人生だけは、変わらない。

第4話 前編





 携帯からネットに接続し、『幸せ』と『不幸』という単語を辞書で引いてみる。



 し‐あわせ〔‐あはせ〕【幸せ/仕合(わ)せ/×倖せ】


 《動詞「しあ(為合)わす」の連用形から》[名・形動]

 1 運がよいこと。また、そのさま。幸福。幸運。

 「思わぬ―が舞い込む」「―な家庭」「末永くお―にお暮らしください」

 2 めぐり合わせ。運命。「―が悪い」

 「道がわかんねえで困ってると、―よく水車番に会ったから」〈有島・生れ出づる悩み〉

 3 運がよくなること。うまい具合にいくこと。

 「―したとの便りもなく」〈浄・博多小女郎〉

 4 物事のやり方。また、事の次第。

 「その科(とが)のがれず、終(つひ)には捕へられて此の―」〈浮・一代男・四〉



 ふ‐こう〔‐カウ〕【不幸】


 [名・形動]

 1 幸福でないこと。また、そのさま。ふしあわせ。「―な境遇」

 2 身内の人などに死なれること。




 幸福ではない。と言えるのは一体何処からなんだろう。

 不幸だ。と叫んでも良いのは、何処からだろう。

 そんなことは、その言葉を発する人間次第なのかもしれない。

 でも、俺は考えてしまう。

 決して自分自身のことを不幸だと思っているわけではない。

 けれど、幸せと思い込むほど楽観的な性格ではない。事実、幸せとはほど遠い状況に俺はいる。

 相対的な見方をしてみよう。

 例えば、この地球上には飢餓で食料や水に飢えてるにもかかわらず、いつ終えてしまうか分からない生を諦めないで送っている人達がいる。

 例えば、俺がいまこんなことを思っている最中にも、内戦で死んでいる人間が確かに存在するのだ。

 彼らの『生』には、必死という言葉の裏に諦念の意も含まれているのかもしれない。

 しかしながら、紛れもなく、世界の裏側で起こっている真実だ。

 その人達から見れば、俺は幸せだから大丈夫?

