第19話 中編2




 ☆


 ちょっと待ってください。

 と、脳内では言っていた。だけども現実では何も喋れなかった。喋る暇さえなかったのだ。声帯が音を鳴らす前に、遠野さんの顔が眼前に迫ってきていたからだ。

 まず最初に俺は何をされているんだろうと混乱して、それから形の良い唇を見とれて緊張し、心臓が一気に跳ねた。

 キャパシティー。という言葉がある。様々な場面で使われる語句だけど、要は力量だとか能力だとか、そんな感じの意味だ。で、当然ひとりひとりのキャパシティーはバラバラだ。このような状況になっても動じない人も居るだろう。口からスラスラと何かを紡いで遠野さんの行動を止めたり、それ以前に普通に身体を動かして東野さんの肩でも掴めばいい話だ。

 そして一言、「何をしてるんですか?」と言えば良いだけの話だ。

 しかし、俺には無理だった。

 きっと、俺のキャパシティーを超えてしまったのだ。キャパオーバー。

 俺は昔から感情が高ぶってどうしようもなくなると身体が勝手に動いていた。しかも拒絶するのではなく受容する方向へと動いてしまうのだ。

 そんなんだから、手痛い経験を積む羽目になる。潮谷由宇と交際するに至ったときもそうだったんだ。頭で考えるより先に身体が動いて、彼女を抱き締めていた。

 俺の気持ちの深度はさておき、付き合っていたとはいえ中学生だ。程度の知れる、形ばかりのお付き合いだったから、実際の交際経験というのは皆無に近い。

 その手の経験を積んでいれば異なる行動を取れたのだろうか。

 ぼんやりとそんなことを考えながら、気付けば俺は首を傾け、しがみついてくる遠野さんを抱き締めていた。

 そして次の瞬間、粘り気のある粘膜の絡み付く音が俺の耳に届いた。


 ☆


 日を追うにつれ、地表と空の間の空間が広がっているような気がした。ぽっかりと浮いている雲も、以前より地上と間隔を開けているように見える。

 手を伸ばしても、何も掴めそうにはない。若干センチメンタルなことを考えながら、秋風を縫うようにして俺は歩いていた。遠野さんと出掛けるために、俺は歩いている。

 それにしても寒い。上着を羽織ってきたけど、それでも風は冷たい。

 指定していた場所――駅前まではもうすぐだ。立ち並ぶビルを過ぎ、ガソリンスタンドを抜け、交通量の多い交差点の向こう側に駐車場がある。遠野さんが到着しているのであれば、そこに彼女の車が駐まっているはずだ。もう居るだろうかと思いながら駐車場を見渡すと、何度か乗せて貰った遠野さんの車があった。

 目を凝らしながら遠野さんを見遣ると、運転席に座っている彼女はぽうっとどこかを見ていた。遠い目をして、何かを考えている様子だった。

 俺のこと、気付くかな。

 自分の位置を調整し、遠野さんの視界の真正面に入るようにした。行動的には馬鹿みたいだけど、想い人が自分の存在に気付いてくれるってのは、それだけで嬉しいんだ。

 視線が合うと、遠野さんは小さく笑った。ほら、やっぱりそれだけで俺が嬉しくなる。

 俺がつられて笑みをこぼすと、遠野さんはドアを開けた。


「いつもそんなふうに歩いてるの? なんだか不審者みたいだよ?」


 初っ端から俺にダメージを与えたいのだろうか。先制パンチみたいな。


「酷い挨拶ですね……」

「冗談だよ。それにしても今日は寒かったでしょ。大丈夫?」


 秋らしいシックな装いをした遠野さんが俺にそう言葉を掛け、車に乗るように促した。

 助手席に乗り込んだ俺は脱いだ上着を膝の上に乗せながら、今日はマジで寒いですと呟いた。軽く腕を擦っていると、遠野さんは苦笑しながら暖房を付けた。

 暖かーい……。


「暖かーい……」

「なーんか海君っておじさんみたいだよねえ」

「えっ」


 気付かぬ内に心の声が漏れていたようで、再び遠野さんに苦笑された。


「……っていうか、ホント近くまで迎えに行っても良かったのに」


 遠野さん的には、俺の家の近所にあるコンビニ――初めて彼女と出会った場所――で待ち合わせをしたかったらしいが、誰かに見られていそうで怖いし、何より自宅が近いということに嫌悪感を覚えた俺が拒否したのだ。

