知っていく。
第17話 前編
運命的な出会いなどきっとこの世に存在しない。
偶然が積み重なって、好意も折り重なるだけ。
ただそれだけなのに、わたし達は理由をあれこれと付け加えてそれを奇跡と名付けたがる。夢も希望もない現実で生きていくのが辛いから、そんなふうに呼びたいのだろうか。
「まあ、なんでもいいんだよね」
小声で呟きながら、隣で寝ている卓の髪をそっと撫でた。サラサラしているけどわたしの髪質とは違っている。やっぱり男の人だからだろうか。
鎖骨とか喉仏とか、布団からはみ出している腕や指や手の甲だって、わたしの身体とは違っていた。出会ったとき、わたしより華奢だって思ったけど、それは勘違いだった。
衣服を纏っているときと、裸体とでは全然違っていたんだ。
大きくて、力強くて、とても温かった。
ついさっきまで、その違うものとわたしは一つになっていた。
思い出しただけで顔が赤くなってしまうし、恥ずかしさで身悶えてしまうけど、好きな人と一つになれたのがとてもとても嬉しかった。
有り体だけど、肌を重ねることは心を重ね合わせることと同義だと思っている。
一つになれて嬉しかったのは確かだけど、その行為に至るまでは凄く怖かった。初めて見たそれは正直に言って気持ち悪かったし、そんなものがわたしに入るわけがないと感じた。
わたしは怯えてしまったけれど、彼はとても丁寧にしてくれた。
卓だって初めてだったろうに、彼は凄く凄くゆっくりしてくれた。
すべてを委ねられる人が居るなんて思わないけど、わたしと卓のすべてが重なった瞬間、わたしはそう思うことができた。
思い返してみると、やっぱり恥ずかしいことだらけだ。
けれど、もしかしたら、これから先も羞恥心を抱え込むことの繰り返しなのかもしれない。
そんなことを考えてクスリと笑っていると卓がもぞもぞと動き出した。
「おはよう」
気恥ずかしさを隠すように声を掛けた。少し、声が上擦ってしまったかもしれない。いつも通りを装うことは無理かもしれないけど、それでもその恥ずかしさは隠したい代物だ。
沈んでいた何かが動き出すように空気は揺らいだ。遮光カーテンの隙間から、和らげな陽光が差し込んでくる。雲が流されて形を変えたのだろう。
静まり返っていた室内にエネルギーみたいなモノが充満していく。まだ卓は寝ぼけ眼だけど、そろそろ意識も覚醒し出すだろう。なんとなく気配で分かった。
と思ったんだけど、まだ起きてはこなかった。体をもぞもぞとさせていたのにも拘わらず、目を離していた隙に動きを止めてしまったようだった。
することがなくなったわたしは一度目を閉じて休もうとし、違和に気付いた。
何かが変だ。
感覚を研ぎ澄ませてみると妙な黴臭さが鼻を擽った。なんの匂いだろう、と鼻をすんすんさせてみて理解した。古本だ。これは古本の匂いだ。
よくよく考えてみればこの部屋には本棚が二つもある。卓はデートの待ち合わせ場所を古本屋の前にするくらいには本好きだ。そういうところで買った中古本をたくさん本棚に収めていた。
新本とはどこか異なる、古ぼけたような本の匂いが部屋の中には漂っていた。ずっとこの部屋で過ごしているからか、古本特有の匂いはうっすらと卓本人にも付いている。体臭と混ざり合って、卓という人間の存在を形成していた。
匂いというのは五感の中でも不思議な感覚の一つだと思う。個々人によって好き嫌いが分かれる。桜の香りは好き。梅の匂いは嫌い。あの人の匂いは好き。あいつの匂いは嫌い。
人工物も自然物も放つ香りはそれぞれ違っていて、その香りを受け取るひとりひとりの感じ方も違っている。
わたしは別に古本の匂いが好きなわけではないのだけど、卓が纏っている匂いと似ているからか安心する。黴臭さが嫌な人も居るだろうけど、わたしはその匂いに包まれていても不快ではない。むしろ、もっと包まれていたいとさえ感じてしまう。
惚気すぎかな。なんて思ってしまって苦笑してしまった。
だって、内心で何を思っていても意味なんてないのだ。込み上げてきた気持ちは相手に伝えなければ、なんの意味もないんだ。
わたしはわたしの感情を、届けようとさえすればすぐに伝達することができる。伸ばした手の向こうに、視線を上げた先に、ちゃんと相手が居てくれるからだ。