 そうじゃない。そんなことを言いたいんじゃない。俯瞰しながら語れるほど出来ている人間ではない。上を見て下を見て、それで高尚な人種になれたフリをできる奴ではない。

 彼らは迫り来る『死』の宣告から逃げる。

 それこそ、死に物狂いで。

 定められた終末の針をこれでもかこれでもかと回避し続け、運命を、人生を変えていく。

 俺の単なる想像だが、それは間違いではないと思う。

 そうやって毎日を生きている奴らと、特に意味もない毎日を生きている俺は、どれだけの違いがあるのだろう。

 境界線は何処にあるのだろう。

 死を想うわけではないけれど、益体(やくたい)のない日々に神経を磨り減らし、崩壊してしまいそうな心を持ち続けて、俺は生きている。

 操り人形の糸が切れるように、プツッと線が切れて、事切れてしまっても、俺は文句を言わないだろう。

 そういう運命だったと納得してしまえるくらいには、何かを失っている。

 積極的に生きたいと足掻いてる人がいる。

 消極的に今を生きている俺がいる。

 幸せの価値ってなんなんだ。在処を教えて欲しい。。

 形成されてきた人間らしさを忘れていき、感情さえ喪失していき、俺は『俺』という人間の何もかもを知らないままに死んでいくのだろうか。

 いや、元より、生きてはいないのかもしれない。

 先ほどの想像で挙げてみた『世界の裏側で起こっている真実』。

 そこにいる渦中の人間は、爛々と目を輝かせながら生きているのだろう。

 起こりうる生も死も超越し、ただただ自らの命だけを主張し、命の可能性を模索しながら、限界まで生きるのだろう。

 俺は違う。

 トクトクと刻まれる一定数の拍動。心音と共に巡っている血は己がここに存在することを教えてくれるが、それが俺の生の証しに成り得るかと言われたら、即座に首を振る。

 俺はいる。確かにいる。

 でも、それだけだ。


 部屋の中に立ち込める酒の臭いを嗅ぎながら、俺はそんなことを思っていた。


 二年間と半年、毎日続けているバイトが終わると、ちょうど午後三時半なっている。

 夏の日射しを浴びながら歩いて家に帰り、シャワーを浴び、寝ている父親を横目に指定された制服に着替えて高校へ行く。

 歩いてばかりだけど、夕刻になっているためそれほど苦ではない。

 それほど、だ。全く辛くないわけじゃない。汗は滴り落ちるほどに出る。

 通っているのは定時制高校だ。

 夕方から授業が開始されるため、全日制よりも毎日の授業は少ない。

 だから、卒業するには四年間掛かってしまう。

 留年や退学にならない限り、あと一年半で無事卒業できる。

 そろそろ進路を決める時期だけど、俺の場合はほぼ決まっている。

 進路は恐らく就労で、バイト先になるだろう。コンビニ店員だ。

 店員になる前は、流れ作業のように思えていた仕事だが、実際に働く立場になってみると、それは違っていた。

 確かに作業には一連の流れがある。

 が、お客さんとの何気ない会話の中で俺は誰かに奉仕する喜びを知った。

 たった一言の『ありがとう』だけで、俺は救われている。

 働くということは誰かを喜ばせることだと思う。

 従事する中、俺はそのことを知った。

 だからコンビニに就職することに対して、否定的な感情はない。

 ただ学ぶことは好きだから、高校の先――大学にも通ってみたかった。

 できれば通いたいのだけど、現状から鑑みるにそれは無理だろう。


 金曜日の最後の授業は英語だ。

 俺は英語が得意ではないが、教える教師の質が良かった。

 三十台前半の男性教師で、TOEICで九百点強を取ったという彼の実力は本物だった。

 教科書通りの進め方にこだわらず、一人一人と会話(もちろん英語)をしながら学力を向上させていく。これは生徒の母数が少ない定時制高校の利点だ。

 授業日程を終えたあとは、清掃を開始する。二年半前の学校初日、クラスメイト二十人全員でやっても効率が悪い(人が多すぎると返って邪魔になる)ことに気付いた俺達は、二十人を五組に分けて四人一組で掃除をすることを提案した。

 とは言っても、この辺のことに教師は関わらないので、自分達で勝手に決めたことだ。


「四人に分けね?」

「そーだね」

「四人以外は帰っていいの?」

「いいんじゃね?」


 組み合わせは適当だったが、俺にとってこのメンバーは楽だ。

 185cmはあろうかという長躯に幅広い肩幅を持たせた、最早(もはや)ちょっとした暴力団関係者に見えてもおかしくはない神代東太(かじろとうた)と、夜はホステスとして働いている秋沢亜希(あきさわあき)さんと、色白で華奢な織部愛生(おりべあおい)だ。

 世の中は深遠なもので、東太と愛生は中学生時代から付き合っているらしい。

 美女と野獣という言葉を人間に表したような二人。色々と謎だ。

 使った箒やチリトリを片付けていると、東太がポツリと呟いた。


「いやーマジで説明が分かりやすいよな」


 隣にいた愛生がクスクスと笑いながら同意した。


「そうだねえ。東太がそう言うなら、そうなんだろうねえ」


 愛生はお猪口程度に皮肉を込めているのであろう。

 どういうわけか、東太はあの教師の授業を受けているのに、五段階評価で二をもらっているのだ。

 そしてたった今「説明が分かりやすい」と言ったように、授業中寝ているわけでも遊んでいるわけでもなく、教師の声を真面目に聞いている。

 それでどうしてテストの点が取れないのか不思議でならない。

 が、当の本人(東太)は愛生の毒に気付かず「ん?」と聞き返していた。


「馬鹿ってことよ」


 どう答えようか迷っている愛生に変わって、亜希さんが吐き捨てるように漏らした。


「酷くね?」


 そう言いながら東太は俺に話を振ってきた。

 少し前にこんな話があった。

 俺達四人は大抵定期考査前にファミレスで勉強している。

 学生なり社会人なりと言った立場の違いはあるけれど、気を付けなければいけないことは皆分かっている。

 馬鹿みたいな大声は出さない。談笑するくらいの声量。

 ドリンクバーだけで時間を潰そうとは思わない。もちろんドリンクバーは頼むけど、合間に鶏の唐揚げだのポテトだのやデザートを頼んでしっかりと店に貢献する。と、コレは俺の案だ。

