第16話 後編
俺はどうしようもないくらいにガキだったんだ。
一瞬で舞い上がってしまい、相手の仕草や言葉の裏を読み取ろうとしてなかった。
何故彼女が付き合おうと言ったのか。
それを知らないままに俺は彼女と交際を開始したのだった。
といっても、俺と由宇の関係はほぼ変わらなかった。俺は相変わらず彼女のことを名前で呼ぶことはできなかったし、デートとだって休日にファミレスで食事をするくらいしかなかった。親の臑をかじるしかない中学生の財力ではそれが限界だったけれど、由宇もそれを受け入れて楽しんでいると思っていた。
俺は由宇に会えれば嬉しかったし、喋るだけで温かさを実感できたし、それだけで本当に幸せだったのだ。
自分の環境は自分で作っていくしかない。だから、自分で作り上げた周りの環境に満足していた。受験も近くなっていたけど、勉強にも力を入れていて、定期テストの順位は少しずつ上昇していた。
すべて上手く行っていると思っていたけど、すべては俺の幻想だったのだ。
日常は知らないうちに、ゆっくりと崩壊していたんだ。
中三の夏休みだった。会社に出社している父親は当たり前だけど、何故か母の気配もしなくて、仕方なく自分でトーストと目玉焼きを作っていた。食べ始めようと端を手に持ったとき、寝室から母が出てきて一言呟いた。
「海。もしかしたらお父さん、リストラされてるかもしれない」
はあ?
眉を顰めながらそう返すことしかできなかった。この人は何を言っているんだろうとも思ったけど、母の勘はかなり信憑性が高いのだ。だから流すわけにもいかずに話を聞いていた。
「たぶん……時間あるからだと思うけど、最近どんどん降ろしてるのよね」
「何を?」
「銀行からお金。……家庭用のじゃなくてね、あの人、自分で通帳持ってるの。でね。ここのところ引き下ろしの額とスピードが凄いの。見て」
手に取って眺めたが確かに異常だ。通帳が作られてから長い間、給料日近くに三万円ほど振り込まれていた。父はどんなことがペースを崩さない人だから、長期間頻度も金額も変えずに溜め込んでいたことには驚かない。驚愕すべきなのは、たったここ一ヶ月の間に、二十五万ほど引き下ろされていることだ。
一体どういうことなのだろうか。
答えはその日のうちに出た。母が父を問い詰めたのだ。
「ねえ、あんた仕事してないでしょ?」
一応尋ねてはいるけれど、母はほぼ断定していた。
母の確信に満ちた声を聞いた父は、早々に隠すのを諦めて現状を語り始めた。
本当に、首を切られたそうだ。
母は深い深いため息を吐いて、「どうしよう」と呟いていたけど、俺は楽観視していた。
確かにリストラは予想していなかった。けど、まあ、死ぬわけではない。
うちは中流階級だし、貯蓄だってそれほどあるわけじゃないけど、まだ再起は可能なのだ。職種にこだわらなかったら生活できるはずなのだ。
そう思っていた。
だけどいつまで経っても生活は厳しいままだった。夏が終わり、秋になり、チラチラと雪が降る頃になっても父は家にいた。
いつか母は言っていた。
父は運だけで生きてきた、と。
運だけで生き残ってきた父は何も持っていなかったのだ。
努力を知らないのではない。怠惰なんだ。
人は自由になったときに本性を表すと言うけど、まさにその通りだ。
彼はぼうっとしながら、いたずらに日々を消費していた。
外界へは興味を示さず、飯を食って酒を飲んで寝るだけ。
もしもこのままならいっそ――
殺してしまおうかとも思ったけど、こんな駄目親父でももしかしたら変わるかもしれないと考えていた。
母もそうだったのだろう。最初はあれやこれや話し掛けて再生を促していた。
ただただ惰性で過ごしていけないと、せめて外に出ないといけないと。
反抗期の子供に説明するように、何度も何度も口にしていた。
しかし、父は動かなかった。彼はどこまでも人生を無為に過ごしていた。
いつしか期待することを諦めた母は、父や俺の側からフラッと姿を消した。
俺の知らないところで話が進んでいたようだけど、いつの間にか離婚届が提出されていて、俺の親権は父に移された。つまり父と生活することになったようだ。