なんて幸せなことなんだろうと思う。
ささやかな幸福感を噛み締めていると、自然と口元が緩んでしまう。
「――っ」
突如隣から聞こえた乾いた笑い声に驚き、そちらに顔を向ける。
「茜。おはよう」
世界で一番好きな人の声が、わたしの鼓膜に響いた。
おはようと返すと、彼はわたしの言葉に肯きながら目を擦った。
「朝からなんでそんなにニヤニヤしてるんだ?」
普通の声。いつもみたいな声。だけど、わたしは気付いてしまう。僅かに、だけど確かに声は上擦っていた。そして視線を彷徨わせいる。どうしたんだろう。
何を考えているのか知りたくて、卓の瞳を見つめてみる。卓の瞳の中に映ったわたしは波打つように揺らめいていた。映っているのは自分の顔なのに、何故か綺麗だと感じてしまった。きっと目に宿す煌めきが違うからだろう。卓に見えている世界はわたしとは違う。
そんなことを考えたのも束の間だった。
卓は頬を朱色に染めながら顔を逸らした。
「ううん。なんでもないの。ただ、幸せだなあって」
彼の質問に答えながら小首を傾げた。
そっか、と相槌を打ったものの、依然としてわたしから顔を背けたままだったのだ。
クエスチョンマークが浮かんだまま消えなくて、回答にも辿り着けそうになくて、卓に訪ねた。
「……挙動不審だけど、どうしたの?」
「服、着てないから」
「え?」
もちろん言葉は聞こえているけど、頭の中でその単語が結びつかなかった。どういうことか戸考え、軽い唸り声を上げながら顰めっ面になっているであろうわたしに対して、卓はゆっくりと告げた。
「茜さん。貴女はいま裸なのでお願いですから服をお召しになってくださ」
卓の芝居がかったセリフが終わる寸前、わたしは彼の口を塞いだ。
「い、言わせねーよ!」
頬に熱を感じながらそう言うと、塞いだ手に卓の吐息が掛かった。堪えきれないというふうにクククと音を立て、笑みを溢していた。それから卓は大きな手でわたしの手を絡め取った。実に簡単そうに、塞いでいた手を外した。
手はやっぱりゴツゴツしていて、大きくて、温かかった。ドキッとした。
「貴女は今裸ですよー茜さーん聞いてますかー」
馬鹿にしたように喋っているけど、やっぱり卓はわたしの方を向いていなかった。天井を向きながら口を開いている。
わたしの裸体を見るのは恥ずかしいらしい。それが、とても喜ばしく感じた。
というのも、というのもだ!
「俺ともっと喋りませんか?」
という分かりづらい告白を受けてから、既に二年ほども経過していた。でもでも、そういう雰囲気になって、イチャイチャ度が高まったときでさえ手を繋ぐくらいだったのだ。不安になったわたしが周りの友達に相談すると、皆からあり得ないと言われて更に凹んだりした。折を見て美澄さんや彩斗さんにも相談してみたけど、「アイツは誰かと付き合ったりしたことなんて無いだろうし、不器用なんだよ。不器用ながらも大事にしたいんじゃないか」というのが二人の共通意見だった。卓の数少ない友達の言葉だから、その言葉を支えになんとかやってきたけど、それでも二年は長かった。
だから、安心したんだ。わたしのことをちゃんと女だと思ってくれていて、こうして目を逸らしていて、全然言葉になんかしてくれないけど、きっと大切に思ってくれている。
もちろん嬉しい。
でも、なんにも言ってくれないのは腹が立つ。
だけど、手の力強さにやっぱりドキッとした。
「ねえ」
様々な感情が交ざって、自分でも何がしたいのか分からなかったけど、とりあえず卓に一泡吹かせたいと思った。掛け布団を剥いで、上半身を卓に押し付けた。
「え――えっ?」
珍しく狼狽した顔を見せた卓に、内心で告げる。ばあか。
胸元に顔を埋めながら、小声で尋ねた。主語を言うのは恥ずかしいから、ぼやかした。
「なんで昨日だったの?」
卓は息を詰まらせたような音を鳴らした後、考える仕草を取った。 視線を天井へと向けて、ゆっくりと息を吐き出した。
「ちょうど、二年だったんだよ」
「付き合ってから?」
「うん。そう。付き合ってからちょうど二年」
わたし達は記念日を盛大に祝うような性格ではなかった。だから去年も何もしていない。そろそろ一年だね、なんて言葉は口にしたかもしれないけど、そのくらいだ。