 だって、きっと誰から見たって俺の自宅はおかしいんだ。まるで生活感のない、カーテンの閉じたボロボロのアパート。幾ら自宅の近所だからって、待ち合わせをした遠野さんが俺の家を覗くことなんてない。そんなことは分かっているけど、でもだけどもし、もし仮に自宅を見られてしまったら、何か思われるのではないだろうかと不安になる。


『海は……重いよ。面倒臭いよ』


 いつか由宇に言われた言葉が、脳内でリフレインする。

 遠野さんが俺のことをどう思っているのかは分からないけど、面倒だと思われたくなかった。両親が離婚して残った父親はアル中。どう見ても中々に面倒な家庭環境だ。隠せるなら隠し通したい。

 東野さんの呟きに返答できず、俺は曖昧に笑うことしかできなかった。何かを感じ取ったのか、彼女はすぐに「じゃあ、行こっか」と言って、車を動かした。


『遊びに行かない?』


 そんな文面で誘われたのだけど、確かに文面だけ見ればドキドキすることこの上ない。だけども、蓋を開けてみれば、ただ荷物持ちが欲しかっただけみたいだ。ここ一~二年の間、冬物の衣服を買ってなかったから久方ぶりに購入したいらしい。

 まあ、俺の心情的にはデートだからデートということにしておこう。

 信号で一時停止すると同時にチラッと遠野さんをバックミラーで盗み見ると、彼女もこちらを覗いていた。なあに、と目が告げていた。何も考えてなかった。

 デートみたいですね。いやこれは違う。そういう気が無かったら恥ずかしいどころじゃすまないしこれは聞けない。じゃあ可愛いから覗いていただけです、とか。いやいやいや、これだとナンパチャラ男に他ならない。

 話題を探そうとしてすぐに気付いた。そういえばアイツらの話があったじゃないか。


「なんでバカップルってイチャイチャしたがるんですかね?」


 あの二人(東太と愛生)のことをネタにしてみると、遠野さんは笑ってくれた。ほんっと青春だねえ。若いねえ。などど言いながら。


「そんなに年齢は違わないのに」

「そうでもないよ。そろそろわたしアラサーになるし。なんていうかなあ、誕生日を迎えても嬉しくなくなってくる歳なんだよねえ」

「別に俺も、誕生日になったって嬉くはないですけどね」

「でも早く大人になりたいって思わない?」

「それは思いますね」


 失業保険と俺の安いバイト代では生きていけず、少しずつ貯蓄を切り崩している状況だ。俺が卒業するまでギリギリ持つとは思うけど、早く卒業して就職したいのが本音だった。

 なんなら、卒業なんてしなくてもいいのかもしれない。

 生きていくにはお金が要るんだ。


「だよねえ」


 と呟く遠野さんはどこか遠い目をしていた。乗車する前、こっそりと眺めていたときもこんな目をしていた。前方を見つめているはずなのに、遠野さんは俯いているような気がする。

 さすがに気になって声を掛けてみる。


「なーんか考え込んでます?」

「っ……昔、わたしも思ってたんだよなあって」

「何をですか」

「早く大人になりたいなあって」


 当然のことだけど、遠野さんにも過去があるのだ。子供だった頃が存在するのだ。


「大人になって、何か変わりましたか?」

「……なーんにも」


 僅かに肩を竦め、それからため息を溢した。


「学生の頃って、二十歳も過ぎたら大人って感じがするけど、実際二十歳を超えたってなんにも変わらないんだよね。働いてお金を貰って、昔よりほんのちょっとだけ好きなように暮らせるようになっただけ。根本的なところはなんにも変わってないよ」


