第5話 後編
そんな過去を思い出しながら、俺はわざとらしくため息をこぼし亜希さんに告げる。
「いつもながら忌憚(きたん)ない意見。お見事。あっぱれ。けど、その顔面凶器をこちらに向けさせないでください。やるならお二人でどーぞ」
ふん、と鼻を鳴らしてから、亜希さんは「やーよ。怖いから」と一蹴(いっしゅう)した。
「どーせ怖いですよ」
東太は捻くれ気味にそう言ってから、愛生と帰っていった。二人の足音が遠ざかる中、「東太は馬鹿だし怖いけど優しいからね」などという慰めが聞こえた。
……慰めているのかは微妙なラインである。
二人を優しげな瞳で見つめていた亜希さんは口元を綻ばせた。
「あれは慰めてるつもりなのかしら?」
「どうでしょうね。愛生ちゃん的には慰めてるつもりなんじゃないですか?」
「あの子、変わってるよね」
「亜希さんほどじゃないと思いますよ」
「性格の話じゃないわよ。こう、なんていうのかな。内面的な?」
だからそれも亜希さんほどじゃないですよ。
なんて、心の中で発したことが表情に出ていたのか、亜希さんは俺の足の脛を蹴った。
「痛っ。蹴らないでください」
「私のことを馬鹿にしたからよ」
「いきなり暴力は駄目ですよ」
「愛情よ。かわいさ余って憎さ百倍ってヤツかな」
この会話に意味はないんだろうけど、カサカサになった心に僅かな潤いをもたらす。
こうやって、くだらない会話の応酬をしながら校門を抜けた。俺は部活動をしていないが、校内には生徒が残っている。室内から放たれる光がその証拠だ。
交通量の多い交差点まで亜希さんと歩く。
気心の知れた友達だからか、会話がなくても流れる空気は穏やかだ。
それにしても、葉月も終わりに近づいているというのに茹だるような熱はまだ抜けそうにない。
手首に着けている簡素な時計に視線を移すと、針は九時半を回っていた。
「暑いっす」
「暑いね」
夜なのに、本当に暑い。
「じゃあ、また来週」
いつの間にか交差点に辿り着いていて、しばらく俺達は立ち止まっていたようだった。
亜希さんが俺をしげしげと眺めているのに気付いていたけど、ぼうっとしていた。
「――あ、気を付けて」
「あんたの方が気を付けなよ。ぼーっとしてるけど、大丈夫?」
「なんだか眠くて」
近頃、満足に眠りも取れていない。そろそろぶっ倒れるかもしれないが、それもそれで仕方のないことだ。
と言っても、眠いからという理由で呆けていたのではない。
こんな時間が温かいから、気付かない内に心がふわついていたんだ。
要するに、のんびりとしていただけに過ぎない。
俺の言葉をそのままに取ったのか、亜希さんは気怠げな眼差しに愁いをたたえて、俺を労るように言う。
「……無理しないでね」
「なんか亜希さんっぽくないですよ。優しいというか素直というか……痛っ」
からかうようにそう言うと、亜希さんは再び俺の足の脛を蹴った。
一時間ほどの間に二回も蹴られるとは。
「素直に『うん』とか『はい』とか言っておけっての」
亜希さんはブロンドの髪を揺らし、甘い香水の匂いだけを残して離れていった。
そこから十分ほど歩くと、古いアパートや新築一軒家が立ち並んでいる閑静な住宅街に出る。ボロさが一際目立つアパートの階段を上がっていくと、錆び付いている階段がギシギシと耳障りな音を立てた。なるべく音が反響しないように、つま先から踵へとスムーズに体重移動をするけど、あまり意味はない。
ケータイのストラップと一緒に付いている鍵を使って玄関を開け、室内に入る。
コレも、なるべく静かに行う。
薄暗い部屋に入ると、まず父親の鼾(いびき)が耳に飛び込んでくる。
そしてそのあとに感じるのは、ひどく濁りきった空気に混じる酒の臭いだ。
父親は母親と別れて以来、飲酒して睡眠することを繰り返している。
外に出なくなってから既に半年近くが経過している。
外部との接触を断ち、人に会わないようになってから、ヒゲも髪もボサボサだ。
つんざくような鼾を掻いている横顔は、実年齢から五歳以上は老けて見える。
軽くシャワーを浴びて、明日のバイトに備えて眠りに就く。
隣の部屋から響く父親の鼾が耳に付くが、軽い倦怠感を感じて瞼を閉じれば、覚醒していた意識は覆われた視界と共に閉じていく。
そういう習慣が身体に染み付いている。ヒトの適応力には感心する。
もっとも、適応しなければこの生活は即座に破綻してしまうが。
半分ほど開けてある窓を通して、生温い夏の風が入ってくる。
生温いとはいっても室内の温度より低いようで、それが身体に触れるのは意外に気持ちよかった。
突如、頭上で怒声が響く。
真夜中だというのに父親は何度も何度も俺の名前を呼ぶ。
