第14話 後編



 調理をする際に大事なことは器具の準備でも材料を並べておくことでもなく、衛生管理だ。食べてもらう人がいる以上、そこは徹底して気を付けなければならない。


「一つずつ点検します。爪は切りましたか。髪は洗いましたか。はいオッケー。じゃあそこにあるビニール帽子と手袋、そしてマスクをしてください。あ、エプロンは持参してるよね? 予備はこっちにあるから」


 クラスメイト全員が完全防備したのを見て、俺は言葉を続けた。


「今日はどんな調理方法でやるかの確認ね。まあ確認って言っても練習はこれっきりだけど。んで、パンケーキは包丁使わないグループ担当で、カレーと唐揚げは俺が担当です。残りの作り手の四人は俺のやり方をしっかり見ててください」


 今しがたみんなに言ったが、パンケーキは包丁を使わないで作れるため、刃物を扱えない十五人に調理してもらうことにした。それにしてもあいつら、高校生なんだから少しぐらいは使えてほしいものだ。


「じゃあこっちはカレーから作っていきます。パンケーキもあるしカレーは十食分ぐらいでいいよな……一応担任にも作っておくか」


 最後に独りごちた言葉を亜希さんが捉えた。


「アイツに必要? 愛生どう思う?」

「要らないと思うな」

「それに同意」

「同じくね」


 他の調理メンバー四人に否定されたので、心の中で担任に謝っておいた。

 しかし担任がそう言われるのは当然なのだ。どうして女子たちが担任に辛辣な言葉を吐くかというと、衣装のゴリ押しをしてきたからだ。

 最初クラス全体の案では入店しやすい喫茶店っぽくしようとしていたのだ。

 具体的に言えば、目指すとところは女子がメイドで男子は執事だった。

 僥倖と言うべきか、このクラスには衣服屋の娘がいたから、彼女の親に頼んでそれっぽく見えるような衣服を購入しようとしたところ、担任からストップが掛かったのだ。


「全員黒タイツに猫耳を着用しろ。もしこの条件が呑めないのならクラス展示の案を一から練り直せ」


 完全にお前の趣味じゃねえか。

 とは言わなかったが、当然の如く女子たちは強く反対した。もちろん俺だって嫌だったから反対した。自分の姿を脳裏に浮かべて吐き気がしたからだ。

 しかし彼は折れなかった。いつもは放任主義の癖に、どうしても譲らなかった。

 根負けした俺たちは仕方なく、本当に仕方なく、その条件を呑んだのだ。

 再度言おう。そんなわけで女子が担任にそんな言葉を吐くのは当然なのだ。


「とりあえずカレーからな。野菜の皮を剥いていこう」


 ニンニクの皮を剥きながら、俺はホッとため息を吐いた。みんな手慣れていたからだ。普通のことだが、とても安堵する。


「なーんでため息吐いてるのよ」


 亜希さんは玉葱を微塵切りにしながら俺の仕草を観察していた。


「いや、亜希さんは料理上手だなあと思って」

「あんたねえ……料理上手ってのはあんたみたいな人のことを言うのよ。なんでそんなに手早くニンニクの皮が剥けるのよ。その方法って潰れちゃわない?」


 確かに慣れていない人から見れば難しそう見えるかもしれないが、これは意外と簡単にできるのだ。


「そんなことないですよ。やってりゃ意外といけるもんです」


 また板にニンニクを置いて、端っこを少しだけ切る。そして上から包丁を押し当て、コロコロと転がすと皮は剥けるのだ。力加減が難しいが、覚えてしまえば手早く行うことができる。


