第10話 中編





 どうやら海君は本が好きらしい。そのことを知ったのは先日のことだった。

 わたしも読書は好きだけど、やっぱり主に読んでいたのは卓だった。

 彼が遺していった本は、まだ本棚に並べてある。順番もそのままで、わたしが手に取らない本には埃が被ってあるぐらいだ。

 海君が本棚を興味深げに見つめていて、「本好きなの?」と尋ねると、彼は笑いながら頷いた。それからというもの、わたしは自分が好きな本を次々に貸していた。

 海君と感想を言い合うのは楽しい。


「これ、面白かったです」


 そう言いながら海くんは本を返してきた。


「よく出来てたでしょ?」


 別にわたしが書いたわけじゃないけど、自慢げにそう返した。


「前半と後半が逆というか……。素人考えですけど、俺なら時系列順に書いちゃいます。でも、あの書き方だからこそ素敵なんですよね。最後の吉野の独白の愛おしさを感じれば感じるほど、前半の由良が不憫で、たまらなく切ないですよね……」


 わたしもまったく同じ感想だ。

 初めて読んだとき、わたしはその作家の構成力をまざまざと見せ付けられて、ため息を吐くことしかできなかった。

 このお話は時系列が逆だ。前半で描かれているのは、一つの事故についてだ。一人の女子生徒が……吉野が事故により死亡してしまう。その真相を探すことになってしまった二人の男子生徒の話。二人は真相を確かめていくが……といった感じだ。

 後半は、ヒロイン――吉野の視点から描かれていく。吉野が由良彼方と出逢って、景色が少しだけ違う色を見せ始めたところで終了する。

 二人がこれから作り上げていくであろう幸せを、呼吸していくことを想像すればするほど、前半で描かれている予期せぬ悲しい事故が脳裏をよぎってしまう

 変えようのない現実を。

 救いようのない事実を。

 しっかりと見せ付けられてしまうんだ。


「彼はこれからどう生きていくんだろうなあ……なんてことを考えちゃいました」


 わたしもそうだった。そんなことを考えてしまっていた。


「わたしもそうだったよ。でも大丈夫。これね、続きあるんだ。気になったなら続きも読んでみればいいんじゃないかな」


 そんなに気に入ってくれるとは思わなかった。

 じゃあ私が貸そうと思っていたのは少しあとになるだろうなあ、と考えていると海くんは薄い笑みを浮かべた。


「気になりましたけど、遠野さんの選んだものを先に読みたい……かな」


 その言葉はわたしの胸を微かに締め付けた。

 含められた意味を感じ取って、わたしは苦しくなる。


「嬉しいこと言ってくれるじゃないの。んー……じゃあ次は――」


 相手の瞳を直視することができなくて、視線を逸らしながら茶化すのが精一杯だった。

 そのあと、今回こそはと張り切って作ったお昼ご飯を一緒に食べ、それから海君は勉強を始めた。といっても、海君の高校ではそろそろ学校祭が開催されるそうで、宿題の量は軽減しているらしい。

 海君と向かい合いながら、わたし自身もやらなければいけないことをしていた。

 テスト明けの家庭訪問や個別指導の計画だ。

 大抵はテスト明けになんてやらないけれど、成績が著しく低い児童に対しては行われる。

 ……『お宅のお子さんは頭が悪いのでもっと勉強させないと駄目ですよ』ということをオブラートに包んで言わなければいけないのだ。どれだけ言葉を駆使しようと難易度としては最高だ。当然乗り気になれるはずもなく、思わずため息が出そうになるけど、コレも仕事だから仕方がない。

