第13話 中編





 この世界には、矛盾していることなんてたくさんある。

 わたしが分かったのは、芹沢卓という人物は、よく分からない人だということだった。


「のんびり倶楽部、入らないか?」


 そう言われたわたしは、倶楽部の内容を理解しないままに頷いて入部した。

 文芸サークルも辞めてしまったわたしは、暇だったのだ。

 どんなことをするんだろう、と様々な気持ち――期待やら不安やら高揚やら――が混ざっていたけど、なんてことはなかった。

 大学に申請した正式なものではなく、卓が親しい友人と遊ぶために作っただけのものだった。

 わざわざ名称なんか……と思ったけど、卓は照れ気味に笑いながら「とりあえず、形から入らなきゃな」と言っていた。出会ったときの印象からして、理屈っぽいと思っていたからその発言には少し驚いてしまった。

 そんなことを思い出している内に、いつもの待ち合わせ場所に着いた。

 部屋の前の表札にはとても達筆な字で『のんびり倶楽部』と書かれていた。

 一応、ノックをしてから声を掛けた。


「入るよー」


 中から、どうぞ、という声が聞こえ、わたしはそれから部屋に入った。

 玄関には靴が三足置いてあった。お馴染みのメンバーがみんな揃っているようだ。


「なんで勝てないのよ」

「それは俺が強いからだね。逆に美澄はなんでそんなに弱いの?」

「アタシは貴方ほど遊んでないの。貴方こそ廃人なんじゃないの。やりすぎよ」

「いやいや。ゲームは一日三十分までだから」

「コイツやだ……」


 心なしか涙目になりながら地団駄を踏んでいる女性が斎場美澄さんだ。

 そして、丁寧な言葉を使いながらも彼女を煽っていたのが、杉並彩斗さん。

 美澄さんはげんなりしていた。


「彩斗と会話すると疲れるのよね。喉渇いた。……あ、ポカリ切らしてるし。ちゃんと買っておきなよ」


 彩斗さんは軽く睨みながら「ここは俺の部屋だ」と告げた。そうなのだ。この倶楽部のために部屋を提供しているのは彩斗さんだった。もともと、彩斗さんは卓の友達だったそうだけど、卓が面白いことをしたいと言っているのを聞いて、この『のんびり倶楽部』を設立することを提案したらしい。ちなみに部屋の前にある表札は彩斗さんが書いたものだ。

 美澄さんは彩斗さんの幼馴染みで、なんとなく彩斗さんに付いてきて卓とも友達になったようだ。

 らしい、とか、ようだ、とか、断定できないのは三人の話を聞いただけだからだ。


「お前らの漫才は面白いんだけど煩いんだよ。本を読ませてくれ」


 今日も卓は部屋の隅に座って本を読んでいた。ときおり会話に混ざるものの、基本的には彩斗さんの部屋にある本を片手に持っている。

 三人の視線が絡まり合って、若干険呑な雰囲気を醸し出していた。

 まったく、と思いながら、わたしが手土産に持ってきたケーキを差し出すと三人とも顔を乗り出してきた。


「これアタシ食べるから。レアチーズケーキってなんでこんなに美味しいのかしら」

「また太るな。俺はモンブランにしよう。卓はどうする?」

「んー……。決まらないな。先に茜から取っちゃっていいよ」


 なんとなく、気を遣われているのを感じていた。

 わたしの立場はなんだろう。

 三人の会話に入っていけないし、仲間内での話にも付いてはいけなかった。一対一ならそれなりに誰とでも喋れるのだけど、やはり三人が揃っていると、なかなか口を開くことができない。独特の雰囲気に慣れていないだけなのだろうか。


「ありがとう。じゃあわたしはプリンにしよう」

「ってことは、俺は普通っぽいショートケーキだな。にしても、茜は大体プリン取るよな。こういう場合」


 だって好きなんだもん。


「プリンっていうデザートを考えた人って天才だと思う」

「なんだよ。それ」


 卓は口元を綻ばせていた。


「いや、レアチーズケーキを考えた人が天才よ。あー美味しかった」

「なんでそんなに早く食べ終わるの? 知ってるか。よく噛むとヒスタミンという脳内物質が分泌されて、満腹中枢を刺激するんだ。だから腹いっぱいになりやすくて、結果として痩せるんだぜ。何が言いたいかというとだな。美澄は早食いだから痩せないんだよ」