「やってみます?」


 亜希さんは渋い顔をしながら頷き、俺と場所を入れ替わった。手で包丁を握りしめているが、その指や手首なんかは俺よりも細い。男女で力が違うから、教えるのは難しそうだ。


「なんかこれ失敗する気がする。そもそもこのニンニクは形が悪いわね」

「失敗したときの言い訳はいいのでとっととしてください」

「ニンニク潰す前にあんたを潰すわよ?」

「両手で握った包丁をこちらに向けないでください。さすがに怖いです」

「あ。やっちゃったー……」


 案の定亜希さんはニンニクを潰してしまったが、元々失敗することを予想していたし、そうなった場合は唐揚げの味付け液に回そうと思っていた。


「潰しちゃった分は唐揚げの方に回すので、こっちの袋に突っ込んでおいてください」


 少し遊びすぎたかと思って辺りを見渡すと、あとの三人は野菜を切り終えていた。

 人参も玉葱も微塵切りになっていたし、茄子は大きく切られていた。

 トマトはお湯にくぐらせてから皮を向いて、軽く潰してあった。ボウルに山ほど入っている。

 ショウガもすり下ろし終わっていたし、固形のカレールウだって細かくなっていた。

 チラッとパンケーキ側の方を覗き見たけど、そちらも盛り上がっているようだった。和気藹々と楽しそうだ。お。そろそろ焼き始める頃か。


「じゃあこっちも炒めていきますか」


 まずは油を引いたフライパンにニンニクとショウガを入れ、弱火でゆっくりと香りを油に移していく。

 頃合いを見計らって玉葱を加え、飴色になるまで炒めていく。

 あー、良い匂いだ。


「なんだかお腹減ってくるなあ」


 後ろで休んでいる愛生が呟いていた。

 俺なんて実際に腹の虫が鳴いている。学校前に飯を食べられなかったのだ。

 というのも、バイト先の先輩がレジで違算をしてしまい、その原因を調べるために残っていたからだ。仲良くしてもらっている先輩だから、途中で帰ることもできなかった。

 俺は本当に腹が減っていた。


「この玉葱の匂いでも飯食えるよなあ」

「それはないかな……」

「俺はいま本当に匂いだけで飯が食えるくらい腹が減っててさー……」


 それから愛生にバイトで起こったこと話した。


「それは災難だったねえ」


 雑談していた他の三人も聞いていたようで、微かな同情を口調に含ませながらみんな心配してくれた。


「あんたってちょいちょい面白いネタ持ってくるよね」

「俺はそんなに面白いネタ持ってないし、そもそも面白くもなんともないですからね。……そろそろ挽肉入れたいので出してください」


 玉葱が良い感じに色が付いてきて、途中で入れた人参も熱が通った。

 それらを大きめの鍋に移して、そこに大量の豚挽肉を入れていき、木べらでほぐすように炒めていく。挽肉から水分が抜けてパラパラになってきたところでクミンとガラムマサラとカレー粉を投入。それから大量のトマトを汁ごと加え、塩と砕いたコンソメを入れた。


「あとは蓋をして三十分ぐらいかな。……覚えた?」


 東雲さんは難しい顔をしながら返答した。


「手順は覚えたけど、うーん……。味は違う感じになっちゃう気がする」

「味付けは俺がやるから大丈夫。材料を入れる順番とかタイミングさえ分かってくれればいいよ」

「そのくらいなら分かるから大丈夫かな」


 愛生の言葉に他の三人も同意した。


「じゃあ次は唐揚げ……お。パンケーキ焼けてるっぽいから休憩しますか」


 心なしか甘い匂いが漂っている気がする。

 俺の視線の先で東太がパンケーキを頬張っていた。張り切って作りすぎたのか、皿には薄茶色の綺麗なパンケーキが四枚ほど重ねられていた。その上からたっぷりのはちみつとバニラアイスを乗せていた。

