第18話 中編1




 季節は緩慢に進んでいき、寒さの強まる神無月の半ばへと突入していた。既に前期期末考査も過去の出来事となっており、気を張り詰めていた反動なのか、周りの生徒達が醸し出す空気は緩いモノへと変化させていた。勿論俺自身もそうだ。

 しかし一ヶ月も経たない内に学祭本番になる。また空気は変わっていくのだろうけど、所詮はイベントだから楽しんで行う者達がほとんどのはずだ。

 それにしても寒いな。このまま冷え込んでいけば学祭の頃には温もりが恋しくてたまらなくなるだろう。個人的にはという前置きを付けるけど、売れ行きは抜群になるような気がするから、出す料理を煮込みモノにして正解だったと思う。

 遠野さんから助言された言葉が脳裏で思い出された。


『そうだなあ。……この前作ってくれたポトフとか、煮込み料理系なら良いと思うよ?』


 優しげな声でそう呟いたのを俺はまだ覚えていた。なんてことのない言葉の一つ一つを、未だに俺の頭で再生できる。

 思えば初めて遠野さんの家に行った日、俺が料理を作っている間に彼女は寝てしまったのだった。自宅に異性を上げておきながら寝入ってしまうとは凄い女性だなあと感心してしまいそうになったけど、それは違っていたと思う。

 課題を一問解く度にチラチラと彼女の表情を伺ったが、遠野さんは本当にぐっすりと眠りこけていたのだ。まるで幼い子供のように安心しきっている様子だった。

 寝息を立てる遠野さんを西日が照らしており、薄茶色の髪が透けて金色に輝いていた。

 何もかも、透けてしまうんじゃないかと思った。

 そこで俺はようやく遠野さんの本質を理解したような気がしたのだ。沢山の感情を持っているのではなく、大切な何かを喪失してしまった女性なんじゃないかと。

 そしてその『喪失してしまった女性』というフレーズが俺の琴線に触れたのだ。理由なんて分からないし、分かったとしてもそれは後付けなのだろうとは思うが。

 気が付けば、好きになっていた。

 だけど相手は住んでいる世界の違う社会人だ。どれだけ想いを積み重ねようと届くわけがないと思っていたのに、互いに心を許し始めていた。色々な価値観が符合していたからか、少しずつ懐に入っていけたと思う。

 なのに――

 腕時計が、俺たちに何かをもたらした。それから遠野さんはおかしくなった。何か余裕がないように感じるし、はっきりと言ってしまえば危なげだ。

 腕時計を付けていない俺は求められていないのだろうと分かっているけど、遠野さんがそれでいいのであれば……。

 駄目だ。俺に余裕がない。遠野さんがどうのこうのじゃなくて俺が危ない。

 大事なのは一つなのだ。遠野さんに疑問を尋ねるか尋ねないか、ただそれだけなのだ。

 ポッと頭の中に浮かんだのは『沈黙は金、雄弁は銀』という格言だった。確かそういう言葉があったような気がする。えっと、『喋ることも大事だが、黙っていることも大事だ』とかなんとか、そんな意味だ。

 実際のところ、どちらが良いのだろうか。


「なあ、どう思う?」


 LHRも終わり、帰り支度をしている東太の背に質問を投げかけてみる。振り返った奴はどこか不機嫌そうな眼差しで俺を睨み付けていた。主語を言わなかったのが気に食わなかったのだろうか。

 つうか目が赤すぎないか。季節外れの花粉か?


「あ?」


 迫力のある低音ボイスに少々ビビりつつ再び問う。


「喋る人間と寡黙な人間、どっちがイイと思う?」


 突飛すぎる質問に驚いたのか、東太は眉を顰め、腕を組んだ。


「……それはもう主観の問題じゃねえの。好き好きっていうかさ。俺自身は馬鹿みたいに喋る人間だし、喋ってくれる人が好きだよ」


 あまりにもまともな返答にこちらが困惑した。


「どうした?」


 とは言えないから誤魔化す。


「いや、目が充血してるなと」

「ソシャゲのやりすぎで寝てなくてさ……」


 さいですか。

 話を打ち切ろうとしてから一つ気付いて質問を投げた。


「んあ、でもそれっておかしくないか」

「何がよ」


「愛生ちゃんってそんなに喋らないだろ」

 俺がそう指摘すると、東太は気色の悪い笑みを浮かべた。


「分かってねえなあ。お前」


 視線で先を促す。


「喋るって口から声を発することだけを指すんじゃないだろ。もちろん辞書を引けばそう書いてあるんだろうけどさ。言ってる意味、分かるか」


 小さく首肯する。


「海が今やったみたいに視線で何か告げることだってあるし、表情だったり、足音なり掌の温度なり、まあ色々あるじゃんか。愛生が俺に伝えてくる手段ってケッコーあるんだぜ」