頭の中で反響するその声に俺は反応する。
「何?」
他の住人に迷惑だろうと考えてしまう理性が寝ていたいという感情を上回った。
「酒」
言葉と共にキツイ臭いが吐き出される。
「もうないの?」
「ない」
日に日に飲酒量は上がっている。が、止める術を俺は知らなかった。
数日前にも『酒がない』と怒鳴られたが、言われた時間が今日と同じように夜中だったため、俺は『明日買ってくる』と告げた。
父親はアルコールがないと生きてはいけない身体になっているのか。
訳の分からない呻き声を上げ暴れ出し、俺に殴りかかってきた。
体格差はほとんど無いが、部屋に引き籠もっているだけの父親の拳にそれほどの力はなかった。
そう、俺はその拳を受け止めることも避けることもできなかったのだ。
どうしてこうなってしまったんだろう。
悲しいのか寂しいのか。
殴られながら俺は自分の感情を整理しようとしたが、結論は何も出なかった。
目が座っている。ここで拒否したら、また暴れるのだろう。
だから俺は「行ってくる」と言って長袖の上着を羽織った。
顔は殴られなかったモノの肩や腕、腹などには痣が残っている。
微かな痛みを伴いながら、俺は亜希さんと別れた交差点まで戻る。
そこには(ほぼ)この地方限定のコンビニがある。夏場にはそぐわない、オレンジ色の温かな光を灯しているコンビニだ。
うろ覚えだけどそのコンビニの発祥は元々酒屋の集まりだとかなんとか。
発祥の理由はさておき、酒類の品物が充実しているのは確かだ。
それと、この店舗には特典みたいなモノがある。
それは勤めている店員が適当だということだ。
俺が未成年だと知っているけれど年齢確認をしてこない。
学生の俺でも酒類を買えてしまう、数少ないところだった。
大抵この時間帯に他の客を見かけることはないが、今日は先客が居た。
艶やかな黒髪を持つ女性が動いていた。
彼女を視界の端に捉えながら店内に入り、今日のレジ担当の顔を確認し、ホッとした。 ここに勤めている店員達の中で、最も怠惰な人物だったからだ。
つまみを買い物カゴに入れ、それからこのコンビニのブランドで売っている、値段の安いウイスキーや4L入りの焼酎を手に取りながら熟考する。
どっちが長持ちするかな。
途端、前方から鈍い音が聞こえた。
そちらを一瞥すると、先ほどの彼女が六缶パックのビールを落としているのが見えた。
俺は手に取っていた焼酎をカゴに入れ、彼女に近づいていった。
彼女は大きなため息を吐いて、緩慢な動きでそれを拾おうと身体を前に屈めた。
疲れているのかどうなのか、それは本人にしか分からないが、その投げやりに見えてしまう動きが俺の心の琴線に触れた。
相手の手がそれを取るより早く、俺の手の平で黄と青の二色カラーの発泡酒を掴み取っていた。
腰を屈めている彼女に向かって俺は話し掛けた。
「大丈夫でしたか?」
言いながら内心では凹んでいた。
言葉の主語がなく、相手に意味が伝わるかどうか微妙なラインだったからだ。
コミュニケーション能力の低さが露出している。
既に二年も前のことになるが、元カノと別れた際に一悶着あって、それ以来女性と話すのが苦手……と言うほどではない。ではないが、喋ることが少しだけ億劫になってしまったのだった。普段から話している亜希さんや愛生はまた別なんだけど……。
と、一瞬の間にあれこれ考えてしまったけど俺の杞憂だったようだ。
相手の表情から、会話の主旨は伝わっているのだろうと推測できた。
「ああ、うん。大丈夫。ありがとうね」
黒髪を揺らしながら、彼女はお礼を返した。
そして身体を起こしながら上目遣いで俺を見て、次いで買い物カゴに視線を移した。
傍目に見れば高校生らしき若者が酒類を買おうとしている図だ。
やっぱり関わらない方が良かったかもな。
自身の行動理由の不明さに俺は苦笑いを浮かべてしまった。
「飲むのは俺じゃないです」
即席で訳をでっち上げ、嘘を述べる。
「……今日親戚が集まっちゃって、ウチで飲み会みたいなことやってて。で、足りなくなっちゃってー。みたいな」
よくもまあすらすらと言えるもんだと感心し、自分の趣味である読書に感謝した。
読書といってもお堅い話は読めないので、買っているのは主にライトノベルと呼ばれるジャンルや一般文芸手前の作品だ。
悪文で読むのに耐えないものから、ささくれてしまった心を癒すモノものまである。
まさに玉石混合だ。
彼女は「そっか」と頷いたあと、パッチリとした目を僅かに細めて訊ねてきた。
「でも君、どうしてビールを買えるの?」
理由を捏(こね)ねくり回せば回すほど怪しく思われるので、そこは素直に話した。
「それは……ここの店員さんが寝ぼけているから買えるんですよ。それに、悪いことはしないですし」
誓って俺が飲むわけではない。父親に与える安定剤なだけだ。
そうやって言っても、信じてもらえないのかもしれない。
と思っていたけど、彼女は特に追及してこなくて、何故か赤の他人である俺の心配をしていた。
「分ってると思うけど、買ってるのばれたら危ないんだからね?」
正義感が強いのかお節介なのかは知らないけど、彼女の黒目の奥には滾るような気持ちが隠されているように思えた。
変わった方だ。ま、それは俺もか。
なんとも言えない気持ちになって、俺はまた苦笑いをし、「分かりました」と言って頷いた。
彼女は俺の横を通り過ぎて、目をしょぼしょぼとさせている店員に品物を渡した。
支払いのためにバッグから長財布を取り出し、千円札と小銭を店員の手の平に載せた。
手を動かす度に浮き出ている血管がモゾモゾと動いているように見える。
店員がのそりのそり、発泡酒とつまみをビニール袋に突っ込んでいく。
何から何まで怠惰だ。
滲み出ている気怠げなオーラに彼女は呆れているようだった。
働いているのにこの態度は問題かもしれないけど、俺にしてみれば良い人なんだよなあ。
世の中は上手く回らないものだ。
そうこうしている内に、彼女の会計が終わった。
手動ドアを半分ほど開けてから、彼女は動きを止めた。
葉月の暑苦しい外気が冷房の効きすぎている店内に入ってくる。
振り返って、言葉を紡いだ。
「夜遅いから、気をつけてね?」
そりゃ身分は学生で十七だし、言われても変ではないけど。
「……不審者は男って相場は決まってますよ。だから俺は大丈夫です。それより貴方こそ心配ですよ。お酒、あんまり飲み過ぎないでくださいね」
凶器でも持っていない限り逃げられる自信はある。
彼女の方こそ女であり、危険度は俺より増すと思う。
それより心配なのは発泡酒だ。
こんな夜中に買いに来るというのはどういう理由からだろうか。
まともに会話はできるし、父親のように身体の震えもない。
だから依存はしていないと思うけど。
彼女とすれ違う際、柔らかな匂いがした。たぶん、シャンプーだ。
一度風呂に入ってからまた外に出て酒を買いに来る。
それほどまでに飲酒したかったのか?
心の拠り所が無くなり、アルコールに頼るというのは望ましいことではない。
自分が――周りにいる人達さえが――不幸になる。
「こっちも大丈夫。襲われる可能性なんて万に一つくらいしかないよ」
俺は酒の心配をしたのだが、不審者関連の返しをされてしまって少し戸惑う。
それに言葉の使い方が不思議だった。
万に一つくらいしかない?
彼女は僅かに目を伏せて口元を緩めた。
おかしな冗談を言う人だと思い、『そんな冗談は言わない方がいいですよ』と声を掛けようとしたが、顔を上げ笑みを浮かべる彼女の目元が微かに赤いことに気付いた。
もし仮に、泣いたあとで。
だから投げやりで、この言葉を本気で言っているとしたら?
どうして泣いてしまったのか、俺に知る術はないけれど、分かることならある。
予想だにしない事態が襲いかかり、事実になっていくことを俺は知っている。
非現実的な世界を受け入れるしかなくて、それが心と身体を削り取っていくことを、俺は知っているんだ。
だけど、知っているから偉い。
理解しているから凄い。
そういうことじゃない。
知らなければいいことは世の中にたくさんある。
俺が一つだけ言いたいのは、自分を下げるような、自虐的なことを言ったりするのは駄目だってことだ。
言っていれば、その言葉は本当になってしまう。
そういう力が言葉には込められている気がする。
だから俺は言い続ける。
不安も、苦しみも、悲しみも、何もかもをしまい込んで、『大丈夫です』と。
自分が楽になるわけではないが、少なくとも周りは日常を送っているのだ。
それをぶち壊す必要はない。
よくわからねえけど。
「そんなことないですよ。それじゃ」
笑みを作り、俺は手を振る。彼女は曖昧な顔をしながらも俺に手を振る。
そして店から出ていった。
勝手に閉まっていく手動ドア。
生を感じる外気が冷房に淘汰され、周りが冷気で充満していく。
この空間の心地の良さにため息が出る。
でも、慣れてしまったら何も感じなくなる。
どうしたって人間はそうなる。
革新的なモノだって年月が経てば当たり前になり、やがては見向きさえしなくなる。
人間が送る人生も同じだ。
慣れてしまえば何も感じなくなる。
感覚が、鈍くなっていくんだ。
結局、俺という人間の、
人生だけは、変わらない。
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