 スケジュール帳を見ながら行けそうな日をピックアップしていく。明日塾に着いたらとりあえずご家庭に電話を掛けてみよう。

 ふう。と一息吐いてから時計に目を移すと二時半を過ぎていた。


「そろそろ休憩しようか。麦茶入れてくるね」


 麦茶を用意して戻ってくると、海君はテーブルに突っ伏していた。


「どうしたの?」

「いやー……宿題はないんですけど、それよりもっと面倒なことがあって」


 うーとかあーとか小さく呻き声を上げている。


「学祭、喫茶店みたいのやるんですけど、なんでか俺が料理長的な立場になっちゃって……メニューを考えないといけないんですけど浮かばないんですよね」


 やっぱり高校生は楽しそうだなあ。それにしても料理長……認めたくはないけれどわたしより手際が良いからそこに異論はない。


「メニューかあ……前から準備しておけるモノか、すぐに作れるモノが良いよねえ。ところでいつやるの?」


 結構やばいんですよねえ、と彼は苦い顔をしながら呟いた。


「あと二ヶ月もないんですよね」

「それは……早く決めないとだねえ」

「なんか妙案ありませんか?」


 季節柄、温かい食べ物の方が良いようが気がする。


「そうだなあ。……この前作ってくれたポトフとか、煮込み料理系なら良いと思うよ?」


 海君はふんふんと頷いて、何かのノートを開いて『煮込み物』と書き込んだ。


「ありがとうございます。じゃあ煮込み物系で提案してみるかー……」


 話が一区切り着いて、海君はそろそろ帰りますと言った。

 玄関で靴を履いているときに、チラッと靴入れの上を眺めた。海君は靴紐を結びながら世間話をするかのようにわたしに尋ねた。


「そういえば、この腕時計なんで使ってないんですか?」


 数瞬、心臓が止まりそうになった。

 いつか言われるだろうと思っていたから、言い訳も考えていた。

 でも、いざ聞かれてみると咄嗟に言葉は出ない。

 普通に、喋らなければいけないのに。

 視界が回り出しているさえしてきた。


「遠野さん?」


 声を掛けられ、心のざわめきが治(おさ)まりだす。焦点が合い始め、わたしは話し出した。


「コレね、壊れちゃってるんだ」


 海君は怪訝な顔をして、質問を重ねた。


「壊れてるなら、捨てた方が――」


 その声を遮って、わたしは告げる。


「壊れてるけど、捨てることもできないの。……大切な人が遺していった物だから」


 あの日からわたしは彼の所有していた物に触れることができない。

 そもそも、見ようともしていなかったんだ。

 なるべく目に入らないように、入っても何も考えないように……そうしていたんだ。

 ちゃんと見てみると、腕時計はうっすらと埃が被ってある。

 綺麗な思い出で埋め尽くしても、現実は容赦がない。美化することさえできないんだ。

 海君は軽く目を伏せながら、不器用な笑みを浮かべていた。


「そうなんですか。少しお洒落だから気になっちゃったんです。なんか、すみません」


 知らず知らずの内に海君はわたしの心の深遠まで迫ってきていた。

 それをわたしは振り払ったんだ。近付いてきた彼を拒絶して、たぶん傷つけた。

 曖昧で不安定で、でも自由に振る舞えるこの関係が続いてきたのは、お互いの間で一つの約束事をしていたからだ。

 それは、相手のことを詮索しないこと。

 別に口にしたわけじゃないけれど、それがルールだと思っていた。

 そうじゃないのなら、わたしだって海君に聞きたいことがあるのだ。


「ねえ」


 もし、もしもだけど。


「本当に欲しい?」


 繋がる物が深くなるのなら、わたしも海君も心を晒せ出せるのかな。


「えっ。いや、欲しいですけど、そんな大切なモノを……」


 彼はしどろもどろになりながら言葉を返していた。


「ううん。もういいの」


 そうだ。もういいんだ。わたしはわたし自身を解放しなくちゃいけない。

 どうやったって、過去にはしがみ付けないのだから。


「あげるよ。ただこれね。見た目は普通なんだけど……」


 腕時計を手に取り、ホコリを払ってから海君に渡した。


「みて、これ壊れちゃってるんだ」

「おー……ホントだ」


 微動だにしない針を見ながら思考を重ねる。

 この腕時計は、わたしが誕生日にあげたものだ。それから卓は毎日付けて大学院に通っていた。でも、理由は不明だけど、何故かあの日、卓は腕時計を付けていかなかったんだ。そしてわたしがお昼頃に気付いて……。