卓は律儀だから正確な日にちを記憶に留めていたのだろう。正直なところ、わたしは忘れていた。もちろん、大体二年だなあとは思っていたけど。
「お祝い的な……?」
わたしがそう呟くと、卓は苦笑しながら、違うよと返した。
「いや、そういう意味も心のどっかにはあったのかもしれないけどさ。そうじゃなくて」
「じゃあ何?」
改めて問い掛けると、卓はポツリとこぼした。
「最初っから、二年間はしないでおこうって思ってたんだ。なんか、嫌だったんだよ」
「すぐに手を出すのが?」
虚空を眺めていた視線が、わたしの目とぶつかる。
「すっげえ馬鹿みたいなこと言うぞ。笑うなよ」
何を言うつもりなのか予想も付かない。わたしは頷いた。
「付き合いたての頃、我慢できないくらいしたかった。茜は可愛いし、手とか華奢だし、色白――笑うなって」
約束を破るのは本当に申し訳ないと思うけど、我慢が出来なかった。ケラケラと声を上げて笑ってしまった。まさか本当に馬鹿みたいなことを言うとは思わなかった。
「そんなこと言われたら笑うしかないでしょ」
「だから先に言っただろ。笑うなよって……んでさ。すげえ悩んだんだ。好きの種類が分からなくて。好きだからやりたいのか、好き勝手できるから好きなのか」
ため息のように吐き出される言葉は少し、重すぎた。
「そんなに悩む必要ないのに」
「まあ、そうなんだけどさ。俺はそういう面倒くさい奴なんだ」
そんなことないのに。
恐らく卓は自分自身の良い部分を理解していないんだ。自己評価が低いと言えるのかもしれない。一つ一つの事柄について考えすぎてしまうから、色々と悩んでしまうのだ。頭が硬いと言えば硬いけど、それは要するに真面目すぎるほどに真面目ということだ。
鏡に映った自分をどれだけ見つめたとしても、客観視することは難しい。だから、卓も自身のことを分かってはいないのだ。
ポジティブに捉えればいいのにと思うけど、卓はそういうことができない人なのだろう。
とにかくわたしは卓のことを面倒くさいなんて思ったことがない。
真面目で、律儀で、所々言葉が足りなかったりして、単なる不器用な男の子だ。
卓が自分のことを理解していないのなら、わたしが教えてあげればいいだけだ。
それだけの話だ。
「わたしは、卓のそういうところが好きだよ」
口に出して、貴方に伝えればいいだけの話なのだ。
わたしがはっきりとそう言うと、卓は言葉を詰まらせた。むず痒そうな表情を浮かべ、蚊の鳴くような声でありがとうと呟いた。
その言い方がなんだか可愛くて、どうしようもなく愛おしかった。わたし、やっぱり好きだ。
卓から向けられる優しさは、不器用だけど何よりも温かかった。
天秤の片側に、わたしから卓に向けている気持ちを乗せてみる。もう片側に卓から向けられている気持ちを乗せてみる。それはきっと釣り合っている。どちらに傾くことなく保たれている。
だからわたしは、好きであることを確認できる。
仮に気持ちに重さがあるとしよう。けれど、それが一方通行であれば自重で潰れてしまうのだ。天秤が傾いて終わってしまう。どれだけ高まった感情も、相手に届かなければ意味がない。逆もそうだ。自身に伝わらなければ分からない。
伝えることができる。伝わってくる。
だからわたしは、卓が好きだ。
自分の口に大切な想いを乗せて、相手に届かせる。
「ねえ、しよっか」
わたしの言葉に眉を顰め、恐る恐るといった感じで尋ねてくる。
「……痛いだろ?」
「まだちょっと痛いよ。なんか変な感じするし」
小さく笑った後、でもと言葉を続ける。
「触りたいし、触ってほしいし、だから、ね?」
卓は子供のようにこくんと頷いて、わたしを抱き締めた。元々密着していた身体がギュッとなって、くっついて、互いの心音が聞こえた。
顔がゆっくりと近付いてきて、わたしは目を瞑る。
なんにも見えないけれど、沢山のことが伝わってくる。
緊張感で心が跳ねる。多幸感に包まれて死んでしまいたくなる。キスの間にだけ響く大きな呼吸音だけが聞こえる。
卓が沢山のことを教えてくれる。
わたしはそうして、貴方のことを知っていく。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます