誰を想うのか。
第6話 前編
不思議な彼と再び会ったのは、長月に替わってすぐの小雨が降る夜だった。
睡眠するためにその日もビールを飲んだけど、どうやら寝付きが悪かったらしい。丑三つ時に目を覚ましたわたしは冷蔵庫を見てため息を吐く。
買い置きしてあった分を全部飲んでしまったようだ。卓を失ってからもうずっと、熟睡することなどできていない。
夜中に出歩くなんて面倒なことこの上ないけど、部屋の隅で膝を抱えたまま朝を迎えるのはもっと面倒だった。一人で夜を過ごしていると、得体の知れない孤独に押し潰されそうになる。
またコンビニに行こう。そう思って支度をして部屋を出た。
歩きながら、少しだけ仕事について考えていた。
わたしの勤めている塾は休暇に規則性がなく、合計で月に十日ほど休みを貰っていた。ちょうど今日は休日だったのだ。しかしこれからは少し厳しいシフトになる。というのも、明日から前期期末考査の為の対策講座が始まるからだ。そうなるとしばらく働きづめになる。法律に違反するわけにはいかないので建前としての休暇はあるけれど、そのまま休めるわけじゃない。わたしを含めた講師全員が授業で使うためのプリントや宿題用のプリントを作成しているし、時間と時間の隙間を縫って、成績の上がらない生徒の家庭訪問にも伺っている。
そんなわけで実際には休日も仕事に追われることになるのだ。
ふう。
期末考査の予想テストの構成、どうするかなあ。最近の出題傾向を見るに、もう少し長文読解を増やしてもいい気がする。
そんなことを考えていたとき、手首に水滴が落ちてきた。
パラパラと雨が降り、音もない雫が優しく身体を穿つ。
気持ちが良くて、わたしは頭上を見上げた。
そこには雲一つ無い満天の星が広がっていたけど、美しいと思うより先に目を瞑っていた。雨が目に入ったのだ。
でも顔を伏せることはせず、上を向いたままで口を開けてみる。とんだ間抜け面だろうけど気にしない。周りには誰も居ないのだ。
口の中に雨が入ってくるけど、まとまった量じゃないから溜まりはしない。
小雨で濡れた唇を舌で舐める。
口内にあった唾液と混ざったモノを咀嚼し、飲む。何度も繰り返す。何度も何度も。
昔飼っていた金魚が、今のわたしと似たような行動をしていた。金魚達は餌が欲しくて、水槽の縁をグルグルと回っている。グルグル、グルグル。
少しだけ撒かれた餌に飛びついて、食べて、また回る。
わたしはそれを眺めてキャッキャと笑う。
あのとき、金魚にとってわたしは神様だった。
餌を与え水を与え空気を与えて――わたしは神様だった。
不意に胸が詰まった。わたしは魚じゃないから地上でも呼吸できるし、生活できる。活きてはいないかもしれないけど生きてはいる。薄く瞼を開いてわたしは空を眺める。相変わらず星は輝いている。
変わらないモノも変わっていくモノもあるけど、じゃあどこで何がどうなったんだろう。
わたしの物語の創造主は誰なんだろう。
雨が目元で弾け、涙のように落ちていく。
静寂に満ちた路上に立ち竦んでいたわたしは、いつしか本当に涙を流していた。
何処にも人の影は見当たらなくて、途端に一人で居ることが怖くなる。
胸の奥がドキドキして、汗が出るのも構わず全力で疾走する。
コンビニに入ろうと、ドアに手を掛けて勢いよく引こうとした。
けれどそのドアは動くことはなく、逆に姿勢を崩して地面にへたり込みそうになった。
腰に力を入れて踏ん張り、ガラスの向こう側を見る。
大きなガラスを挟んで、いつかの彼はこちらを見ていた。
二十日ほど前に会ったときと変わらず、手にぶら下げているビニール袋からは四リットルの焼酎が顔を覗かせていた。
ただ、この前は笑っていただけだったけど、いま彼は明らかに戸惑っていた。
わたしは緩慢な動きで取っ手に掛けていた手を離す。
彼はゆっくりとドアを開け、外に出てくる。