 普通に考えれば、遠野さんの言う通りなのだ。

 俺だって既に十八歳だ。あと二年も経てば一応は大人と言われる立場になる。しかし二年後の自分を想像してみたって、今の自分となんら変わっていないと思う。他の奴らはどうだろうか。東太は……あんま変わらなそうだ。つうかアイツはどこで働くんだろう。愛生も相変わらず東太の側に居そうだ。亜希さんはどうしているだろう。やっぱり変化もないままどこかで毒舌を吐いているのかもしれない。

 想像は想像でしかないから、実際のところ、どうなっているかなんて分からないけど。

 そう結論付けたあとで、俺の脳内に小さいけれど大切な疑問が浮かんだ。

 遠野さんは二年後に何をしているのだろうか?


「遠野さんは」

「ん?」


 声が僅かに掠れていた。車内に充満する空気が暖房の熱で乾燥しているからだろうか。なんだか俺も喋りづらい。んん、と軽く喉を鳴らして唾で潤した。


「遠野さんは二年後、何をしていると思います?」

「どういうこと?」


 むむ。眉を顰めているのが見えた。色々と過程を飛ばした質問だったため、意図が分からなかったのだろう。


「あ、いや。自分が二十歳になったときのことを想像してたんですけど、それって今から二年後のことで、それなら遠野さんは二年後に何をしているのかなーって思って」


 ああそういうことね。と言ったあとで遠野さんは呆けたように呟いた。


「二年後、かあ……正直分かんないかな。まあ、仕事はしてると思うけどね――暖房、切っても平気?」


「大丈夫ですよ」


 暖房ってのは、効き過ぎるとどうにも駄目だ。浮遊感とでもいうのか、脳内がグルグルと回っているような気がしてしまう。暖房を切った途端に空気は冷却されていき、それと共に俺の頭がクリアになっていく。熱で阻害されていた感覚が消失し、元に戻った俺の聴覚が捉えたのは、最近話題になっている映画の主題歌だった。

 その歌が流れている間、俺も遠野さんも沈黙を保っていた。俺は曲に聞き入っていたわけではない。喋り疲れたから休みたかっただけだ。

 曲の合間、隣で運転している遠野さんが軽く息を吐き出した。何故かは分からないけど、吐息の音が妙に大きく聞こえた。そしてすうっと息を吸った遠野さんは、曲のリズムに合わせるように人差し指でハンドルを叩く。打音が聞こえない程度の、優しい叩き方。意識して行っているふうではないから、恐らく無意識に行っているのだろう。

 『君が好き』

 端的に言ってしまえばそれだけのことなのに、言葉を捏ねくり回して曲は数分間も続く。自分の過去のことから今のこと。君とのあれこれ。喧嘩や多幸感。そんなことを歌ったあと、囁くような声で、ずっとずっと一緒に居れたらいいねと呟いて終わる。

 正直に言ってしまえば、近頃よく聞くタイプのアーティストだった。当たり障りのない柔らかい声質と曲調なのに、売り上げは凄いらしい。


「昨週発売された新アルバムですが、なんともうハーフミリオン……五十万枚も売れたようです。インディーズの時から応援している人にとっては嬉しいですよね。私もその一人なんですが!」


 とはMCの弁だ。声的には二十代後半くらいで、俺と年齢は変わりはしないけど、俺はそこまでこのアーティストに対して詳しくなかった。というか近頃のアーティストでそこまで好きになれるのが居なかった。

