知りたいこと。

第12話 前編




 近頃、朝晩は肌寒い。

 暑さとはもうほど遠く、そろそろ季節は本格的な秋を迎える。

 衝撃的な出来事が起こった長月は終わり、神無月に入っていた。

 そういえば、昔、卓から十月が神無月と呼ばれる理由の俗説を教えてもらった。

 十月になると、島根にある出雲大社に全国の神様が集まってしまい、諸国に神が居なくなることから、『神無月』と呼ばれるようになったらしい。

 俗説だから、当てにならないんだけどな、と彼は言っていた。

 そんなことを思い出しながら食事の準備をしていると、背後から声が飛んできた。

 海君の声で、卓はわたしの名前を呼ぶ。


「茜、何してるんだ?」

「匂いで分かるでしょ」


 振り向くと、卓は鼻をヒクヒクと動かして、それから頷いた。


「これはカレーだな」

「うん。カレーだよ」


 わたしが作るカレーよりも、優しい匂いがする。

 温め直したカレーをテーブルまで運んで、それから氷水を用意する。

 二つ置いて、わたしは卓と向かい合うように座った。


「いただきます」


 似たようなタイミングで、なんとなくそう言ってから食べ始めた。

 口に入れると、やっぱりそれはいつもより甘い味だった。

 スパイスよりもトマトの味の方が強くて、カレーというよりはハヤシライスに近いかもしれない。

 卓は、ん、と小声で言ったあと、首を傾げた。


「なあ茜」

「どうしたの」

「これ、美味いな。美味いんだけどさ、お前の味と違うよな?」

「だってわたしが作ったんじゃないから」

「誰が作ったんだ?」

「海君だよ。彼、もう少しで学校祭があって、そこでカレー作ることになってるんだって。で、その練習に作ってみたんだってさ」

「へえ。それにしても、もう終わっちまった」


 卓の前に置いてあるお皿には、わたしの四分の一ほどの量しかよそってなかった。


「しょうがないでしょ。海君が起きたときにお腹いっぱいだったら、さすがに気付いちゃうし」


 心の中で苦笑する。

 なんでわたしは、海君に内緒にしているのだろう。

 腕時計を着けると、卓が戻ってくるの。原因なんて分からないけれど、起こったことのありのままを海君に説明して、気兼ねなく卓に会えばいいのに。

 なんでわたしは……。


「分かってるんだけどさ。こんなに美味いのを食えないのは結構辛い。匂いだけで腹が減る。茜、早く食え」

「はいはい。食べちゃうから本でも読んで待ってて」


 考えるのをやめて、残りのカレーを食べようと手を動かし始めた。わたしがスプーンを口に入れる度に、卓は恨めしそうに見ていた。そんな彼を横目に、わたしは二杯も食べた。

 食べ終わって、のんびりと喋っていたら、結構な時間が経っていた。

 あまりにも長時間、卓が海君の身体を借りているのは危ない。

 やっぱり、できるだけ海君が自分の身体に起こっている怪奇現象に気付いてしまう要因は少ない方がいい。

 卓は布団に潜り込むと、いつものよう、お決まりのセリフを吐いた。


「じゃあ、またな」

「うん。またね……え?」


 わたしは目を疑った。


「どうした?」

「ねえ、それ」


 腕時計が逆方向に向かって動いていた。

 時間が逆巻いている。

 思い出せ。思い出せ。

 はっきりとわたしは見たんだ。だから覚えている。卓が消えてしまった日から針は動きを止めていたんだ。そして卓が初めてわたしの前に現れたときに、短針は一二時を指していたんだ。

 わたしの視線に気付いた卓が時計を一瞥し、怪訝そうな表情を浮かべながら声を発した。


「ん……なんだこれ?」


 よく観察してみると、通常通りには動いていないようだ。

 何秒かに1回、反対方向に針を進めていく。


「なんで逆向きに動いてるの?」

「それは俺にも分からない。分からないけど……」

「分からないけど、何?」

「……いいや。今はやめておくよ」


 何か含みのある発言した卓は、肩を竦めて言葉を濁した。


「茜。よく分からないことは、考えないでそのまま受け入れろ。考えたって仕方がないんだからさ。ともかく、俺はこの身体を持ち主に返すから」


 考えたって意味のないことだし、仕方のないことでもあるんだろう。そのまま受け入れるしかないことはたくさんある。けど、グルグルと悩んでしまうのがわたしの性(さが)だった。