状況が変化しすぎて、戸惑っていた俺に父は一言だけ漏らした。
「さすがに広いなあ」
その翌日に、俺は父に連れられて、少しだけ離れたところにあるボロアパートへと引っ越していた。
2DKで三万という格安な家賃だけど、もちろんデメリットはありまくるほどにあった。
壁だって薄いし、エアコンもないし、なんとなく部屋がギシギシしている感じもあった。
それでもまあ、俺と父が新しく住む新居にはピッタリと言えた。
新たな生活に期待などなくて、移り変わっていく環境に辟易しながら生きていくことになるだろうからだ。心機一転なんてものじゃなくて、敗北者の隠れ家に逃走しただけなんだ。
その頃になるとまた雪が降り積もり始めていた。
見事なほどにタイミングが重なるのだけど……一年前に由宇と交際を開始した日が近付いていたのだ。
しかし、俺には余裕がなかった。父親が変化する気がないのは明らかだったから収入は減るだろう。というか、実際に減っている。いまは失業保険と貯蓄してあった分で賄っているけど、失業保険などすぐに切られるだろう。働く気がないのは分かっている。ハローワークにだって数回ほど行っただけだ。そうなると預金をどんどん下ろすことになってしまう。
危機感や焦燥感は視野を狭めてしまうけど、だからこそゆっくりと、柔軟に考えなければならない。そうすれば答えは出せるんだ。
そう。誰かに――父に何かを求めるのではなく、自分が変わればいいだけだ。
俺が志望高校を変更すればいいだけだ。
夜間高校に通って、昼間にはバイトをしよう。そうすれば収入を得られる。
それなりに上位の成績を保っていたからか、担任を説得するのは大変だった。しかし家庭の都合という言葉は強かった。担任も折れるしかなかったようで、渋々ながら夜間高校に進学することを認めてくれた。
俺が頑張るしかないのだ。
そんなふうに、周りには期待しないことを早々に決めていたからか、俺は何かを閉ざしていた。有り体に言えば『心』という言葉になるんだろうけど、それはなんだか違うような気がした。
とにかく、俺はずっと張り詰めっぱなしで、塞ぎ込んでいて、誰とも話していなかった。
もちろんそこには由宇も含まれていて、気が付けば交際一年記念なんてとっくに過ぎていた。
「ねえ」
学校から家へと向かっていたところだった。
その日もやっぱり雪が降っていて、気が滅入ってしまうくらい辺りは真白に包まれていた。それはすべてを覆っていく。家々も、道路も、全部一色だ。
けど、明瞭じゃなくて、ぼんやりしている。
誰かの足跡だけが地面に付いていて、それだけがはっきりと見えていた。
先回りをして待っていたのか、由宇は俺の前にいた。
由宇の頭や肩には微かに雪が積もっていた。当たり前のことだけど、それが俺には嬉しかった。どんなふうに過ごしていたって、雪は平等に降り積もる。
なんてことを考えていたのは一瞬だった。由宇の顔を見て分かってしまった。
いつか俺に、彼氏のことで相談してきたときと同じ顔をしている。
泣き出す瞬間を切り取ったような、そんな顔。
「海さ。最近付き合い悪いよ。あんまり話してくれないし」
彼女はそう言うけど、俺は話していたつもりだった。余裕がないということを差し引いても、十分構っていたと思うのだけど……。
それに、理由も話していた。当時の俺は、恋人というのは考えや感情なんかを分け合うことだと思っていたから、俺は彼女に家庭内でのゴタゴタを話していたし、だから忙しいんだとも告げていた。
「ごめんね。でも、潮谷さんに言ってたよね。高校のこととか生活のこととか、色々大変だったんだ」
「聞いてたよ。疲れてるんだろうなあとか、大変なんだろうなあって思ってたけどさ。なんか、全然付き合ってるって感じがしない。っていうか、付き合った日、覚えてる?」
そのときになって、交際してから一年が過ぎてることに気付いた。
「……ごめんね。今思い出したよ」
その言葉さえ最低だけど、今更どんなふうにも繕うことはできない。
あれ、いつだったっけ?