 先ほど抱いた感想を脳内で反芻して、時代遅れの老人みたいな感想だと内心苦笑した。



「最近のこういう……感じのって分からないんだけど、海君はどう?」

「俺も詳しくは分からないですけど、こういう曲ってCMでよく掛かってますよね。だから耳には残ってますよ」


 続いてのリクエストです。とラジオ番組のMCが告げる。

 曲が切り替わってまた流れ出すが、やっぱりよく分からない。確かドラマか何かの主題歌だったような気がする。しっかしまあ、先ほどまで掛かっていた曲と似たような声質だ。歌っている人間は違うはずなのに……。

 それにしても。


「さっきの間はなんですか?」

「……ああ、うん」


 そうねえと言ったあと、また少しだけ間があった。恐らく躊躇しながら何か言おうとしているのだろう。そう思ったが、遠野さんは突如として小さく笑みを溢した。


「突然どうしたんですか」

「どう言っても言葉が悪くなっちゃうなって思って。で、なんだっけ。そうそう。最近のこういう曲って、全部同じに聞こえちゃってさ。似たり寄ったりってのかなあ」

「ですよね。でもこういうアーティストの曲って遠野さんの年齢ジャストの人達に流行ってません? 職場とかで話したりとか……ぁ」


 慌てて口を噤んだ。もしかしたら会話をする同僚が居ないのかもしれない。職場では違う顔を持っている方も多いという話もよく聞くし。それになんとなく、遠野さんは同僚同士の会話を覗いている方が似合っている気もする。

 そんな事を思っているとバックミラー越しに睨まれた。


「失礼なことを考えてるでしょ? あのね。どう思ってるのか知らないけど、わたしだって一応社会人なんだから。話をする同僚くらいは居るよ」

「それでこういう話はするんですか?」

「それがあんまりしないんだよね……。今年後輩が三人も入ってきたんだけどね。仕事の話はするし、そういう部分では積極的なんだけど、プライベートな部分を全く晒さないのよね。なんでだろ?」

「いやいやいや。俺に聞かれても」

「だよね」

「そうですよ」


 そんなどうでもいい話をしながら――遠野さんの同僚の一人がここ数週間休暇を取っているだとか、隣の家に住んでいる夫婦の猫が失踪しただとか、そんな会話をしながら車は進む。一時間ほど経った頃、ようやく目的地に辿り着いた。一昨年に出来た超大型商業施設で、遊びに行ったことがある亜希さんが言うには衣服店が飲食屋が多いそうだ。

 当然のことながら俺はここに来たことがなかった。切迫している家計事情を父親よりも理解しているし、交遊費に多くを割くわけには行かなかった。せいぜいあの三人と近場のファミレスや喫茶店で喋るくらいだったけど、まあ、今日はいいだろうと思う。

 心が浮ついて財布の紐が緩んでいるのではなく、ちゃんと理由がある。財布にはいつもより多くのお金が入っているのだ。急遽入ったデートもどきの為にバイトのシフトを変更したのだけど、快く引き受けてくれた先輩に女性と遊びに行くと見破られたのだった。そしてなんと「お前たまには遊んでこいよ」と万札を握らせてくれたのだ。とても驚いたけど、ありがたく好意を受け入れることにした。先輩は後から謝礼を要求するような性格はしていない。

 駐車場に停車させたあと、俺たちは車外へと出た。外気はやはり冷たくて、再び着たコートや服の隙間から冷気が身体に染み込んでくる。今日が休日だからか、駐まっている車が多く、駐車できたのがショッピングモールと少し離れていた場所だった。とはいっても歩いて百メートルもないので、俺も遠野さんもショッピングモールの出入り口まで足早に向かっていった。

 出てくる人達とすれ違いながら、自動ドアをくぐる。中へと足を踏み入れた瞬間、一昔前のクリスマスソングが聞こえてきた。遅れてガヤガヤとした喧噪が響く。足音。何かが擦れる音。話し声。そのどれもが、現状に満ち足りている人々が慣らしている音のような気がした。



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二度目の、おはなし。 白黒音夢 @monokuro_otomu

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