 俺は手を洗いながら嘆息した。

 自分達で食べる分だからまだ許されるが、お客さんに出すときにあれだと、コストパフォーマンス的にやばい。収支がマイナスになって元を取るどころの話ではなくなる。

 あとでみんなに注意しておかなきゃな。


「海君、食べよ?」

「ありがとう」


 愛生が持ってきてくれたパンケーキを口に入れ、再び息を吐いた。


「甘っ。ホントにはちみつ掛け過ぎだろ……。俺はプーさんかっての」

「海君はプーさんってキャラじゃないなあ」

「愛生ちゃん的には誰なの」

「スナフキンかな」


 そこまでよく知らないけど、あんなに渋い奴じゃない。


「おっさんってこと?」


 そうじゃないよ、と愛生は首をユルユルと振って否定した。

 彼女にしては珍しく、表情は誰が見ても分かるくらいに笑っていた。


「なんか、言葉では言えないけどそんな感じなんだもん」

「ふーん」


 他人の主観だから俺がどうこう言えることではない。

 残っている甘ったるいパンケーキを食べながら、愛生を盗み見た。

 目元が穏やかになっている。感じられるのは大人しさじゃなくて、優しさだ。

 視線ははっきりと東太の方に向けられていた。

 そういえば、東太と愛生の恋愛の始まりを聞いたことがなかった。

 付き合いだって長くなってきていることだし、尋ねてみてもいいだろう。


「ねえ愛生ちゃん」

「んー」

「どうして愛生ちゃんはさ。東太と付き合ってるんだ?」


 愛生の目が丸くなって、それからほんの少しだけ眉を顰めた。


「違う違う。東太がどうこうじゃなくてさ。ごめん。言い方が悪かったね。俺が聞きたかったのは単純に理由というかさ」

「あー……」

「言いづらかったら話さなくていいよ?」

「ううん。いつか海君には言おうと思ってたし、聞かれるとも思っていたから大丈夫」


 やはり言いづらい理由なのであろう。軽く辺りを見渡し、誰も居ないのを確認したあとで、ゆっくりと切り出してきた。


「どうしてわたしが……東太もなんだけど、この高校に通うことになったのかにも関係あるんだ」


 そうだろうとは思っていた。何故なら二人とも至って普通だからだ。

 学業だって性格だって、家庭環境だって普通だ。何かを失って、不自由をしながら生きているわけではない。


「わたしと東太は小さい頃からの幼馴染みだったの。ドラマとか漫画とかでありそうな設定だけど、本当に昔から仲が良かったの。みんな知ってるけど、ガラも悪いし天然だけど、憎めない奴でさ」


 思わず笑ってしまったけど、東太は本当に良い奴なのだ。

 馬鹿だけど憎めない、そんな奴なんだ。


「とってもよく分かるよ」

「大抵さ。思春期に入ると関係って変わったりするらしいんだけど、わたしと東太はそのままだったの。お互い部活に入ったりクラスが違ったりしてたけど、何もない日は一緒に帰ってたし」

「その時点で恋人となんら変わらないっていうか、その頃だったら『お前ら付き合ってるのー』とかって言われるでしょ」

「言われた言われた。でもわたしは全然付き合ってるとか恋人とか、そういう感覚が湧かなくて」


 今でもあんまり分からないんだけどね。と付け加え、また話し出した。


「冬の始まりぐらいだったかな。掃除当番の日で、たまたまもう一人の子に用事があって、一人で掃除してたんだ。掃除が終わるのがいつもより遅くなっちゃって、急いで帰らなくちゃって教室から出ようとしたらいつの間にか担任が居てね」


 何を言おうとしているのか。


「ただのロリコンさんだったんだろうけど、襲われかけて」


 愛生の手が軽く震えているのを見て、俺は言葉を遮った。


「分かったからもういいよ。たぶん、そのあと東太が来たんでしょ」

「うん。待ち合わせしてたんだけど、わたしがいつまで経っても来なかったから教室まで見に来たんだって」

「それで担任はどうなったの?」

「東太が蹴ってさ。ちょうど見回りに来てた用務員さんにも見つかって……懲戒免職ってヤツで、学校は辞めていったよ」


 ふう、と愛生は息を吐いた。


「あんまり喋らないから、少し疲れちゃった」

「内容的にもアレだしね」


 アレで済ませたけど、なんとも言いがたい。辛いと言っても暗いと言っても当て嵌まらないし、なんとまあ言葉は不便なことだ。


「うん。まあ、それでさ。わたしが襲われ掛けたこととか東太が担任を蹴ったこととか、尾ひれが付きながら学校中に広まっちゃって……。普通の高校に進学しちゃうと、わたし達のこと知っている人が居るでしょ。それが嫌だからこっちに来たの。この学校なら誰も知り合い居ないと思って」


 なるほど。

 頷き掛けたが愛生は肝心なことを言ってない。


「なるほど。んで、東太は?」


 先を促そうとして愛生を見ると、彼女は頬を赤く染めていた。


「こう言うと凄く馬鹿みたいなんだけど……ヒーローみたいだったの」

「ヒーロー?」


 愛生の視線はずっと東太に向けられていた。


「……本当に怖かったんだ。突然名前を呼ばれたと思ったら、抱き締めてられてね。触られて、『あ、やばい』って思ったんだけど、身体も動かないし声も出せないし……」

「うん」

「そんなときに東太が来てくれて。気付いたら東太がその担任を蹴っ飛ばしてて。……気が抜けちゃったのか、わたしはわーわー泣いちゃって……東太、あたふたしながらだけど、ずっと頭撫でていてくれたの」