 コンビニに勤めている経験から思うことだけど、立ち読みだけして買い物をしない奴の気が知れない。知りたくもない。どいつもこいつもジャンプ見過ぎなんだよ包装したろか。

 と、憤慨しながら話した結果、みんな少々引きながらも納得した。

 普通にしているならなんの問題もないだろうと考えていた俺達が馬鹿だった。

 午後一時過ぎ、某ファミレスに集まった俺たちは、早々にノートや教科書を開いて勉強を開始した。


 ――思えばその時点で不可思議なことが起こっていたのだ。


 水を配りにきたウェイターから「ご、ご注文がお決まりになりましたらお呼びください」と告げられていたので、みんなの進み具合を見ていた。そろそろ休憩する頃合いだと思い、来て一時間ほど経ってから、テーブルの脇に置かれている店員呼び出しボタンを押した。

 だが、待てど暮らせど店員は現れなかった。

 別に忙しくもないはずなのになあと思いつつ辺りを見渡すと、どこもかしこも満員御礼だった。

 しかし、誰一人として声一つ発しない。

 それどころか物音一つ立てずに食事を取っていた。

 店内に響くのは、俯きながら問題を解く三人のシャーペンの音のみ。

 この異様な空間はなんだ。

 数度の瞬(まばた)きを繰り返してから、俺はもう一度顔を上げ、周囲にいる客を観察する。たまたまだろうけど、俺がチラチラと隣を窺った瞬間、三十代前半くらいであろうの婦人と目が合い、ぷいと目を逸らされた。

 子連れのようで、婦人の横には通園する前の年頃とおぼしき女の子が座っていた。

 彼女はお子様ランチを食べており、スプーンを使ってハンバーグを口に入れるところだった。キラキラとした瞳が俺とぶつかり、視界に幼児特有の幼い八重歯が見えた。

 ついと何かが綻んで、俺は微笑みかけた。

 女の子も笑みを作ろうとするが、それを察知した母親が蚊の泣くような声で子供に注意した。


「あのお兄ちゃんと目ぇ合わせちゃ駄目。危ない人達だからね?」


 コクンと頷いた子供が、俺の隣の席に座っている人物をチラッと見て、ブルッと震えた。

 ……もしかしてこの雰囲気を生み出している元凶は。

 事実を確認するために、俺は(二重の意味で)立ち上がった。すると亜希さんが、顔を上げもせずに「どこに行くの?」と訊ねてきたので、「電話」と返してからレジに向かって歩いた。

 特に何をしているでもない店員に向かって、俺は話し掛けた。


「注文に来ないんですが……」


 そう言っただけなのに、女性(二十代後半)は肩を震わせていた。何この反応。


「い、いまうかか。いあまうかががいますので」


 なんと言ったか分からなかったが、たぶん『いま、伺いしますので』だろう。


「……・落ち着いてください。別に俺は危ないヒトじゃないですよ。一つ訊きたいんですけど、もしかして俺達の周りに客がいないのって、アイツのせいですか?」


 ここからでも見える長躯の男――神代東太を指差した。たまたま東太が首を持ち上げ、ゆっくりと左右に回した。ほとんど俯いて勉強していたので肩が凝ったのだろう。

 東太が首を左にやれば、左にいた客は上を向く。

 東太が首を右にやれば、右にいた客は下を向く。

 ここからならよく見える。他の客は東太にビビっている。


「そ、そうですよ」


 と、女性(二十代後半)は言って、それから堰を切ったように暴言を吐き始めた。


「あ、あの顔、最近殺人を犯して捕まったのに刑務所から逃亡した犯人に似てませんか?」


 誰だそれ。


「いや、アイツは至極まっとうな高校生ですよ?」

「だってあの顔、やばいですよ。目からビームが出そうですし」


 認める。


「背高いし、どこかの組の幹部かと……」


 三秒ほど沈黙したあと、俺は直球で訊ねた。


「……俺ら出ていきましょうか?」

「で、できれば。そして次にいらっしゃるときはあの方の顔を隠してくだされば……」


 顔隠すって、マスクにサングラスか? それこそ不審者じゃないか。


「分かりました。それじゃ連中呼んでくるんで」


 机にしがみついている三人を呼んで、俺達はファミレスを出た。

 いきなり店を出ようと言った俺を訝しげな目で見ていたが、理由を話すと一同爆笑した。

 ケラケラと笑う亜希さんが、「お前今度からマスクにグラサンな」と命令した。

 当然文句を言う東太だったが、愛生に「みんなで勉強したいから。ね?」と言われてしまい、そうすると東太は納得するしかないようであった。

 慣れることは怖ろしいことなのかもしれない。



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