カサブタ
第15話 前編
俺は潮谷由宇のことが好きだった。
何故だろう、と考えてみるけれど、特に理由はないのだ。
きっと好きになることに理由は要らなくて、それでもなんかあるだろうと言われたのなら、俺は『由宇の全部が好き』と答える。
由宇と初めて会ったのは、小学校に入学したときだ。
同じクラスにいた女子の一人だったのだけど、その前に俺の性格を紹介しなくてはならない。
その頃の俺にとって、新しい環境に溶け込むのは大変なことだったんだ。
さすがにはっきりとは覚えていないけれど、緊張や不安といった、あまりよろしくない感情を色々と抱えていたんだろう。
母親から聞かされた話だけど、幼稚園に通うことになったときも大変だったみたいだ。
学校という仕組みも分かっていなかったし、子供心に不安だらけで、ずっと下を向いていたような気がする。
そんなビクビクしている俺に声を掛けたのが潮谷由宇だった。
「ねえ。遊ぼうよ」
その声に驚いた俺は、俯いていた顔を上げて彼女を見た。
驚いた、というのは二つの理由からだった。
俺に掛けられた声ではないと思ったのと、その声が可愛かったからだ。
月並み以下の表現でしかないけれど、可愛かったんだ。
ふわっとしているようでサラサラとしていて、真っ直ぐな黒髪だった。絹のような、とは彼女の髪のことを表すのだ。
そうして俺は彼女と出会った。
その頃から彼女は底抜けに明るくて、よく言えば天真爛漫だったし、悪く言うなら我儘だった。入学当初から他の子を子分のように連れ回していたけど、男子も女子も関係なく、みんな彼女のことが好きだった。
成長していく中で関係性も変わっていくことがあるけれど、彼女は何も変わっていなかった。相変わらず様々な人を惹き付けていて、俺もずっとその中の一人だった。
惹き付けられる要因は、人それぞれだろう。彼女が生まれ持った性格もあるかもしれないし、容姿かもしれない。小学校の頃、どちらかと言えば可愛らしい印象が強かった由宇だけど、成長期に突入すると彼女はどんどん綺麗になっていった。モデル体型と言った方がいいのか、中学生とは思えないスタイルだった。スラッとしているけれど、ちゃんと出ているところは出ていた。正直に言えば、俺にとっては刺激が強かった。
強烈に女性を意識しだしたのも、由宇が初めてだった。
由宇と一緒に居るとドキドキして、俺じゃない男子と由宇が話していると胸に微かな痛みを覚えたりして……それが俺には新鮮だった。
そうやって由宇の側で過ごすうちに段々と、けれどもはっきりと、自分の恋心を自覚するようになっていった。
親しい人に対する『好き』ではなくて、愛しているの『好き』だ。
どれだけ伝えようと思っても、俺は何も言葉にできなかった。
十四や十五で想うことが正しいわけではないのに、俺にとって由宇はすべてになっていた。視野が狭くなるというか、彼女のことしか考えられなくなっていた。
一言で言うのなら、馬鹿なんだろう。
話し掛けられると笑みを浮かべてしまう。そんなことを繰り返していれば気持ちなんてとっくにばれているのだろう。彼女は確実に俺から向けられている好意に気付いていたと思う。
「海はホントにあたしのこと好きだよね」
なんてことをからかい気味に言っていたし、からかってはいるものの、その言葉に自信を持っていたようにも見えた。
彼女の取り巻きは何人も居たけれど、その中でも俺は可愛がられていた。
可愛がられていたなんて言うと由宇が年上に見えるけど、実際彼女の精神年齢は高かった。同級生はもちろんのこと、年上から年下まで様々な生徒と交流があった。
色んな人と話す由宇はキラキラと輝いていて、そんな彼女を側で見ていられるだけで俺は幸せを感じていた。
ずっとずっとこの甘酸っぱい気持ちが続けばいいと願っていたけど、そうはいかなかった。
中学二年生の夏、由宇は高校生と付き合いだしたのだ。
付き合い始めて何かが変わったのか、天真爛漫だった由宇はときおり憂鬱な表情を浮かべるようになった。どうしたんだろうと周りが心配するも、彼女は何事もないように首を振り、大丈夫だと皆に告げるのだ。
他の生徒だって恋人は居たかもしれない。けれど彼女だけがどんどん大人に近付いていた。少なくとも俺にはそう見えたんだ。