「大丈夫ですか?」
何がよ。という言葉を呑み込んで、代わりに頷く。
「喋れないんですか?」
「そういうわけじゃ、ないけど」
まだ心臓が高鳴っている。走りすぎたのかもしれない。
途切れ途切れに喋るわたしに対して彼は不審な顔でこちらを見ていた。
けど、ハッとしたような顔になって、わたしの手首を掴んだ。
彼は腕時計を見ながら、指の腹でわたしの脈を取る。
彼の指が触れる二十秒ほどの間に、増加していた心拍数は落ち着いていった。
心なしか閉塞感さえ薄くなっていた。
わたしの変化を見て取ったのか、彼はホッとした様子で呟いた。
「落ち着きましたね」
「うん。ありがとう……って、この前も助けてもらったよね」
やや時間を置いたあと、彼は思い出したように「あー」と間延びした声を出した。
「覚えてなかった?」
からかい気味にそう尋ねると、彼は困ったような笑みを浮かべた。
「最近忙しくて」
若者は濃密な時間を過ごしているということなのかな。
まあでも、学生のときなんてそんなものだけど。
馬鹿騒ぎしながら過ごしている当時は、日々が忙しいと嘆く。
勉強し、喋り、遊び。繰り返す行為に意味なんてないと思いながらも時間は進み続け、動いていく度に記憶はぼやけていく。
でも時間が経ってから振り返ってみると、確かにそれらはわたしの脳内に刻まれていて。
掠れた教師の声、誰かの笑い声、朝まで続いたカラオケ。
細かなところまでは残っていないけど、確かにわたしは覚えている。
一度思い出してしまえば、そんなものが懐かしくてたまらなくなる。
「そっか」
彼もいつかそんなことを思うのだろうか。
微笑ましい気持ちになって彼を見ていると、彼はプッと吹き出した。
「なーんで笑ってるの?」
「いや、なんか、表情がクルクル変わる人だなーって」
さっきまでは泣いていたのにいまは笑っている。
それを考えれば自分でも否定できない。
「女心と秋の空は変わりやすいの」
「なるほど」
頷きながら、彼も笑っていた。
「ところでキミ、またお酒買ったの?」
不意を突いて尋ねると、彼は眉を寄せて瞬きを繰り返した。
「さすがに今日もウチで飲み会がーなんて信じませんよね」
当たり前よ、というふうに軽く睨むと彼は肩を竦めた。
「でも内緒です」
気になって気になってしょうがないけど、わたしも肩を竦めて、「分かった」と言った。
追及してこないことに安堵したのか、彼はふうっと息を吐いたが、次のわたしの言葉で少しだけ表情を変えた。
「何度も助けて貰ったからさ、お礼させてくれない?」
なんだかそわそわし始めている。どうしたんだろう。
「大したことしてないないし、悪いです」
チラッと腕時計に目を通し、それから「んー」と唸った。
「ん。じゃあ言い方を変えるね。何かの縁だから、友達になれたら嬉しいなって」
この世にあるのは必然だけだ。
きっとこの出逢いに何か意味があるような気がする。
というようなことを説きつつ彼を説得し、赤外線通信でお互いの連絡先を交換する。
携帯の画面に、
太田 海(おおた かい)
という彼の本名が表示される。
「海って言うんだ」
「そちらは茜さんですか」
「できたら遠野さんって言ってほしいな」
下の名で呼ぶのは、卓だけでいい。
「了解です――人を待たせてるんで、そろそろ行きますね。じゃあ、また」
彼はそう言い、小雨の降る道を駆けていった。
薄曇りだった空から鈍い月が見えた。
それは黄と銀が混ざり合ったような色で、はっきりとした形を持っていた。
ふわっとした雲から出てくる半月を見ながら、今日はビールは要らないなあと思った。
ツキアカリを浴びながら眠ればいい。
やがて雨は止み、わたしは家路に就こうと足を動かした。
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