08(ファッカブル・ファッパビリティ)

検査の記録を見返していたデジタル二眼レフは、同じことの繰り返しばかりの記述のうちに、変わったところがあるのを見つけた。一度だけ蛋白が検出されていたのだ。

「蛋白……」

人体における尿への蛋白の混入は腎臓の濾過が適切になされないことで起こる。慢性的な腎臓炎だけでなく、発熱や急な運動などによる一時的なものも多い。そうして様子を見ると言って随分とたったが、蛋白はそれきり検出されなかった。蛋白尿だと思っていたがもしかしたら違うのかもしれない。そこでふと、デジタル二眼レフは一つの可能性に思い至った。

「スナップショット、少し知りたいことがあります。付き合っていただけますか」

「構わないけど後でいいかな。ちょっとやることがあるんだ」

「ええ。では都合がつき次第、声をかけてください。待っていますから」


◆◆◆


「これは……?」

行為の果てに白色の濁った液体が得られ、当事者のスナップショットは目に見えて惑う。デジタル二眼レフは違和感を覚えた。思えば『スナップショット』がそれを見るのは初めてのことだったのかもしれない。それにしても、と思う。今のスナップショットの姿は青年と言って差支えない年頃に見えた。

「どこからどう見たって精液でしょう。生殖における減数分裂の……スナップショット、本当に覚えていないんですか」

どろどろとしたそれがデジタル二眼レフの指の間でこねまわされて糸を引く。粘液が指を伝って垂れていく様を見ながら、デジタル二眼レフは妙だな、と思った。特有の臭気が全くと言っていいほど感じられない。

「……記憶の欠落は自覚しているよ。僕の記憶はスナップショットへの転身を境にかなりの部分が失われている。それは永続的なものかもしれないし、そうでないかもしれない。二眼くん、今の僕はどこまで僕だ、女神と混ざった僕は一体何割元の僕なんだ。遺伝子情報も一致しない、記憶をなくしたクローンに何の意味がある。教えてくれ、二眼くん」

最後のほうはほとんど叫ぶように言っていた。デジタル二眼レフはいったん考えるのをやめ、スナップショットを見下ろした。湿り気を帯びた暗色の眼球は、不安げな色に揺れていた。

「それは十五の時の私と今の私が同じものかと聞いているようなものでしょう。論ずるまでもなくそれらは同じもので、当然のように違うものです。ずっと同じままでいられないならどうしてスナップショットなんて名前を付けたんですか」

デジタル二眼レフは半ば呆れたように言葉を返した。そうして呆然と己を見上げるスナップショットを見て、指の間で粘つく体液の存在を思い出した。ふと、口に入れたらどうなるのだろうかとの疑問が湧き上がってくるが、スナップショットが変わらず目の前で座り込んでいるので、デジタル二眼レフはその疑問を無かったこととする他なかった。だが。

「……ところでスナップショット。これ解析機に入れても構いませんか、いえ、構いませんね。入れます。問題がある場合は後々文書にしたためていただければその通りにいたしますので」

そのかわりとしてデジタル二眼レフは、指に絡まるそれを問答無用で解析機に突っ込んだ。



「水と蛋白と亜鉛と……やっぱり間違いないですね」

考え込んでしまったスナップショットを置いて、デジタル二眼レフはノートにペンを走らせる。



「……あなたの血液はどんな味がするのでしょうね、スナップショット」

「………うん? 呼んだ?」

デジタル二眼レフの独り言に、ぼんやり意識を漂わせていたスナップショットは緩慢な動作で振り向いた。

「ええ、アナログ顕微鏡はどこにあったでしょうかと聞いたんです……ありましたよね?」

「ん、あるよ。置き場所知らないなら僕が持ってこよう。待っててくれ」

ぱたぱたと駆けていくスナップショットの背中を見送って、デジタル二眼レフは悩んでいた。スナップショットのいない隙に、粘性のなくなってさらさらしてきたそれを舐めるべきか否か。

一般論を言うのならば、舐めるべきであるはずなどない。用途や特性を考えれば自ずとわかることだ。しかし、とデジタル二眼レフの銀の脳は思考する。クローニング技術により個体数は増えることも減ることもほとんどなくなった。人類が皆肉体の乗り換えによって不死を手に入れたために世代が交代しなくなったためだ。世代交代を否定し子を成せなくなった人類に、こんなものはもう必要ないのではないか。限定的な用途のなくなったそれを他の事にどう使おうとも、咎められる謂れはないのではないだろうか。そんなことばかりを考えて時間を過ごしたデジタル二眼レフの見たものは、乾いて使い物にならなくなったそれだった。



