10(採尿編)
「ねえ二眼くん、こうやって毎日のように採尿を、いや、これを尿って言っていいのかは甚だ疑問なところだけど……まあいいや、採尿なんだけど、君もやってみる?」
洗い終わった瓶を片手に尋ねたスナップショットは、ノートを眺めていた助手の冷たい視線を浴びる羽目になった。アタッチメントの下から合成音の無機質な声が響く。
「突然ですね……採取される側は御免こうむりたいのですが」
助手は手元のノートを閉じ、机の上に置いた。その音を聞きながらスナップショットは瓶の中に溜まった水をシンクへ空けた。見慣れた漿性の液体がたらたらと流れていく。
「またどうして。いつもやってる事だろ」
シンクの端に座り排水溝の渦を見ていたスナップショットは怠そうに顔をあげ、手に持っていた瓶で助手を指した。
「あなたにとってはそうでしょうが…………わかりました、わかりましたから濡れた瓶をこちらへ向けるのはやめてください。アタッチメントは壊れても生えてはこないんですよ」
デジタル二眼レフは知らず瓶に引き寄せられた視線を自覚するとともに即座に遮断した。漿液の味を思い出そうとする全ての器官を押さえつけ、デジタル二眼レフは無理を悟られぬようそれらしい言い訳を口にする。それと知らぬスナップショットは瓶を引込め、むうむうと唸った。
「結構距離あるしこれぐらいの水気で壊れるようなやわな造りじゃないだろ。人間のサンプルが必要だと思っていたところだったんだ、これは君以外には頼めないことだからさ」
君以外には頼めない、その言葉をデジタル二眼レフは反芻する。それはそうだ、この研究所にはスナップショットとデジタル二眼レフしかおらず、スナップショットはもう人間ではない。他に頼もうにも、代わりがそもそも存在しないのだ。
「……そういうことなら仕方ないですね、サンプルを提供する代わりと言ってはなんですが、いくつかこちらから条件をつけさせてもらいます」
助手は目を開き、ポケットからメモを取り出してペンで何事か書き付けた。書き終えたらしいそれをスナップショットに渡し、彼は口を開いた。
「万が一にでもサンプル同士が混ざるようなことがあると検査結果が変わってしまうので採取用の瓶は新しいものを用意してください。それから人間の尿は本来保存がきかないものですのでどうかご理解を。あと、ええと」
「見ないでくれって言うのは無しだよ、君がそんなことするとは微塵も思ってないけどデータの改竄と異物の混入を防ぐための決まり事だ」
デジタル二眼レフは頭を振った。
「ああ、いえ、それは存じております……そうではなくて、ええと、採取は別の場所でやってもらっていいです? ……あまり変な条件付けを繰り返すとこの部屋に入れなくなってしまいますので」
変な条件付け。スナップショットは解析機のあるこの部屋が、前に精液を採取した場所と一致していることに気が付いた。
「うん? ああ、そういうことか。二眼くんて結構繊細な人間なんだね、知らなかったよ。そうだ、ノートに書いておこう」
呑気に鉛筆を取り出して書き付けるスナップショットに、デジタル二眼レフは嫌そうな顔をした。
「遠まわしな侮辱ですか? それは普通本人の目の前で言うことではないと思うのですが……まあ、嫌がらせなのだとしたら理にかなった方法ではありますね……」
鉛筆を握った体制のままスナップショットは顔をあげた。
「ちょっと待って、違うよ。二眼くん、僕のこと何だと思ってるのさ。ただただ、君のこと何にも知らないんだなあって、そう思ったんだ」
◆◆
数日後、デジタル二眼レフはスナップショットから逃げ回っていた。部屋を物色されると非常に困るので部屋の鍵は殊更に締めることはしなかったが、それが災いしてか予定よりも早く見つかってしまい、今は逃げ込んだ手洗い場の個室に立てこもっている。
「二眼くん、出てきてよー。約束通り新しい瓶だし、君の言うとおりなんか色々調べたし、偶然とはいえ場所もちゃんとセッティングしたんだよー」
「い、嫌です……!」
叩かれる個室の扉を背中で押さえつけながら、スナップショットの計画性の無さに呆れつつ、デジタル二眼レフはこの窮地をどうやって乗り切るかを考えていた。自分がここにいる今、非力なスナップショットが一人で扉を破ることは難しい。デジタル二眼レフが諦めなければ時間は幾らでもあるといえるが、一度決めたら外的要因に妨害されるまで続けるスナップショットが時間経過で諦めるとも思えない。スナップショットの意識を別のものに逸らして、検査自体を延期させるというのが今考えられる中で最も賢いやり方だろう。デジタル二眼レフは算段を立てつつ舌打ちした、どうしてこういうときばかり誰も来ないのか。乱入者の一人でもいれば全てお流れになるだろうに。
静かになった扉の向こうに意識を向ける。扉の近くに気配はないが、自分が油断して出てくるのを離れた場所で待っているのかもしれない。