 目を擦りながらだから全く様にはなっていないけど、そう告げる東太はどこか格好良かった。


「愛生は物静かだけど沢山喋ってくれる女の子だよ――っとそろそろ帰るか」


 少し離れた箇所で談笑していた亜希さんと愛生は、俺たちをチラチラと覗き見ていた。視線に気付いた東太が話を切り上げると、ちょうど二人はこちらに向かってきていた。

 不思議そうな顔で愛生が東太に尋ねていた。


「二人とも何を話してたの?」


 東太は軽く首を横に振り、なんでもないと言ったが、思い付いたとばかりにニヤリと笑った。


「いや、なんでもなくはないなあ。海君のお悩みを聞いてたのよ。恋で悶々してるんだってさ」


 東太の妄言を信じたのか、愛生は目を丸々とさせてこちらを見ていた。きっとこれは興味津々わたし気になりますの瞳だ。


「ほんと?」

「愛生ちゃん違うから。東太てめえ覚えとけよ。……っていうか黙ってないで助け船出してくれます?」


 と亜希さんに矛先を向けると、彼女は一笑に付した。


「恋で悶々な男に助け船なんて要らないでしょ」


 相変わらず冴え渡る舌の切れ味に惜しみない拍手を送りたいが、切られているのは俺だった。しっかし、よくもまあ出てくる度に毎度毎度こんな返しができるなあ。


「どんな刀だって研磨しなきゃ切れないのに亜希さんはいつどこで研いでるんですか?」


 一瞬だけ眉を顰め、それから真面目な顔になった。


「……いつだって相手は頭の中に、みたいな」

「誰と戦ってるんすか……」


 俺の辟易した声に連鎖するように同様の温度で誰だっていいじゃないと亜希さんはこぼした。


「で、どうなんだよ」


 愛生ちゃんとじゃれ合いながら東太が尋ねてきた。なんのことか分からない。


「なんの話だよ」

「恋で悶々」


 プッと吹き出してしまった。


「蒸し返すなよ。もういいだろそれ」


 あぁーとかんぁーとか煮え切らない返事をするのが気になって一歩踏み込む。


「本気でそう思ってんのか」

「最初は適当に言ったんだけど、当たらずも遠からずの気配がするんだよなあ。つうか何度も言ってるけど、お前は顔に出やすいんだって――なあ?」

「うん」

「そうね」


 二人は揃って頷いた。


「まあ、とりあえずマジで相談してみろって。俺はともかく女性陣のアドバイスは役に立つだろ」


 からかい口調でそう言ってくる東太だが、きっとその実心配してくれているのだろう。これまでの会話からそれは容易に推測することができた。


「そうなんだけどさ。……どうすっかなあ」


 こぼれ落ちる本音。


「これだけ周りに心配されてるのに言いたくないってこと?」

「言うか言わないかはさておきその言い方だと俺のことを亜希さんも心配しているってことに――痛え!」


 先ほどのお返しとばかりに揚げ足を取りに行ったが、途中で脛を蹴られて中断を余儀なくされた。


「これがツンデレなのかなあ」

「絶対ちげえよ。亜希にはデレ成分がない」

「デレって具体的にどういうのなの?」

「そのままの愛生がデレって感じかな」


 まーた始まったよとクラスメイトの揶揄めいた声が聞こえた。まあ、揶揄めいたとは言ったけど、馬鹿にしているのではなく親しみの籠もった声だ。一人がそんなことを言うと、それに気付いた周りの生徒から幾つか笑い声が飛んできた。

 良い方向になったなあ。

 以前行った学祭メニュー作り調理練習の際、俺は愛生に東太との馴れ初めを聞いたが、それは二人がこの高校に入学するに至った理由そのものだった。そしてその会話の中で俺は、愛生が長い間抱えていた小さな(本人にとっては大きな悩みであろうけど)悩みを解決したのだ。解決したなんて言うと上から目線で偉そうに聞こえるけど、要は俺の視点から見た二人の関係性を伝えただけだった。

 東太は愛生のことが好き、と。

 それだけで二人の距離は以前より縮まった。愛生は東太に向けている好意を隠そうとしなくなったし、そうすると東太も前より真っ直ぐに愛情を示すようになった。

 良いことだ。良いことなんだけど一つだけ問題が起こった。それがこのバカみたいな会話だった。


「そんなこと言ったら東太の方がデレって感じだよ? リアルツンデレだー」

「いーや。愛生の方が」


 これ以上は聞くに堪えないからお耳をシャットアウト!