 これ以上はやめておこう。

 とにかく、理由もなくこの腕時計は止まったんだ。


「街にある時計屋さんに行けば、たぶん直してくれると思うよ」


 わたしは専門家じゃないから分からないけれど、その道に精通している人ならちゃんと直してくれるだろう。


「了解です。ありがとうございます」


 海君は嬉しそうとも悲しそうとも取れる表情をしていた。

 彼は早速手首に付けて、腕時計をマジマジと眺めた。


「やっぱりこれ、お洒落です――」


 突然、声がしなくなった。


「海君?」


 彼の瞳が揺らいで、虚ろになっていた。

 どこか気配も気怠げで、希薄なものに変わった。


「大丈夫……?」


 心配になってもう一度声を掛けた。海君は大丈夫、というように、ゆっくりとわたしに視線を合わせた。

 何故だろう。何故だろう。

 快適だったはずの風が、空気が、さっきとまるで違う。

 心の中がぞわぞわして、不快な気分を助長させる。


 そして、針は回り出す。


 彼はわたしの目を見据えて、はっきりとわたしの名前を呼んだ。


「茜」


 あまりにも懐かしい呼び方に、ビクッと身体が震えてしまった。

 容姿が変わったわけじゃい。どう見たって海君だ。

 それなのに、どうしてこんなに物懐かしさを覚えてしまうんだろう。


「海君、だよね」


 返事を聞くまでもなく、内心では確信している。

 いまわたしの目の前にたっている人物は卓だと。

 けれど、ありえないのだ。

 頭の中に残っている冷静な部分で考えてみるけれど、どう思惑したって現実では起こり得ない。


「違うよ。分かるだろう?」


 ああ、やっぱりだ。


「卓なの……?」


 海君の姿をした彼は――卓は首肯した。


「そうだよ」


 わたしは力が抜けていき、へなへなとその場に座り込んだ。

 言いたいことは、たくさんあるんだ。

 告げたいことも、数え切れないくらいにあるんだ。

 でも。でもでも。

 わたしは意味を為した言葉を何も発せなくて。

 側に寄って、卓を抱き締めることしかできなかった。


「もう、なんでよ。ばかじゃないの」


 すべてが止まっていて、悲しいだけだったこの家が、また大切な場所になった気がした。

 卓も力強く抱き締め返してくれる。


「何がだよ。俺は馬鹿だよ。……ごめんな」


 何に対する謝罪なのかよく分からないけど、なんでも良かった。

 わたしにはどうでも良かったんだ。

 死んだはずの想い人と言葉を交わせて、熱を感じることができて、ただそれだけで十分だ。それだけでいい。これ以上に幸せなことなんてない。

 胸の奥が痛くて、どうしようもなく痛くて。

 卓を失ったときの苦みが蘇ってきて、涙を流しそうになる。

 それを堪えて堪えて、「ん」と小さく頷く。


「ごめんな」


 卓はまた同じ言葉を繰り返した。

 表情は見えないけれど、たぶん卓は今、悲しそうな顔をしている。

 ここに居る。ここに居る。ここに居た。

 一呼吸、二呼吸。深く息を吸って、卓の匂いを嗅ぐ。

 黙ったまま、どのくらいの時間を抱き付いていただろうか。

 それは一分にも満たなかったのかもしれない。

 もしかしたら十分以上だったのかもしれない。


「落ち着いたか?」


 いつもの海君の声質より低く、それはやっぱり懐かしい音。


「ん」


 抱き付いていた腕を放すと、卓は照れくさそうな声で軽口を返してきた。


「くっつきすぎだって。肩凝っちまった」


 自然と笑みが溢れてしまう。別に、繕っていたわけじゃない。

 それでも、何も考えずに笑ってしまうのは、貴方だからだ。


「ねえ。どういうことなの?」


 そう、まずはこれを聞かなきゃいけない。どうして死んだはずの卓が……。

 卓はお気に入りの青いソファーに座って、腕を組んだ。


「正直、俺にもよく分からないよ。思い出せる一番初めの光景が、車に轢かれた場面で……いや、この場合は最期の光景って言った方が良いのかな。とにかく、どうして俺が存在しているのかは分からない」


 んあ、と不思議な声を出して、卓は首を傾げた。


「ところで茜、ちょっと歳食った?」


 癇癪を起こしかけた。

 卓が死んでしまってから、どのようにして一人で過ごしてきたのかを。

 孤独と向き合ってきたのかを、貴方は知らない。


「貴方が消えてから、一年とちょっとかな」

「そっか。あともう一つだけ質問。俺、誰?」


 ああ、卓からしたら、それが問題か。


「その身体は太田海っていう……」


 そこで少し口ごもってしまった。

 なんて説明すればいいのだろう。コンビニで出会った不思議な少年。

 生徒であって、友達でもある。どのように言っても間違いである気がする。


「……」


 卓は黙っていた。

 気怠げそうな瞳でこちらを見ている。

 恐らく、わたしの心情を推し量ろうとしている。


「わたしの仮の生徒」


 プッと小さく吹き出して、なんだよそれ、と聞いてきた。


「夜中のコンビニで初めて会って、それから縁が続いてね。なんだか放っておけない子で……生徒だけど、友達みたいな子」


 へえ、と感心するように頷いた。


「それは面白い……というか、おかしな関係だな」

「うん。わたしもそう思う」

「だけど良いことだ。うん。良いことだな」


 何が、と尋ねようとしたけど、それより前に卓は言葉を続けた。


「茜にとってその出会いが日常に変化を付けることなら、それは俺にとっても嬉しいことだよ。どうせって言ったらあれだけどさ、どうせ俺が死んだあと、人間的な生活をしてなかったんだろ?」


 目を見開いてしまった。

 言われた通りだった。


「見てたの?」


 そんなわけないだろ、と卓は苦笑しながら否定した。


「死んでた人間が見えるわけないだろ。でも、お前のことだからさ。分かるよ」


 会話を重ねるほど、わたしの心が潤っていく。愛情に渇いていた心が、湿っていく。

 卓に知らないことなんてなかったんだ。孤独も痛みも、たぶん気付いてくれている。

 思えば、付き合っていた頃から、いつも卓はわたしに気を遣ってくれていた。

 いまもわたしは自分のことで手一杯だ。彼の心を理解する努力が足りないんだ。

 そうだ。そもそも死んだのは彼なんだ。

 それなのに、どうしてこんなにも泰然としているのだろう。

 まるで何もなかったかのように、平然とわたしと話していられるのだろう。

 そう思ってわたしが卓の方を見ると――


「どうした?」


 彼は穏やかな表情でわたしを見つめていた。

 その瞬間、わたしは再び泣き出しそうになった。

 卓が普通を装っていてくれた理由を理解してしまったから。

 わたしが感情を発露させやすいように、なんだ。

 溜め込んで、沈み込んで、心の奥に溶けてしまったものを引きずり出そうとしてくれている。

 過去の吐瀉物を吐き出さない限り、現在(いま)だって覚束ないし、未来へも進めもしないのだ。

 そう言ってくれている気がした。

 ばかみたいに喋るときもあるくせに、何も言わないこともある。

 まったく、この男は。


「なんでまた泣いてるんだよ」


 卓の声色にほんの少しの狼狽えが混じっていたのを聞いて、少し勝ち誇った気になる。

 もっと、たくさん言ってやる。

 夕日が沈む手前の優しいオレンジが、卓を包み込んでいた。

 それごと包むように、わたしもまた手を伸ばした。

 わたしは泣いていたけど、笑ってもいた。

 心の底から、笑っていた。




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