「二眼くん、顕微鏡使わないの? せっかく見つけて持ってきたのに」

やや機嫌を損ねたように首を傾げるスナップショットへ、デジタル二眼レフは首を振った。

「ええ、探してもらっている間に乾いてしまいまして。体内で作られるものですのでスナップショットに協力していただければもう一度用意することはできますが……」

「え、どうするの。わかってると思うけど痛いのは普通に嫌だよ」

難色を示すスナップショットに、デジタル二眼レフは怪訝な顔をした。高々精液を採取するだけのことでこんなに及び腰になるものだろうか。理解も共感もできずデジタル二眼レフはわからないという顔をした。睾丸を摘出されるとでも思っているのか。思っているのかもしれない、相手は他の誰でもないスナップショットだ。

「痛くするも何も直腸に指を差し込むだけですが……ただ、一つ心配事といいますか、ちょっと加減がよくわからないんですよ。生きてる人間にやるのはいつ以来だったでしょうか」

指を曲げ伸ばしするデジタル二眼レフに、スナップショットは思わず後ずさった。メスで皮膚を切り裂かれることも、内臓に指を入れられることも、スナップショットにとっては恐れの伴う未知の体験だ。それもブラックボックスである自分の体ならなおのこと。

「知らないよ、知るわけないだろ。悪いんだけどまた今度にしてもらえるかな、すっごく不安だしめちゃくちゃ怖い」

「そうですよね。近いうちになにかしらの代替案を考えておきます」

「よ、よくよく考えてくれよ、二眼くん。痛いのは嫌だからな!」

スナップショットをはじめ、通常生きているクローンは痛みをひどく怖がる。文節の区切りと挙動のおかしくなったスナップショットを見て、デジタル二眼レフは困ったように頬をかいた。


◆◆◆


代替案は数日の間に見つかった。内臓に手を入れずとも、外性器に刺激を与えればいいと気付いたのだ。デジタル二眼レフはスナップショットのもとへ行く前に手を洗い、新しい手袋をしてから、もう一度手を洗った。

「外性器を擦れば普通反応しますよね……特殊な環境下に身を置いていると感覚にずれが生じてどうにもいけません。まあ、あなたにはあまり関係のない話ですが……」

ぼそぼそと喋るデジタル二眼レフに、スナップショットは上げていた顔を降ろした。

「んん……? もうちょっとわかりやすく言ってくれないかな……血圧が上がってるからだと思うけど今耳が鳴ってるんだよね……」

「なんていうんですかね、人を手にかけてると溜まってくるんですよ。わかりますか? いえ、わからなくて結構です。相手が完全に動きを止めて危害を加えられる恐れがなくなったら抱き合わせにして捨てるのがいつものやり方ですが……何か言いたそうですね、スナップショット。排泄に感傷もなにも邪魔なだけでしょう。高ぶった熱を捨てられればそれでいい」

黙り込んでいた体が俄かに痙攣した。デジタル二眼レフはてのひらに零されたそれを皿に移し、汚れた手袋を裏返しに外して縛った。皿の中身を顕微鏡にセットして中を覗く。覗けども覗けども、動くものはついぞ現れなかった。


「あとは、そうですね……あなたのことを考えていると、いえ、これは語弊があります。あなたの、内臓や腸管や最初の体のことを考えていると身体が反応しますね」

結果をノートに書き写したデジタル二眼レフは、つけたり離したりを繰り返す指先が糸を引くのを面白そうに眺めていた。

「反応の内容をもう少し具体的に言ってくれるかな。少なくとも性的な感情をもって興奮してるらしいことしかわからない……あと、指のそれ気になるからやめてほしいかな…………」

デジタル二眼レフはスナップショットの懇願を無視した。指の間で粘液がぐじゅりと音を立てる。

「わかりませんか? 外陰部に血液が流れ込んで膨らんで、垂れ下がっていたままだったものが次第に上を向きます。皮膚の伸びしろは無限ではないので……なんでしたっけ、流れ込んだ血液の量に依存して硬度が増して……さっきやったのでわかるでしょう? 説明が必要ですか?」