 どうでもいい掛け合いほど見ていてつまらないものはない。というかこの会話はどう考えても本当にこれはホント「バカップルそのものね」

 思わず口に出してしまったかと思ったけど、聞こえてきた声は亜希さんのものだった。

 シンクロ率が高えなあと苦笑しつつ亜希さんを一瞥すると、ちょうど彼女もこちらを見ていたようだった。俺が亜希さんの瞳を捉えた瞬間、亜希さんは微かに目を見開いて、なあに、と言いながら首を傾げた。

 なんでもないですと返すと亜希さんは肩を竦めた。


「二人とも微笑ましいっちゃ微笑ましいよね」


 俺は東太と愛生はお似合いのカップルだと本当に思っている。俺だけでなくクラスの皆がこの二人の馬鹿な……じゃなくて楽しげな会話を聞いて楽しんでいる。二人の喋り声を聞いているだけで皆小さく笑っている。頬を緩めたり、口元を上げたり。またやってらあ、なんて声も聞こえてくる。


「でもさあ。独り身のこの時期に見てるとなーんか辛いのよねえ。周りは暖かいのに私ひとりだけ寒いみたいな」


 予想よりも全然シンクロ率してなかった。確かにバカップルだなあとは思ったけど、俺はそんな侘しいことは考えていない。亜希さんはどうも心が狭いというか捻くれているというか……。


「僻み以外の何物でもないじゃないですか……」

「私以外の人間が私より少しだけ不幸で居てくれると、こう、気持ちが楽よね。まあ、あんたは恋に悶々だからそういうのを気にしないんだろうけど」


 貧しい考え方ですねというセリフを飲み込んで、一つだけ尋ねた。


「どんだけ気に入ったんですか。恋で悶々」

「そこまでじゃないわよ」


 くだらない会話をしながら俺たちはそれぞれ帰路に就いた。とはいっても当然校門までは皆一緒だ。校舎から出ると冷たい風が身を打ち付けて、季節が冬になろうとしていることを実感させられた。室内と室外の寒暖差が日ごとに大きくなってきている気がする。外に出た後で四人揃って身震いをした。

 さみぃ、と呟くと口から真っ白な湯気がこぼれ出て余計に寒くなりそうだった。どこからか流れてきた枯れ葉がカサカサと音を立て、校庭を流れていく。尖り気のある音だけが聞こえただけで、葉自体はよく見えなかった。いつもより夜の色が濃密だ。

 暗いな、と思って空を見上げると月も星も見えなかった。だから辺りが一層深い闇に覆われているのか。存在していても変わらないと思っていたけど、星明かりや月明かりが無いとこんなにも違うのか。

 敷き詰められたような薄雲を見遣りながら、周りに聞こえるように告げた。


「あのさ」


 ただただ広がっている雲を見ていたら、いつの間にか三人と離されていた。


「俺、たぶん、デートに誘われたんだ」


 突拍子もなくそう言うと、三人は足を止め、それぞれ違った反応を見せた。

 東太は切れ長の目を更に細くさせながら嘆息した。こいつ絶対俺の言葉を信じてねえな。


「ホント? 海君からそういう話を聞いたことがないから私は詳しく知りたいな」


 目を丸くさせながら、興味津々とばかりに顔を近づけてくる愛生。女の子はどうして恋バナが好きなんだろうか。っていうか顔近い近いほら東太が睨んでるって。


「……その割には嬉しそうじゃないわね?」


 躊躇いがちに尋ねてきた亜希さんの言葉をやんわりと否定した。


「そんなことはない、と思うんだけど」


 遠野さん考えながら吐いた言葉は、はっきりとしたモノではなかった。というか、否定も肯定でもできないのだ。

 何故なら遠野さんは、俺に会うために誘いを掛けてきたのではないからだ。きっと、俺じゃない誰か――時計を付けて、気を失った後の俺――に会いたいのだ。

 それでも、嫌じゃない。会うのが嫌なわけがない。気になっている人から『遊びに行かない?』と誘われて嫌な気持ちになるわけがないんだ。

 だけど遠野さんの目的は俺じゃない。俺に会いたいというのは、彼女の本当の目的のための手段だ。

 きっと俺自身は必要とされていない。そう理解していても、会えるだけで嬉しいから会いに行く。会いたいと言われれば反射的に会いに行く。パブロフの犬みたいだ。


「思うんだけどって一体どういうことなのよ?」


 思考はグルグルと同じ所を巡っている。このままではいつまで経っても答えなんて出ない。だから。


「俺にも分からないんですよ。自分の気持ち」


 一同眉を顰めて俺を見ている。


「だから、聞いてきます。聞きたいことを聞いて、それから皆に言うよ」


 なんかあったら骨くらい拾ってくれ、と笑いながら言うと、東太は俺の腹を軽く殴り、亜希さんは足の脛を蹴ってきた。

 愛生は俺の頭をポンポンを撫でながら、俺だけに聞こえる声で。


「きっと骨も残らないと思うから、先に撫でとくね。頑張れ」


 と言ってきた。

 俺は貶されているのだろうか。それとも慰められているのだろうか。まあ、どちらにしても微妙なところだ。

 俺は強ばった声で、ありがとうと答えるのが精一杯だった。


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