 もし俺がその場面に遭遇したらどうしていただろうと考えたけど、あたふたしてしまって何もできなかっただろう。中学生のときにその行動を取れた東太は凄いと思う。


「そのときに気付いちゃったの。この人はわたしのヒーローなんだって。大事なときに現れてくれる、わたしのヒーローなんだって」


 セリフにしたら二流だ。凄くチープだ。馬鹿みたいだ。

 だけど、その言葉は偽らざる愛生の真実なんだろう。


「凄く素敵……素敵って言うと違うかもしれないけど、羨ましい関係だなあ。気付けた理由はともかく、互いが互いを大切な人っていう認識ができて……あー……いいなあ」


 大事なときに現れてくれるヒーローか。東野さんにとってのヒーローは誰なのだろう。居るのか居ないのかは定かでないけど、俺が遠野さんにとってのヒーローなら良いのに。

 頬をうっすらと朱色に染めたまま愛生は目を伏せた。


「互いがっていうのは分からないよ。わたしが東太に気持ちを押し付けただけで、東太がお人好しだから断れなくてズルズル来たってこともあるかもしれないよ」

「そう思ってるの?」

「ううん。そう思ってるとか思ってないとかじゃなくて、不安っていうか……」


 一笑に付す。なんて言葉はこういうときに使うんだろう。


「好きじゃない人に、大切じゃない人に、どうして東太はあんなに嫉妬するんだよ」

「どういうこと?」

「愛生ちゃんが知ってるのか分からないけどさ。愛生ちゃんと話してると東太はガン飛ばしてくるんだよ。こっそり東太を見てみなよ」


 俺の指摘した通り、東太はパンケーキを頬張りながらもチラチラとこちらを窺っていた。


「ホントだ。ちょっと怖いね」

「ちょっとなんてもんじゃないけどね。まあ、とにかくさ。東太はちゃんと、愛生ちゃんのことが好きだよ。間違いないよ」


 うん。間違いない。


「そっか。……そうだね」


 噛み締めるようにそう言い、それから俺に頭を下げた。


「ありがとう」

「お礼をされるようなことは言ってないし、逆に俺が話してくれてありがとうだよ」

「ううん。わたしにとっては大事なことだったよ。東太の気持ち、なんとなくだけど知ることができたし」

「それならよかったよ。種類にもよるんだろうけど、案外悩みって誰かと話すだけでも楽になるからさ。なんかあったらまた話してよ。俺だって聞くし、亜希さんだって聞いてくれるだろうしさ」