由宇のことを見つめれば見つめるほど、俺の胸を差す痛みは強くなる。
想いを何処にもぶつけられず、どうしようもない痛みは身体中を循環して、また俺の中に溜まっていく。
誰にも言えるわけないし、初恋なんてみんなそんなもんなんだ。などと自分に言い聞かせていたけど、なんと俺の抱えていた恋心が母親にばれた。
その頃はまだ母が居て、父が居て、全部が全部円満であるとは言えないものの、俺は普通の家庭と呼べる環境の下で育っていた。
夕食時だった。
今日も由宇はなんだか元気がないようだったなあ。
なんてことを考えながらご飯を掻き込んでいると母親がボソリと呟いたのだ。
「海、好きな子が居るでしょ」
衝撃的すぎて、俺は盛大に咽せてしまった。
「なんで分かったの?」
と尋ねると、彼女は笑いながら俺の癖を指摘した。
「あんたは表情に出やすいんだって。気付いてないみたいだけどね。それに、あんたが何か考えてるときは身体の一部分をずっと動かしているんだよ」
表情が分かりやすいか分かりにくいかはともかくとして、自分では全く気付いてなかった癖を注意深く見ていたとは驚いた。そもそも近頃はあんまり会話をしていないのにも拘わらずだ。親って凄いもんなんだなあと素直に感心した。
「そんな癖があったのかあ。自分じゃ全然分からないなあ」
「癖なんて大抵他人から指摘されるものだから気にしなさんな。それで、好きな子の話だけど。告白でもして振られたの?」
飯を食べる雰囲気ではなくなって、俺は箸を置いて由宇のことを話し出そうとした。
「違うよ。告白なんてできる立場じゃないっていうか……」
母の隣に座っていた父が話に混ざってきた。
「告白することに立場がどうこうは関係ないんじゃないか?」
「どういうこと?」
「告白って、『好きだから付き合ってください』って言うことではないと思うんだ。ただ単に、『好きですよ』っていう自分の気持ちを伝えるだけで、相手に何かを求めることじゃないんだよ」
母と俺はほぼ同時に息を漏らした。
俺は尊敬の念を抱いたモノだったけど母は違っていたようだ。
「大切なことを説いてるように思うかもしれないけど、それって当たり前のことだからね」
「当たり前のことだけど、大事なことだろう?」
また始まったかと思って呆れてしまった。
父も母も下らないことで言い合いを始めようとしていた。言い合いとまで言わないけど、近くで聞いている者からしたら面倒だし、疲れることこの上ない。
まあ、二人は水と油みたいなものだからしょうがないか。
昔から母は気が強かった。気が強いというと語弊が生まれてしまうけど、決して悪い意味ではないのだ。竹を割ったような性格とも言えるかもしれない。彼女なりの信念の下に従って行動しているから、誰かの意見と違ったりしているとぶつかってしまうのだ。
逆に父親はあまり意見を言う方ではない。流されているというか、流れに逆らわないというか……先ほど母が言っていた通り『当たり前』のことしか言わないのだ。俺は感心してしまったけど、大人からすれば当然のことを口にしているだけなのだろう。
母親から何度も聞かされてきたけど、父は昔から運だけで生きてきたそうだ。挫折をしたこともなく、努力といったことも知らず、それで中流企業の係長なんだから、人生とはなんと奥深く、そして謎なことだらけなのだろう。
父との話を中断した母は、俺と向き直って再度尋ねてきた。
「で、告白したの?」
やはり母も女性なのだろうか。かなり食い付いている。
「だからしてないんだって。っていうかなんでノリノリなんだ」
「こういう話は楽しいじゃない。それで、告白できる立場じゃないって言ってたけど、相手は彼氏持ちってこと?」
頷いてから内心で軽くため息を吐いた。
言葉で説明する手間が省けて助かるけど、その分だと俺の心情を完璧に理解しているのかもしれない。もしそうならば涙が出てしまう。親って凄いのではなく、怖い……。
「それじゃあ今は駄目だねえ」
「今はってどういうこと?」
「こう言っちゃあれなんだけど、どうせ学生の恋愛なんてすぐ終わるから、気長に待ちなさいよ」
母は自分の言葉を噛み締めるようにして何度も言った。すぐ終わる、と。
「終わる気がしないんだけどなあ……」
「絶対終わるから。それか弱ってるときに近付きなさいよ。コロッと心変わりするかもよ」
奪うってことかよ。
そのときは少しだけ憤慨した。
「そんなことできないって」
綺麗事だけど、俺は正々堂々と付き合いたかった。
誰かに後ろ指を差されることもなく、恨み辛みを買うこともなく、ちゃんと恋愛することに憧れていた。誰だって、初めて好きになった人とはそうやって付き合いたいと思う。俺もその一人だったんだ。
「ふうん。まあ、その内色々分かるわよ」
それで会話は終了した。
母の言葉の真意――何が分かるのか――は、予想さえできなかった。
由宇は日に日に陰りを見せるようになっていた。
誰かと喋っていても言葉少なげに話しているし、表情だっていつも悲しそうなのだ。
色んな人が心配していたけど、由宇は何も漏らさなかった。
彼氏と喧嘩でもしたのか、もしかしたら別れたのかもしれない。そんな噂が飛び交って、下心ありの先輩達が何度も誘っていた。気分転換にどっか行こうよ。なんと見え見えの下心だろうか。心底、本当に、気持ちが悪い。
由宇に触れようとするのはそんな人しか居なかった。たぶんそれは、きっと、由宇の築いてきた関係の薄さなのだろう。
確かに由宇は交友関係が広い。様々な人と顔馴染みだし、実際に話し掛けてくる人も多い。俺もこの目で見ていた。けれど、幾ら知り合いが多くとも、自分のプライベートを喋るような友達は一人も居ないんじゃないだろうか。
何か力になれないだろうか。
別に恋人になりたいわけじゃない。けど、由宇が自分の抱えている悩みを話してくれたら、話してくれるような関係になれたのなら、俺は嬉しい。
取り巻きじゃなくて、胸を張って友人と呼べる関係だ。
ほんのちょっと、勇気を出すだけなんだ。
でも俺はその僅かな勇気を奮えないままに過ごしていた。
神無月の終わりになって、後期の中間考査が始まった。
知識が頭の中に刻まれていく感じは好きだけど、テストは嫌いだ。
学校に行けば俺以外にも怠そうにしている生徒が何人もいた。
夕刻になると、いつもはもっと喧騒としているグラウンドから人が消えていた。
テスト期間中は部活動が中止になり、生徒達が早く帰宅するからだ。
たまたま。本当にたまたまだけど、俺は由宇と掃除当番になった。
由宇が箒やチリトリを持って動く度に良い匂いがした。馬鹿みたいな表現だけど、それ以外に当て嵌まらない。
「終わったから帰ろっか」
緊張しすぎて喋っていなかったし、顔も見てなかったけど、その言葉に頷くために彼女を見つめた。
見つめたというのは俺の感覚で、強い印象を持ったから時間が引き延ばされたように感じただけで、現実には一瞬しか見てなかったように思う。
由宇の目が腫れていたのだ。
昨日、泣いたのかもしれない。
そんなふうに考えただけで、俺は凄く悲しくなった。
想いを言葉にして、由宇を呼んだ理由はそれだけだった。
「ねえ」
何も喋っていなかった俺が突然話し掛けたのだから、彼女はさぞや驚いただろう。
「どうしたの?」
ああ嫌だ。胃が痛い気がする。大好きな人の心の領域に入り込もうとしている。失礼じゃないだろうか。拒絶されないだろうか。
もしみんなと同じように、なんでもない顔で笑われたらどうしよう。
なんでもないよ。大丈夫だよ。
そんなふうに言われたら俺は確実に傷つく。
ぐるぐると考え出してしまい、俺は黙ってしまった。取れる選択肢の中で、一番情けない行動だ。
「海、どうしたの?」
二メートルほど先にいる由宇は、不思議そうな表情をしていた。
俺より少しだけ小さな由宇は、小首を傾げている。
目がしばしばしてきた。泣きそうだ。本当に情けない。女の子に何させてんだよ。
大丈夫だ。俺はただの取り巻きだ。何を間違おうが失うモノなんてない。
だからこそ、勇気を奮おう。
聞けばいいだけだ。言えばいいだけだ。口を動かせばいいだけなんだ。
「あのさ。潮谷さんさ。最近どう?」
どうってなんだよ。何言ってんだ俺は。
「どうなんだろうね。あたしもよく分かんないや」
由宇はうっすらと笑っていた。その笑みの真意を推測しようと思っても、やっぱり分からない。
「それって……」
どういうこと、と同じ質問を口にしようとした俺はバカ野郎だけど、その俺の言葉を遮って由宇は告げた。
「たぶん、海やみんなが思っている通りだよ」