考えを巡らせていると頭上から破裂音がした。壁から外れた銀色のそれはタンクに跳ね返って落ち、床に当たって乾いた音を立てた。絶望は四角い鉄格子の形をしている。デジタル二眼レフは正しく事態を理解した。そう、考えるだけ無駄だったのだ。
天井近くのダクトから瓶を抱えて落ちてきたスナップショットは、一回転してタンクの上に降り立つ。狭い個室の中迫るスナップショットの魔の手からデジタル二眼レフは逃れられなかった。
「どうしてって顔だね。研究所内にはダクトがあちこちにあるんだけど、たまに避難に使うんだ。ああ、安心してくれ、殺人クローンの太った体ではまず入れない」
「……そうですか」
デジタル二眼レフはセキュリティホールについて考えることで不本意な接触に耐えた。触れる温かな手が、背に感じる体温が妙にくすぐったかった。そうしてデジタル二眼レフは、この先排泄の度に思い出すことになるはずだったその感覚を、スナップショットの出ていった狭い個室の中で流れる水に吐き出して捨てた。
◆◆
「まあ、座りなよ。お茶を淹れるけど君も要るかい」
やかんを片手に、スナップショットは聞いた。デジタル二眼レフは不機嫌そうな表情そのまま、背もたれに腕をかけて椅子に横座りした。頬杖をついて、視線を逸らす。
「要りません。あんなことして、私が心的外傷で不能になったらどうしてくれるんですか」
「……使う機会あるの? 僕これまで生きてきて一度もなかったけど」
名言化された性事情にデジタル二眼レフは殊更に顔をしかめた。しかし、スナップショットが生まれてから何年たったのか正確な年数を把握していないことを思い出して、開きかけた口は再び閉ざされる。数年は誤差の範囲と言える。実際二人目のクローンドクターが目覚めるまで、デジタル二眼レフが抱いたのは人間だったドクターだけだ。そもそもスナップショットはまだ子供だったのではなかろうか。
「ありますよ……使う用事がまだひとつ残っているんですからもう少し大事に扱ってください……あなたには関係のない話かもしれませんが」
スナップショットは左手の茶こしでやかんの茶を濾した。部屋の中の均質な空気を、ふわりと漂う紅茶の香と立ち上った湯気が裂いていく。スナップショットは二つのカップに濃度が均一になるよう茶を注いだが、要らないと言われていたことを思い出してその両方を自分の側に置いた。乳化剤入りの調味用合成乳と甘味料を入れれば、紅い色は不透明な白と混ざってどろりと濁る。
「よくわからないや」
「わからなくて結構」
立ち上る湯気の向こうでデジタル二眼レフは拗ねたように視線を逸らす。
「ええと、なんか怒ってる?」
「いいえ、別段。というか仮に怒っているとして、私にそれを言わせる気ですか……ところでなぜ、片方のカップだけ何も入っていないんです?」
「これが君の分だったからだよ」
「どちらもあなたが飲むのでしょう、なぜわざわざ」
「君の気がいつ変わってもいいようにかなあ、深い意味なんてないよ。ああでもそうだね、折角だし飲むかい」
スナップショットが差し出したカップに、デジタル二眼レフは迷う。迷い、迷った末に、こわごわと手を伸ばし受け取った。
「ええ、頂きます」
「まだ熱いから気を付けてね」
カップを引き寄せたデジタル二眼レフは、取っ手に指をかけ持ち上げた。そっと口を付けて、啜らずにすぐ離したのはどうやら熱かったらしい。
「確かに少し冷ましたほうが良さそうですね……」
唇を舐め、置いたカップを手で扇ぐデジタル二眼レフを見て、スナップショットは首を傾げた。
「優雅だね、いいとこ育ちのお坊ちゃんみたいだ」
スナップショットは息を吹きかけ、不自然に甘いミルクティを啜った。温かな蒸気が顔にかかり、ぬるく頬を湿らせる。
「こうしないと湯気でカバーが曇るんですよ」
「ああ、なるほど……」
◆◆
「そうだ、二眼くん。検査結果、まだ教えてなかったよね」
「ええ……どんな感じでしたか」
「綺麗な体だ。何一つエラーは出なかった」
「それはどうも。気をつけていた甲斐があるというものです」
「血液って一度汚れたらもう元には戻らないんだろ、よくここまで綺麗な数値が出るもんだって感動しちゃったよ」
「そうはいってもあなたの体だって似たようなものでしょう。使い捨てになる前は皆そうやって一つしかない体を大事に使ってきたんですよ。汚しまくった結果、早々に死んで記録に残らなかった人間も大勢いたでしょうが……」
ふと思いついてデジタル二眼レフは顔をあげた。
「しかし今時は人間の尿からそんなことまでわかるんです?」
「いや、わからないよ。さっきのは君の精液の検査結果」
「えっ、ちょっと人のものに何してるんですか」
デジタル二眼レフは動揺し、残りわずかだったカップの中身を机の上にひっくり返した。スナップショットは台拭きを持ってきた。
「落ち着きなよ……僕、ちゃんとくれって言ったしそんな風に言われる筋合いはないと思うけどなあ。それに君だって僕の勝手に解析しただろ、お互い様だ」
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