「一回死んでもいいよ?」

「誠に残念ですが人間は一度しか死ねないんです」

「だからお前らの争いは不毛すぎるって……黙ってケーキを食えよ。美味いぞこれ」


 やっぱり中には入っていけない。けれど居心地は良かった。

 紅茶用意してくるね、と声に出してから、わたしは台所へ向かった。


 そんなふうに三人と過ごす内に、わたしは彩斗さんの内にある本棚から本を取って読み耽るようになっていた。

 小説もあった。啓発書もあった。専門書なんかもあった。

 適当に選んで、斜め読みでも良いからとりあえず読んでいた。

 たまに卓と感想を言い合ったりして、あるいは彩斗さんと美澄さんの諍いを宥めたりして。

 二~三週間に一度の集まりだったけど、それがわたしの生活の楽しみになっていた。

 そんな集会を積み重ねていったある日のことだ。

 わたしはいつものように卓と本の感想を言い合っていたんだ。


「なあ。茜」

「なに?」

「茜はこのまま大学通って、それからどうするんだ?」

「一体どういうこと?」

「単純に将来のことさ」


 自分が何をしたいかなんて、まだ考えていなかった。

 そもそも、大学に入った理由だって適当だったんだ。

 わたしの通っていた高校は割と進学率の高いところだったから、みんなと同じように大学に進んだだけだ。目的があったわけでもないし、この大学に通うことが目標だったわけでもない。相も変わらずわたしはなんとなく色んなものに流されていた。


「全然分からないなあ。卓はどうするの?」


 それがなあ、と呟いて卓は軽くかぶりを振った。


「俺も全く分からない。というより、自分の先の姿が見えないんだよな。そもそも、どうなりたいかなんてのも分からないしな」


 意外だった。心の奥底が理解できるほどの付き合いをしているわけではないけれど、自分の心証として、卓は自身の未来を想像し、その上で動いているのだと思っていた。


「そうなんだ。なんとなくだけど、卓はもう、自分の未来を描いてるんだと思ってた」

「一時間後に何をしているかさえ曖昧なのに、もっともっと先の、漠然とした未来なんてなんにも描けないよ」

「そうだよね。わたしも同じだよ。未来って本当に曖昧だよね」

「困ったもんだよな。本当に。でも、ちゃんと近付いてくるんだよな」


 本当に、その言葉通りだった。

 漠然としている自身の未来だけど、それは確かな足音を伴って確実に近付いてきている。

 近付いてくるのだ。

 そのあとわたし達は何度か同じ言葉を繰り返した。

 本当にね。本当にな。

 そんなことを言っているけれど、おそらくお互いよく分かっていない。

 それでも、わたしは思いを吐露した。


「わたしさ、分からないけど、全然分からないんだけどね。何かを教える人にはなってみたいんだ」


 それもなんとなく考えていることだ。でも朧気なものではなくて、少しずつだけど思いは強くなっている。自分の中でゆっくりと形を成(な)してきているのを感じている。


「教師になりたいってことか?」

「うーん……教師なのかなあ?」


 近頃読書ばかりしているからだろうか。作家って凄いなあ、なんて小学生みたいなことを思っていた。

 たくさんの作家が居る。そしてその誰もが自分の意思を文章にしてわたしに伝えてくるのだ。驕らず逃げず、ひたすらに研ぎ続けたであろう言葉達は、流されているわたしの心をズタズタに引き裂いてくる。すぅっと入り込んでくる言葉は明瞭なときもあるし、はっきりとしていなくて言葉の姿を捉えられないときもあった。