俺が思っている通り。それなら、由宇は疲れているし、落ち込んでいるし、昨日泣いたのか。俺は由宇の為に何かしたい。
「……俺でよかったら聞くから話してみてよ。潮谷さんが何か悩んでるなら、力になりたいよ」
俺の精一杯の返答だった。言い終わったあと、呼吸を止めて彼女をじっと見つめていた。
しんと静まり返った教室の空気が痛かった。肌が、胃が、胸が、チクチクする。由宇と話してからずっと緊張している。
小さな音が漏れた。彼女の笑い声だった。
そんなに見つめないでよ、と由宇は照れたように言った。凄く自然な笑い方だったことが俺は嬉しかった。
「ありがとう。でも、きっと大したことないんだ。それでもよかったら聞いてくれるかな」
「他の人にとっては些細なことかもしれない。でも、潮谷さんにとってそれが辛いものなら、大きなことなんだからさ。気にしないで話してよ。なんでもいいからさ」
物事の大きさは個人が決めるものだ。
それに、人は自分の持っている物差しでしか物事を量れないのだ。
だからこそ、言葉を交すんだ。
いま俺は由宇のことを知りたいから、分かりたいから、口を動かしているんだ。
それから由宇はたくさんのことを話し始めた。
彼氏と上手くいっていないこと。優しい彼氏が好きだったのに、最近は構ってくれないこと。由宇は相手と一緒に居られるだけで嬉しいのに、デートする度に肉体関係を求められること。自分の価値はそこにしかないのかと考えてしまって、一緒に居るのが苦痛だと。
聞いておいて申し訳ないけど、やっぱりありがちな話だった。
けれどその当事者は由宇で、彼女は苦しんでいるのだ。
非力なのは十分承知しているけど、それでもなんとかしてあげたかった。
「嫌なら別れたらいいんじゃないのかな?」
「あたしもそう思うんだけど、でも、好きなんだよ」
結局それなのだ。
どんなに悪く言ってようが、不満があろうが、彼女は彼氏のことが好きだったのだ。
きっと俺が何を言っても由宇は考えを変えないだろう。実際、堂々巡りだった。
溜まっているストレスを発散したかっただけで、相手は誰でもよかったのだ。
相手から由宇を奪うなんてことは考えられなかったし、下心なんてものもなかった。
そういう相手なら、誰でもよかったんだ。話している内に自虐混じりに納得した。
ただ、想いを向けている相手に頼られるのは悪い気分じゃなかった。
「ありがとう。たくさん喋ったから大分楽になったよ」
そりゃあ、そうだろうと思った。チラリと由宇の後ろにある時計に目をやると、そろそろ最終下校時刻になりそうだった。
「いやいや。辛くなったらいつでも話してよ」
そんなふうに言った言葉が仇となった。
ねえ聞いてよ。
海、あのさ。
そんなふうにして数度にも渡って愚痴を聞かされた。
大抵似たような種類の話なのも聞き疲れてしまう原因だった。
話している最中でも気を抜くとやる気のなさが顔に出そうになる。それをなんとか押し止めているのは彼女が由宇だからだ。相手が由宇じゃなければ、勘弁してと告げているはずだ。
他の人には話せないことだけど、自分にだけは話してくれる。
細事なのか大事なのかはまたさておき、そんな秘密の共有は微かな優越感をもたらした。
俺と会話しているときは、心なしか明るくなっているような気さえしていた。
季節は移り変わって、冬になっていた。
その頃になると由宇からの愚痴は格段に増えていた。
ずっとずっと同じ不満を口にする由宇を見ていると、恋なんてするもんじゃないと考えさせられてしまう。由宇と彼氏はもう終わりだな、なんて相手には言えないことを思いながら、俺は彼女の話に付き合い続け、首肯を繰り返していた。
それで、とうとうその日が訪れた。
その日は雨混じりの雪が降っていた。
「ねえ海」
雪は深々と降る。なんて言うけれど、今日の雪は音を立てて降っていた。霙はあまり好きではない。
教室にいるのは俺と由宇だけだ。というのも、いまは放課後だからだ。
やはり他の人には聞かれたくないのか、由宇はいつもこの時間に俺と会話するのだ。
由宇が他の人から掃除当番を代わってもらって、俺もそれに従って彼女と一緒に掃除をして、終わったところだ。
またか、と思った。でも、今日はなんだか様子が変だった。
由宇は俺の名前を呼んだまま黙り込んでしまった。