そんな薄っぺらい言葉で相手をいなせればよかったけど、俺はそんな経験を持ち合わせていなかった。
事実を告げることで傷付けることも分かっていたけど、嘘を嘘で塗り固めるようなことはできなかった。
そんな思いも全部自己保身だし、相反している。
自責の念に耐えられないからそんな綺麗なことを思ってみただけで、相手を慮ったことではなかった。
何故そんなことをしたのかは分からないけど、彼女は俺の返答に何度か頷いた。
馬鹿正直な俺の言葉を脳裏に刻んだのか。
それともその言葉に納得したのか。
「うん。分かったよ」
何が、とは聞けなかった。
聞かなきゃいけない気がしたのに、聞けなかった。
「ねえ、別れよ」
喋る度に、息を吐く度に、白い息が漏れだしていた。
「やっぱり付き合ってる意味なんて無かった。海には多分、恋愛なんて無理だよ。いつまでも他人行儀で、あたしの名前だって呼んでくれないでしょ。それにね、海は……」
『海は……重いよ。面倒臭いよ』
口に出した言葉は戻らないし、出された言葉だって無かったことになんてできない。
それこそ、きっとどんなふうにも繕えないのだ。
目的が不明瞭な行為で、好きな相手から傷付けられたとき、俺はどんな顔をすればいいのか分からなかった。だから曖昧な苦い笑みを浮かべて由宇を見つめるほかなかった。
由宇が続けて何かを喋っていたけど、俺にはもう聞こえなかった。
そのとき、彼女の顔色が変わった。
「それだよ」
痛いくらい大きな声で耳に飛び込んでくる。
「ずっとずっと他人行儀なんだよ。別にあたしは海が軽かろうが重かろうがどうでもいいけど、ホントのところ、誰にも心を開いてないじゃない。優しくしてくれたからあたしだって心を開いたのにさ。他人でも知り合いでも友達でも恋人でも、なんにも変わらないじゃないの」
彼女の言葉は逃げ出したいくらいに痛かった。
どこか距離があったのは確かだったし、関係だって互いに――いや、俺が近付こうとしなかった。口だけの恋人ごっこで、中身は友達となんら変わらなかった。変えなかった。
すべて、自分のせいだ。
ただ、一つを除いては。
「潮谷さんさ。優しくされたら、誰でもよかったの?」
付き合うことを了承したのは俺自身だから、由宇を責めることはできない。
「……そうかもね」
先ほどまでの熱量や勢いは感じなかったけど、代わりに明確な悪意を感じ取ってしまった。
それは降ってくる雪の冷たさより、もっともっと冷たいものだった。
冷静で、冷徹で。
天真爛漫なんかじゃない。由宇は計算尽くで行動をしている。
そのとき、はっきりとそう思った。
「最後に言っておいてあげる。いまあたし、元彼と……もう元々彼か。その人と付き合ってるよ。もう一回やり直し始めたの」
それから次々と要らないことを話してきた。。遊びに行ったときに彼氏と再会したこと。会話があって楽しかったこと。触れてくるのが嬉しくて、反対に俺が由宇の身体に手を出さないのが不満になってきていたこと。俺の家庭のことなんかどうでもいい。簡単に付き合える人の方が自分には合うこと。
それが由宇の気持ちだったんだ。
一つだけため息を吐いて告げた。
「ごめんね」
そう言うしかなかった。
結局彼女の悲しみは偽物だったのだ。
悲しんでいるフリ。心が痛んでいるフリ。
俺だって悩みながら関係を保ってきたのだ。手だって繋ぎたかった。キスだってしたかったし、欲を言えばもっともっと先のことだってしたかった。けれど彼女が元彼との件で嫌がっていたから、俺だって我慢していたのだ。
確かに積極性はなかったかもしれないが、恋愛って相手を想うことじゃないか。
恋人って思い遣るものじゃないのか。
勝手だ。由宇は凄く自分勝手だ。
けれどこの思いを告げたところで彼女は分かってくれないだろう。だから俺は、俺が、悪者になるしかないのだ。
「ごめんね」
もう一度だけそう言って、俺は由宇の前を通り過ぎた。
通り過ぎる瞬間、やっぱり由宇の匂いを嗅いだ。
好きだった。紛れもなく大切な人で、とても大好きな人だった。
俺がもっともっと相手に寄り添って考えて、その上で行動していれば彼女は離れなかったのだろうか。それとも、こうなることは決まってて、どう足掻いても結末は変わらなかったのか。
由宇の身勝手さ。自分の振る舞いの下手さ。
そのどちらもが幼かったのかもしれない。いや、きっとそうなんだ。
俺は拳を力強く握りしめながら涙を流していた。
どうしようもなく苛立つし、胸は痛いし、悲しい。
幸せを感じたはずの空気も匂いも言葉も嘘だった。彼女の遊びに付き合わされていただけだったんだ。何かと何かは繋がっていて、すべては表裏一体なようだ。
味わった幸せが温かなほど、それは冷たくて、悲しくて、消えてしまいたくなる類の感情だ。
そんなことを思ってしまうから重いのだろうか。
流れる涙を見つめながら、ずっとそんなことを考えていた。
たった一度の失恋だけど、恋なんて一回一回が全力だ。
一度しかないからこそ、想いも言葉も、もう戻らない。
誰かから傷付けられることがこわい。悪意のある行動も、言葉も、こわい。
いつかは治る傷だけど、思い出してしまえば痛みも苦みも、匂いも鮮明に蘇るのだろう。
カサブタのように、そっと剥がせば思い出してしまうし、完全に消えることはない。
次に恋をするときは、嘘を吐かない人に想いを寄せよう。
そして俺自身も成長していこう。
相手に全部告げることが恋愛ではない。
そういうところが重い部分で、ある意味、相手に依存していたのかもしれない。
相手を思い遣って。
相手に寄り添って。
それでいて、ちゃんと幸せを噛み締めることができて、その温かさを絶え間なく相互に与えられるような……そんな恋愛をしたい。
理想でしかないのかもしれないけど、次はそういう恋をしたかった。
とりあえず、早く大人になろう。
そのとき俺はそう思っていたんだ。
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