
大学生活の住居を決めるにあたって、他の部屋は一つも見てないので、本当に普通なのかはいささか自信のない谷中が言った。
「風見が丘ハイツ……ねえ、この手の建物のネーミングって、どーゆー基準なんだろって思ったことない?」
「いや、特にないな。なんか意味でもあるのか」
「ないみたい。雰囲気だけだとか」
どちらかというと知りたくなかった情報を語りながら、水面は辺りをきょろきょろと見回している。
「なんか気になるものでも……?」
「コンビニとかないのかなあ、って思って。結構不便じゃない?」
「スーパーならあっちの方に五分ぐらい行けばあるぞ。まとめ買いするなら、コンビニより効率がいい」
谷中が指さしながら言うと、水面は、ほう……、とため息を漏らした。
「もしかして、キミは自炊とかしちゃう人ですか?」
「……するけど?」
なんで急にですます調になったんだ?
「やるねぇ。今時の若者も侮れないなー」
「水面も今時の若者だろ……ってか、自炊しないのか?」
「精神へのダウン攻撃入りましたー!」
頭を抱えて水面がわめく。
「……いや、まあ、別にいいんじゃないか、コンビニ生活でも……」
「とってつけたようなフォローが痛いー!」
どうしろと。
谷中の見守る中、しばしよろめいていた水面は、だが立ち直った。
「……ふふふ。さて、目的地はここの二階です。二〇三号室」
腰に手を当てると、びしぃ、と効果音が鳴りそうな仕草で二階を指さした。
「二〇三って……完全に俺の部屋の隣じゃん」
「そうなの?」
偶然ってすごいねー、と呟いて、水面は隅の階段まで歩く。段に足がかかると、金属の響く軽い音がした。
カンカンカン。
リズムよく登っていく音に続いて、谷中も後を追った。
「二〇三、と……ここね」
もっとも奥のドアの前で、水面が立ち止まる。谷中はその隣に並んだ。
表札には、段田、とだけ書かれている。
谷中の見守る中、谷中が息を吸ってチャイムを押した。高音から低音に繋がる電子音が、ドアのこちら側にも聞こえた。
しばらく待って、もう一度。
水面は、続けてドアノブに手をかけたが、鍵がかかっていて、回らないようだった。
「……出ないね」
「留守じゃないのか?」
「うーん。そういや、居留守の場合があるかも知れないってメールに書いてたなー……」
「気持ちは分からんでもないな」
返す当てがないのなら、借金取りに顔を合わせたくはないだろう。
「こういうときは、大家さんから鍵借りろって書いてあったから、行ってくるよ」
水面が谷中を残して歩き出した。
階段を下りる音を聴きながら、谷中は一階の角部屋が大家の部屋だったな、と思い出す。そのまま少し考えてから、水面の後を追った。
一階に下りると、水面は大家が住む部屋の前で、肩を落としていた。
「……うーん。居ないみたいだねー」
「やっぱりな」
その言葉に、水面が谷中の顔を見た。
「いや、ここの大家、実は俺の親の古い知り合いでさ……。それで、よく知ってるんだけど、あんま部屋にいないんだよ。事前に電話とかで連絡しないとまず会えない」
「へーえ。それでここに住んでるの?」
「そういうこと」
でなければ、他にも何件かアパートやマンションを比較して部屋を決めたはずだった。
「そっか……だったら仕方ないか……無駄足だったなー」
「いや、ちょっとまってろよ」
がっかりしている様子を見て、谷中はつい口を挟んだ。
階段を急いで駆け上がり、自分の部屋のドアを鍵で開ける。靴は脱ぎ捨てて、室内に上がると整理ダンスの左上を引き出す。詰め込んである靴下の中にある、ピンク色の一足を取り出すと、ひっくり返して、掌の上で振った。
ころり、と鍵が転げ落ちてきた。
部屋の外に出て、鍵をかけて下に降りる。靴紐を締めるのが面倒なので、サンダルをつっかけていた。
「待たせたな」
「急にどうしたのさー」
水面の前に鍵をかざした。
「大家さんの部屋に、これで入れるぜ」
「お、犯罪っぽい匂い」
「失礼な。何かあったときのために預かってるだけだよ」
言いながら、水面にどいてもらうと、谷中は鍵を開けた。室内に水面を入れるのはやりすぎだと思ったので、事前に聞いていた鍵のありかから、二〇三号室の鍵だけを持ってくる。
「いやあ、谷中くんに来てもらってよかったなー」
「実際、よっぽどの偶然だよな、こんなの」
などと適当な会話を交わしながら、二人は二〇三号室の前まで戻った。
「一応もう一回チャイムを鳴らして……と。谷中センセイ、お願いしまーす」
「任せろ……あ、でも、本当に留守だったら引き返そうな」
いくら借金があるからと言っても、勝手に家捜しするのは行き過ぎだ。
「了解」
水面の返事を聞きながら、鍵穴に鍵を差し込んで回した。カチリ、と音が響く。
「さてと」
ドアノブを回して、ドアを開けた。
そのとき。
「……なんか、変な匂いしないか?」
鼻孔をくすぐる、錆びた鉄と生ものが入り交じったような臭気を感じた。
「言われてみれば、少し……する、かな」
自分自身にバニラの匂いをまとわせている水面には分かりにくいのかも知れない。一歩踏み込み、室内に呼びかけた。
「すみませーん。大家の代理ですがー。段田さーん?」
答えは、ない。
不快な臭いはますます強まっている。
「ちょっと、入らせてもらいますよー……?」
「谷中くん?」
サンダルを脱いで、室内に上がり込もうとした谷中を引き留めたかったのか、背中から水面の声がかかったが、谷中は聞こえないふりをした。
玄関付近から奥の部屋に移動する。
……。
「水面。電話してくれる?」
「は? え? どうしたの?」
「救急車……いや、多分警察だな、これ」
自分でも不思議に思うくらいの、平静な声。
「いったい何なのよー? そっち行くからちょっと——」
「入っちゃ駄目だ!」
谷中の部屋と、そう大きな違いのないアパートの一室で。彼は乾いた血だまりの中、横たわっていた。一人の男が、小さなテーブルの隣で横になっている。大きく見開いた目と、閉じていない口、つまりは、苦悶の表情を浮かべて。
胸の中心から溢れ出したと思える血が、フローリングの床に広がっていた。
すぐ隣には、キッチン包丁が転がっている。何の変哲もない包丁だ。
ただし、黒ずんだ何かで、根本まで汚れていなければ——。
そこには、ここに住んでいたはずの、段田の遺体と思われるそれが、大の字になっていたのだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます