何を想うのか。
第9話 前編
『面倒見の良い年上の女性に憧れる』なんてのは、古今東西で使い古されてきたネタだ。
けれど俺は彼女に対して女性的な部分を強く感じてしまっている。
惹かれているという言葉だけで感情を形容できはしないのだろうけど、彼女のことを考えてしまう時間が増えているのは事実だ。
彼女――遠野茜さんは、性格や本質といったモノが掴みづらい人だった。
初めて出会ったときと再会したときの印象から言えば、遠野さんは喜怒哀楽といった言葉を人間にしたような人だと思っていたが、二週間前に遠野さんの家に行ったときに俺は感じた。
遠野さんからは何かが抜けていると。
彼女は表情をくるくると変えるが、何故か微かな違和感を覚えてしまう。
作られているなどとは思わないけれど、ふとしたときに遠野さんの瞳を覗いて、俺は邪推してしまう。
人間を構成している感情の一欠片を失ってしまい、鋭く尖った心の刃を理性で押さえ込んで、無理矢理に丸くしているのではないかと。
穏やそうに俺を見つめる目に含まれているのは、一体どのような気持ちなんだろうか。
この推測に根拠などないから考えても仕方がないことなんだろうけど、もしやさぐれた気持ちを押し隠しているとしたら、理由はなんだろう。
心情を吐露しているときでさえ、想いの十割を言葉にして発しているようには見えない。
恐らく、本音の数歩手前だろう。
もちろん、二十歳も過ぎて社会人にもなっているのだから、誰にも言いたくないことや見せたくないことの一つ二つはあるだろう。
だからそれを殊更に追及しようなんてことは考えていないけれど、彼女のそういうところが俺は気になってしまってしょうがなかった。
メールでも、電話でも、直接でも、彼女と言葉を交わすのは心地よかった。
会話とは言えない――途切れ途切れに呟いたような言葉だとしても、その言霊の中には彼女自身の生き方みたいなモノが含まれている気がした。
言葉の節々から垣間見えたのは、年長者云々ではなく、彼女が歩いてきた人生であるような……そんなことを感じていた。
いま生きているこの世界が現実なのか夢幻(ゆめまぼろし)なのか、俺はいまいちよく分かっていなかった。
俺個人の人生設計や未来なんてのは漠然としたモノで、父親の面倒を見ながら、寂しく死んでいくことだけが俺の役目だということは理解していた。
それこそ現実なのか夢幻なのか。
どちらでもあるような気がしたし、どちらであってもいいような気さえしていたのに。
俺の生なんて曖昧で益体のない日々の連なりだと思っていたのに。
蜃気楼のように朧気で曖昧な日常が形を為していき、輪郭が浮かび上がってくる。
この目に見えるモノ全てが、徐々に色彩を帯びてきているのを俺は実感しつつある。
こんなふうにメランコリックな感情に支配されそうになるが、この想いは恋慕の情なのだろうか。
数瞬考えたが、それを苦笑と共に否定する。
「なーに笑ってんだ」
込み上げる笑いを必死に抑えていた俺に東太が声を掛けてきた。
やっぱりな気付いたか、と笑みを違うモノに変えた。
あまり感情が顔に出ないからか、周りからは仏頂面だの冷徹だの言われるが、実際は色々と思うところだってあるのだ。
怒りだって悲しみだって思春期相応には感じている。
他のクラスメイトは気付かなかったけれど、東太は俺の表情の微細な変化に何かを感じたようだった。
頭の良さはさておき、心の感受性は本当に強いヤツだ。
「俺の愛生で変なこと想像してたらぶっ殺すからな」
意味が分かんねえよ。
「ちげえよ」
再度思う。頭の良さはさておき、だ。
何故こういう突飛なことが口から飛び出るのか不思議でならない。
「なあ東太」
「あ?」
「一度だけでいいからさ。頭を切り開いてみたらどうだ?」
「死んじまうっつうの。ってか何言ってんだお前は」
お前の方が何言ってんだ。
盛大なため息を吐いた俺の横に、愛生と亜希さんが立っていた。
「脳内がどうなっているのか調べてみたいところではあるわね」
亜希さんが俺の言葉に同意し。
「東太は死なないと思うよ」
愛生が東太の人間としての機能を否定した。
「どういう意味だよ」
東太は愛生に尋ねるが、愛生は笑いながらはぐらかすだけだった。
「おーいお前らよく聞けー」
よく通る声の持ち主である担任のそれが響き渡った。
クラスメイト一同動きを止め、視線をそちらに向ける。
「そろそろ学祭の準備に取り掛かる時期だが、今年から全日制の生徒と合同で行うぞー」
隣にいた亜希さんが、「どういうこと?」と尋ねた。
正直、教師達の意図が理解できなかった。
ほんの数年前まで、定時も全日も関係なく学校祭は合同で行っていたらしい。
しかし、とある事件が起きて以来二つの生徒の仲が険悪になり、それから学校祭は別々に開催していた。
数年の時を経た今となっては、その詳細を知る者は居ないだろう。ということなのか。
たまにであるが、俺も全日制の生徒とすれ違う。
部活か何かで帰宅が遅くなった生徒だろうけど、誰一人として定時制生徒である俺を無視したりしなかったし、言葉に刺も感じなかった。
挨拶程度で無視するヤツもいないと思うが……。
「みんな知ってると思うけど、何年か前に問題を起こしたヤツらがいてな。どっちの生徒にも問題があったそうだが。ま、その問題はともかく、そろそろ昔みたいに仲良く行こうって校長が決めて今年からそうなったわけだ」
遺恨と言うほどではないのかもしれないが、そういう負の感情は消えたってことか。
「とにかくだ。問題を起こさずに仲良くしてくれ」
担任はそう言ってからLHRを始めた。今日の議題は学校祭で何を行うかだったが、それについてはもう学級内でまとめてある。
学級委員でもないのにこういうのを担任に伝えるのは何故か俺の役目だ。
「学校祭、喫茶店でどうですか? 場所とか借りられなければ違う出し物を考えますが」
「喫茶店?」
「はい」
「普通の?」
「はい……え?」
「いや、メイドだのホストだのヤンキーだのじゃなくて、普通の?」
ヤンキー喫茶なんて聞いたことがない。
「最後のは需用ないしそもそもこのクラスに一人しか居ないんで無理ですよ」
「俺は良いと思うんだがなあ。時代の最先端って感じがしないか?」
一瞬だが亜希さんの方に目を向け、へらへらとだらしのない笑みを浮かべた。
「前衛的すぎて誰も付いてこない上に先生の性癖モロ出しですよ」
亜希さんは、道ばたに落ちているゴミを見つめるような目つきで担任を眺めていた。
とてもじゃないが同じヒトを見ているとは思えない目だ。
担任はそれに気付かず、頬を緩ませながらヤンキー喫茶の展望について語り続けていた。
「俺に向かってそれを喋らないでください」
今日も学級は通常運転だ。
二学期制のこの高校では長月の半ばに前期期末考査が行われる。
つまり、もうすぐだ。約一週間後だ。
そろそろ復習をしなければならないことに気付いた俺は、仕事が入っているという亜希さん以外の二人をいつもの場所に誘った。
現国の小テストの要点をまとめたノートを見せながら、二人に説明していると黙って聞いていた東太が口を開いた。
「それにしても、だ」
何を言い出す気なのか。
訝しげに東太を見ていたが、ヤツは珍しく苦笑いし、首を振ってきた。
「今日はとんでもないこと言わねえよ」
「自覚があったんだな」
「うるせえ。んでさ。お前、教え方上手くなったよな」
「そうか?」
「俺の気のせいかもしれないけど……愛生はどう思う?」
東太に話を振られた愛生は軽く唸った。
「んー。元々海君は教えるの上手だったからなあ」
自分では至らないところだらけだと思っていたが、愛生からは上手に見えるようだ。
「ただ……喋り方が変わった気はする、かな」
相変わらず弱々しい口調だ。
高校に入学してから二年半経つが、愛生が断定する口調で話すところを俺は聞いたことがなかった。
教室内では声をあまり発さないので、絡んでいる三人以外の生徒達はそもそも喋ったところすら見たことがないだろう。
他の生徒からは無口なお姫様として見られているが、実際は話し掛ければ答えてくれる普通の女学生だ。
まあ、話し掛けづらい理由の一端は、姫を守る騎士(東太)が厳つすぎるのもあるだろうけど。
「そうそう。なんつうか、言葉と言葉の間の取り方っつうかタイミングっつうか、そういうのが変わってきてる気がするんだよな」
茜さんの喋り方を真似しているだけなんだけど。
「愛生も言うならそうなんだろうな」
「それどういう意味なんだよ」
「東太、落ち着いて……?」
下らない会話を挟みながら勉強を続け、そのまま学校に直行して授業を受け、その後学祭の準備を行う。
その一連の工程が終わると、疲れでつま先から頭まで倦怠感に浸かりきってしまったかのように感じる。
それからコンビニへ行き、自宅で寝ているであろう父親のために酒を買わなければならない。疲れた身体に鞭を打ち重たいそれを持って家に帰る。
鼾を掻きながら寝ている父親の周りある、散らばっている酒類を片付けてから、俺は調理を開始した。
いつもなら夜遅くに料理なんて面倒なことはしないが、今日は腹が減っている。
味噌とみりんと砂糖をあわせた調味料をナスとひき肉を炒めているものに回し入れ、しょうゆやごま油、一味唐辛子を加え、それから片栗粉を入れる。
冷凍してあったご飯をレンジで解凍し、丼飯のようにして平らげた。
使用した食器を水に浸けてから、身体を休めるために横になる。
満腹感を得た身体が睡眠を欲しているが、俺には一つだけやらなければならないことがあった。
あまり時間を取れるわけではないので、ここで行わないとどんどんと先送りになってしまう。
その「やらなければならないこと」とは、茜さんから借りた本を読むことだ。
鞄から一冊の本を取り出して、表紙を眺める。
描かれているのは、沢山の青い蝶々と制服を着ている一組の男女だった。
落下していく女の子が伸ばした手を、力強く握りしめ、引き上げようとしている男の子。
散りばめられた青い蝶が、そこはかとなく切なさを漂わせている。
コレは悲恋物語なのだろうかと想像してしまって、読み始めるのを躊躇しそうになるが、それは駄目だと萎える心を叱咤してページを捲り始める。
この物語は、まだ始まってすらいないのだから。
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