 はちみつの甘い匂いがやけに鼻に付く。本心とは少し違うことを喋っているからだろうか。

 悩みを話せる誰かが居ないから、俺は疲れてきているのだ。


「やっぱり海君に話してよかった。ホントにありがとう」


 愛生は笑みを見せながら、俺に向かって何度も感謝の言葉を繰り返した。

 ちょうど休憩が終わったのか、他のクラスメイトたちが使い終わった食器を片付け始めた。


「ちょっと休みすぎたかな。俺たちも行こっか」

「うん」


 離れていく愛生を見つめながら苦笑を漏らしてしまった。

 そんなに何度もお礼をされても照れてしまう。

 愛生はホントに良い子だ。そんな子と出会えて、今もまだ手を離さないで居られる東太が羨ましい。


「ほんっとお前は羨ましい」


 愛生と入れ替わるように東太は俺の側に来た。


「あ?」

「愛生ちゃんに聞いた」


 東太の眉がピクリと動いた。

 その言葉だけで話していた内容を察したようだ。


「そうか。で、俺の何が羨ましいんだよ」

「そう聞かれると難しいんだけどな。なんだろう。関係性とか、かな」


 そう告げると、東太にしては珍しくクスッと笑った。


「俺はバカだけどさ。海もバカだよな」

「どういうことだよ」

「六十億だか七十億だか分からねえけど、人はこんだけ居るんだから、たぶん居るんじゃねねえの」


 要領を得ない。何が言いたいんだ。


「何が居るんだよ……」

「大切な人。互いにとってのヒーローっていうかさ。躊躇わずに、直球で好きって言えるような、そんな人がさ」


 なんで俺が求めてる答えを分かるんだろうか。何度も言うが東太は馬鹿なんだ。しかし、でも、本当に機微に聡いヤツだ。


「付き合って二年半ちょいだけど、東太って不思議なヤツだよ。本当に」

「だろ。つうかお前が分かりやすいんだよ。色々と隠そうとしてる割に顔に出やすいんだって。自覚しろ」


 事実なんだろうけど東太に指摘されると少しだけ腹が立つ。

 簡単に悟られてしまう己の器の小ささにも悲しくなる。

 そんなことはおくびにも出さず、東太の頭を軽く叩いて告げた。


「うっせ。とりあえず唐揚げ作りの準備を手伝え」

「亜希さんも言ってたけどさあ。お前って素直じゃないよな」


 無言で東太の尻の辺りを蹴ったが、奴は痛がりながらもニヤニヤしていた。

 愛生と東太の話を聞いて、俺は遠野さんについて考えた。

 遠野さんからのメールの内容や文章が変化していることに気が付いていた。

 以前は内容自体は下らないものだったのだ。読んだ本の感想だったり、食べたものの話をしていた。けれど今はそんな話はしない。

 もっと家に来て欲しい。ということを直接的に、あるいは間接的に遠野さんは何度も告げてきた。

 大人の女性と思っていたのだけど、メールの文章にも余裕を無くしてきているように感じていた。

 切羽詰まっていると言えばいいのだろうか。

 何故か初めて会ったときの瞳を思い出してしまう。コンビニで遭遇したとき、彼女は不安定な人なんだと思った。実際家まで行くようになってその考えは強くなった。

 遠野さんはうっすらと笑みを浮かべているけど、本当は何も思っていないんじゃないか。

 でも、たまに本当に優しく微笑んでいるときがあって、そんなときの彼女が好きだった。

 ホントは……彼女はずっと正常と異常の境目に居て、ふとした瞬間にギリギリで保っていたバランスが崩れてしまうかもしれない。それがとても怖い。

 そんなふうに思ってしまうから、俺は彼女の家へと向かう。一週間に二回は行っているだろう。バイトが休みの日は遠野さんの家に通っていた。

 それでだ。

 家に行くと、遠野さんの対応はおざなりなんだ。

 それこそ本の貸し借りの話だって、今の彼女にはどうでもいいようだった。

 俺から言い出さないと遠野さんはその話題に触れもしなかった。

 俺の目を見て、俺に向かって話し掛けてくれているのに、俺はどんどん悲しくなっていた。

 遠野さんは俺の中にいる誰かに喋っているんだ。

 感覚なんて曖昧なものを俺は信じたくないけど、これはもう絶対と言ってもいい。

 それに、家に通う数だけ記憶の欠落もあった。それらは全部繋がって関係しているのだろう。

 俺が遠野さんに尋ねれば良いだけだ。


『ホントは誰と喋りたいんですか?』


 でも、その質問が遠野さんとの繋がりを壊す発端になるかもしれない。

 そんなことになってしまうくらいなら、俺は黙っていようと思う。

 この関係は破裂寸前の風船だ。

 鋭利な刃物でツンと突けば破れてしまうかもしれないし、誤って手を離せば遠くへ飛んでしまうだろう。

 ギリギリだ。薄氷の上に立っているのは知っている。

 けれど遠野さんが笑ってくれるならそれで構わない。

 それだけで自分の心が満たされるのが分かったから、側に居られるのなら俺も笑っていようと思う。

 拒絶されるのも必要とされなくなるのも、二度とごめんだ。

 明日はまたバイトが休みだ。

 俺はたぶん、遠野さんのマンションへ向かうのだろう。

 どんなに思考を放棄しようとしても、グルグルと考え込んでしまう。

 遠野さんに会う度に自分が傷つくことを理解しているのに、俺は会いにいってしまう。

 満たされてはいる。けれど疲弊もしている。

 それなのに、俺は遠野さんに会いたい。

 どうしてなんだろう。

 自分の感情がどこから来ているのか、俺は知りたかった。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る