「頑張ってそうしてみるよ」


 わたしの頭の上に大きな手が乗せられる。卓がくしゃっと頭を撫で、海君の顔でわたしに微笑んだ。


「おう。それとさ、たぶん、俺は永遠にいられるわけじゃないからな。それを分かってくれな」


 サラッと爆弾を投下して、卓は腕時計を外した。


「それってどういう――」


 喋っている途中で、わたしは黙ってしまった。

 卓の気配が消えたからだ。

 すやすやと眠る海君の横顔を見ながら、わたしは悲しみを感じていた。

 どうして卓は、最後の最後にあんなことを言ったんだろう。

 そういう会話の流れじゃなかったのに。

 確かに死人が生き返ることなんてありえない。死んでしまった人は帰ってこない。当たり前のことだ。ちゃんと理解している。でもその自然の摂理に反して卓は帰ってきたんだ。

 海君という男の子の身体を借りてはいるけど、それでもわたしの前に姿を現して、会話をして、頭を撫でてくれる。


『永遠にいられるわけじゃない』


 その言葉だけで、わたしはまた闇の中に落ちそうになる。一度負って、治りかけていた傷が、再び開きそうになる。たまらなく不安で、怖くなる。

 生きているのも、生きていくのも、また独りになるのも、何もかもが怖くなる。

 卓の居ない世界で過ごすのはもうわたしにはできない。

 手に入れた幸せをわたしは何回手放すことになるのだろう。

 そんな思いで溢れてしまうのも怖くて、いやだ。

 そういえば、わたしはなんで生きていたんだろう。卓が死んでから刹那的に生きようとして、吾妻さんと身体だけを重ねていた。そうだ。最近吾妻さんに会っていない。それは、この子と出会ったからだ。

 チラリと海君を見遣ると、もぞもぞと身体を動かしていた。

 微かに掛け布団が揺れる度に、ホコリや塵が部屋内を循環する。小窓から差し込んだ日射しが、それとぶつかってキラキラと光を放っていた。晴れた日に粉雪が降ると、こんな感じだろうか。


「……んぁ」


 海君が掠れた声で何か呟いた。


「海君、起きた?」


 上半身を起こして、彼はゆっくりと辺りを見渡した。


「……まさか。また俺寝ちゃってたんですか……」

「そうみたい。やっぱり疲れが溜まってるんだよ。気にしないでいいからね」


 毎度毎度、彼はわたしの家で寝ている。寝ていることになっている。


「なんで寝ちゃうんだろうなあ……」

「寝る子は育つって言うし、いいんじゃないかな」

「遠野さん。それ、適当ですよね」


 あはは、と笑ってわたしは海君の肩を叩いた。


「まあまあ。ところでそろそろ学校じゃないの? もう二時半だよ」

「まだ余裕はあるけど……あ」


 思い出したように海君は呟いた。


「そういや、カレー用意してたんですよね。遅くなっちゃったけど、食べます?」


 わたしは軽く首を振った。


「ごめんね。海君が寝てる間にパンを食べちゃったの。だからわたしは要らないけど、海君は食べるよね。温めてくるね」

「あ。はい」


 海君はなんでもないような顔で返事をしたけど、その実、僅かながらに表情が曇っていた。わたしはそれに気付かないフリをしながら、キッチンへ向かった。

 パンなんて買ってない。食べてもいない。

 君が作ってくれたカレーはもう食べちゃったんだ。

 卓と会話を重ねるほど心は温かくなるのに、どこか違う場所が冷えていく。

 自分の感情が揺らいで変化しているのに、自分でそれについていけない。

 そのせいで、海君と話すのが少し辛い。

 わたしは、誰に、何を、感じているんだろう。

 わたしはどうしたいんだろう。

 未だにわたしは、自分のことが一番分からない。

 わたしは自分の気持ちが知りたかった。



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