 でも、明瞭なものも不明瞭なものも同様に分かりやすかった。

 どちらも著者が噛み砕いて意味を教えてくれるからだ。

 はっきりとしていて、ぼんやりとしていて。

 そんな感覚を覚えるのは、きっとわたしだけではないのだ。

 そしてわたしもまた、そんな感覚を誰かに伝えていきたい。

 きっと生きていくことも同じなのだ。

 思っていることを伝達するために言葉はあって、けれどすべてを伝えきれるわけじゃないから苦労する。それでも伝えることを諦めたくない。

 そんなことを何度も繰り返す内に疲れてしまって、何も言わなくなる。

 重ね重ね言っているけれど、わたしは色々なものやことに流されている。

 そんなわたしが明確な意思を持って何かを伝える作業をするのは無謀だと思う。


「どんな人になりたいんだ?」


 そう尋ねてきた卓の顔は穏やかだった。


「寄り添える人になりたい……かな?」


 教壇に立って教えるような人にはなれないだろう。自分の本質は変わらないし変えられない。それが理解できるぐらいにはわたしも大人なんだ。

 大勢に手を伸ばせるほどわたしの手は広くないから、もう少し幅を狭めてみよう。

 広さはそれほど大きくなくて良いんだ。なるべく深く、ひとりひとりと繋がって、何かを伝えていければいい。

 何もかもはできないけれど、きっと何かできるはずなんだ。

 反芻するように、頭の中で呟いた。


「……寄り添える人か。そういうのって言い方一つっていうか、色々あるよな。で、具体的には?」


 やっぱり卓は手厳しいなあと思いながら彼の方を見ると、口元がほんの少しだけ緩んでいた。

 笑っていたのだ。

 わたしがどう答えるか分かってやっている。


「……それはまだ分からないけど」

「そっか。まあ、そうだよな」


 やっぱり笑っている。


「そういうのは大学にいる内に決めればいいさ。俺たちはまだ、ホントにギリギリだけど大人になる手前なんだから」

「うん」


 考えなければいけないけれど、確かにまだ時間はある。あっという間に過ぎていくのだろうけど、それでも猶予期間はあるのだ。

 目指すところは分からないけど、今は教員免許の取得を目標にしながらやっていこうと思う。

 それと、もう少しだけ外の世界と交流してみようと考えていた。このまま内側にこもっていても、時間が勿体ない。大学に通うのはあと三年間もある。

 そうだ。三年間もあるのだ。

 このまま何もせずに卒業するのは駄目だ。

 自分の本質は変わらないし変えられない……でもでも、変化していこうとする意思は大切で尊いのだ。

 それも分かっているんだ。

 春になったら、友達が入っているサークルに入れてもらってテニスを再開しよう。まるまる一年間やっていないから身体は動かなくなっていると思うけれど、きっとそんなことはどうでもいいんだ。

 おそらく、いいや、確実に。わたしは動かないことに悔しさを感じる。

 それはいいことなんだ。

 何も思わないなんてことはない。

 止まっていたいけれどそれは無理だ。

 押し流されるようにしてわたしは、わたし達は動いていくんだ。

 進んでいくしかないんだ。

 そんなことを考えていると、卓は呻き声にも似たため息と共に言葉を吐き出した。


「茜はいいな」


 わたしの何がいいのだろう。

 こんなにも曖昧なことしか考えられないわたしの、何がいいのだろう。


「なんにもよくないよ」


 卓は初めて出会ったときのように鬱陶しげに前髪を払っていた。


「そんなことない。俺は茜が羨ましい。まだ最終地点は見えてないんだろうけど、色々と周りの景色が見え始めてるじゃんか。それがすごく羨ましいんだ。ホント、すげえ羨ましい」


 その声には焦りの色が見てとれた。

 卓はそんな喋り方もできるんだ。一歩ずつ、卓の心の中が分かってくる。

 きっとわたしと同じように、みんなと同じように、年相応に、卓も悩んでいるんだ。


「羨ましいなんて言われたことないよ」

「じゃあ俺が第一号か」


 やっぱり卓の言葉の使い方は面白い。ぽつりと呟いたことが、なんとなくわたしのツボにはまってしまうのだ。


「その言い方、なんだか面白いね」


 卓は不思議そうに首を傾げていた。


「そうか?」

「うん」


 返事をしながらわたしは卓の目を見ていた。卓は何故か視線をあちこちに動かしながら喋っていた。左に動き、右に動き。そして下に動き、上に動いた。

 不意にキョロキョロとしていた卓の瞳がわたしの視線とぶつかる。

 会話が止まってしまった。喋らなければと思うけど、口からは何も出てこなかった。

 卓も同様だったのか、自身の手を軽く握りしめたり口元が動いたりしていた。

 そのとき、隣の部屋に居る彩斗さんと美澄さんの声が大きくなった。

 これ幸いとばかりに卓はその話題を持ち出した。


「あいつらよく飽きないよな」

「本当にね。でも、いいなあって思うよ。あんなふうに話せる人って羨ましいよ」


 卓は苦笑していた。


「茜は羨ましい人が多いんだな」


 違うよ。自分に誇れるものがないから、みんなが眩しく見えるだけなんだよ。

 事実を告げてみたかったけれど、まあ言えるわけもなく、わたしも苦笑を返すほかなかった。


「なあ茜」

「何?」

「いや、なんというか。こう、なんでもないんだけどさ」

「どうしたの?」


 いつもの彼からは考えられないくらい、途切れ途切れの言葉を吐いていた。

 卓の白い指がせわしなく動いている。少し、挙動不審気味だ。

 どうしたんだろう。

 それから卓は、カスカスな嗄(しゃが)れた声で言った。


「……俺ともっと喋りませんか?」


 どうしてか敬語だし、緊張していることがはっきりと伝わってしまって呆れたけれど、確かに卓はわたしのことを見ていた。

 いつの間にか隣から聞こえる騒がしい音は止んでいた。

 いや、たぶん同じように騒いでいるんだろうけど、今の私には聞こえなかった。

 だって、わたしも卓と同程度には緊張しているからだ。

 勇気を振り絞って、なんてセリフはチープだ。

 けれどわたしはそのとき、確かに勇気を振り絞っていた。

 緊張も度を超すと震えが走りそうになる。その振動が連鎖して震えた声が出そうになるけど、それを抑え込んで、わたしもはっきりと告げた。


「わたしも貴方のことを知りたいから、もっと喋りたいよ」


 意思を伝えなければ何も始まらないのだ。

 わたしはもっと、卓のことが知りたかった。



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