沈黙に堪りかねて、俺は問いかけた。
「どうしたの?」
「あのね」
あたし、疲れちゃった――
感情は声に乗せられて痛いほどに伝達される。
俯きがちな彼女の目から、涙がこぼれ落ちた。
声にならない声で、由宇は訴えてきた。
「ねえ、海。もうあたし疲れちゃったよ。どうしたらいいのかな」
しゃくり上げる彼女に対して俺は何もできなかった。
そっと肩に手を置き、抱き寄せながら髪を撫でて、一言呟けばいいのかもしれない。
潮谷さんを泣かせるような彼氏なら別れちゃいなよ。大丈夫、俺が居るからさ。
そんなセリフを言えるならどんなにいいだろう。汚いことが嫌だなんて言ってみるものの、その汚いことができたら、汚れたセリフが言えたのならば、彼女は救われるかもしれないじゃないか。結局俺は何もすることできないんだ。
したくないんじゃない。できないんだ。
何かしなければならないという焦燥感とは裏腹に、俺は立ち止まったまま動けなかった。
俺は非力ですらなかった。無力だったのだ。
頭の中では自虐的な言葉が次々に浮かんでは消えていった。
でも、時間は絶えず動いている。二人とも止まったままではなかった。
「海」
由宇は短く俺の名を呼び、それから俺の胸元に向かって飛びついてきた。
脳裏にこびり付きそうになっていた己の弱さを呪う言葉など、すべて吹っ飛んでいた。
別に嗅ごうと思ったわけではないけれど、息を吸うと由宇の香りで満たされていく。
彼女と同じように染まっていくような気がした。
一緒に居れば、彼女の悲しみや涙の意味を理解できるような気がした。
「――」
「潮谷さん……?」
「――」
由宇は静かに泣いていた。音を立てまいと堪えているのが見てとれるけど、肩が上下する度に、微かに鼻を啜る音が聞こえる。
それに合わせてサラサラとした髪が揺れて、俺の腕に当たる。
……腕?
どうやら気付かない内に、軽く抱き締めていたみたいだ。
「あのね」
幾らか時間が経ったのか、由宇はさきほどより落ち着いた声を出していた。
「彼氏と別れたけど、付きまとわれてるの。嫌がらせのメールをしてきたり、出掛けると偶然を装って登場したり……」
精神的に参ってるのはストーカーになって彼氏が原因だったのか。
「それは……辛いよね。潮谷さんのためにできること、何かあるかな」
「あるよ」
由宇は端的に言葉を発したあと、続けてこう言った。
「海にできること、あるよ」
由宇の揺れる黒瞳はしっかりと俺を見据えていた。
決然とした言い方に面食らってしまったけど、なんだか不思議だった。
「何ができるかな?」
そう先を促して、俺は言葉を待った。
どんなに頭を捻っても自分にできることなど思い浮かばなかった。
彼女は一体どんなことを頼むつもりなんだろう。
「あたしと付き合って」
由宇は俺を見上げたまま小さく呟いた。
「え?」
思わず声が裏返ったし、素っ頓狂な声だったとも思う。それぐらい衝撃的な一声だった。
「海となら上手くいく気がするんだ。だからあたしと付き合ってよ。それともあたしじゃ嫌?」
矢継ぎ早に紡がれた言葉に俺は反応できなかった。
ただ、それでも一つだけ理解できたのは最後の質問だった。
「嫌じゃないよ」
俺はそうポツリと漏らすのが精一杯だったけど、それははっきりと言わないといけなかった。
もっと由宇の側に近付けるのなら嬉しい。
それだけが俺の真実だった。
「それならあたしと付き合おう?」
「うん」
嬉しさや戸惑い、驚きや不安。
様々な感情が押し寄せる中、俺は由宇を強く抱き締めた。由宇も似たような強さで俺を抱き締めてくる。彼女が同じように抱き返してくれることに酷く安心した。
それは二人の関係が一歩進んだことに対しての証しだ。
由宇の体温を感じる。跳ね上がっていた心臓の鼓動が治まっていき、気持ちは優しく穏やかになれる。
いまだけ、ここだけ、時間が静止しているようだ。
ムードもへったくりもないけれど、この場所でさえ――こんなに閑散としている教室でさえ――俺たちを祝福してくれているような気がした。
幸せってこんな感じなんだろうな。
冬には似つかわしくないほどに、思うことは春色だった。
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