「……二眼くん、大丈夫?」

デジタル二眼レフの呼吸は浅く荒く、苦しそうな呼吸音が説明の合間を埋める。デジタル二眼レフは首を振った。

「少し興奮してしまったみたいで……勃起しそうというかこの感じだと多分既にしてますね。これはちょっとまずい感じでしょうか。あまり他人に、これはあなたにもです、見られたくない姿ではありますが……」

「さっきみたいに出せば楽になる?」

スナップショットの問いに、訝しむような声でデジタル二眼レフは聞き返した。

「変なことを聞きますね……そうだと言えば擦ってくれたりするんです?」

「君がそう望むならやらないでもないよ。ああ、でも出たものはくれるかな、君の精液が欲しい」

デジタル二眼レフはむせた。顔を伏せ、肩を震わせながらげほげほと苦しそうに咳をするデジタル二眼レフを見て、スナップショットはやや憮然として首を捻った。何が含まれているのか解析しようとしただけで、笑われるような謂れはない。

「僕、なにか変なこと言ったかな。前にも言った通り君は狭義の人間で、それは生殖に必要なものなんだろ? 僕の言ったことなにか間違ってたかな」

「あ、あっと、ええ……そう、そうですよ。それであっています」

ノイズだらけの答え。笑いを堪えるようにして震えている様子のデジタル二眼レフを軽く睨み、スナップショットはデジタル二眼レフのズボンに手をかけた。隙間から入れようとした手の甲がベルトに引っかかって思うように動かず、そのまま手は固定されてしまった。残った片手でなんとかベルトを外そうと押したり引いたりしていると、ようやく笑いの引いたらしいデジタル二眼レフが口を薄く開き、バックルを外した。ぐい、と締められたベルトに押されたスナップショットの手が腰に食い込み、お互いはを見合わせる。先に動いたのはスナップショットだった。非難がましくデジタル二眼レフを一瞥するとズボンのホックを外し、チャックを下ろして前を寛げた。下着越しに見えた性器のふくらみに、スナップショットは少し迷ってから、薄い布地に手をかけて陰茎が露出する高さまで下着を下げた。ずるりと取り出したそれが立ち上がるのを見て、どうしたらいいのか今ひとつわかっていないスナップショットは口を引き結び、やや困惑気味に目を細めてから、デジタル二眼レフが己にしたようにおそるおそる手を伸ばした。


◆◆◆


息のかかるほどの近くで凝視されることの気恥ずかしさに、デジタル二眼レフは耐えていた。触れるか触れないかの際で、伸ばされては引込められる手に、ひどく焦らされているような気分だった。

こんなことは知らない、こんなことは知らないのだと指一本動かせないまま彼は唯一稼働する視神経で目の前の青い頭を睨んでいた。思い返せばデミ二眼のそれは、返事を返すもののない一方的な蹂躙だ。過去、デミ二眼だった彼の『行為』が相手から邪魔されたことは一度もない。

他者からの施しに慣れないデジタル二眼レフの肉体は、温度の下がることのない湿った息や、赤外線を発する少し汗ばんだ柔らかい手、躊躇いがちに動く目に宿る感情の色に惑う。動いているのかいないのか不明瞭だった心臓は激しく脈打ち、目の前の臓器共々張り裂けてしまいそうだ。

髪が目にかかったような不快感があって、デジタル二眼レフは頭を振った。暗い視界は一向に明るくならず、押し寄せる息苦しさに天井を仰ぎ見たデジタル二眼レフが気付いたのは、体を支配する性的興奮と極度の緊張。

行為によって、体が動かなくなることは今まで一度たりともなかった。無論、目が見えなくなることも。当然と言えば当然だ、抵抗するもののない一方的な蹂躙は自身が動かなければ終わりはしない。デジタル二眼レフはびくりと体を震わせた。強く握りこまれて不随意に動く体が恨めしかった。脳の半分をアタッチメントに置換してこの方、思うようにならないことなんて一度だってなかったのに、こんなことで正常に動作しなくなる体や感情が不快だった。口からは聞くに堪えないノイズが発されていて、塞ごうにも手はジャケットの袖を震えながら掴むばかりで使い物になりそうもない。それなのに。その不快に思う気持ちもろとも、圧倒的な快感が塗りつぶしていく。天井の照明がやけにまぶしい。気持ちが良いと叫んでいるのは脳だろうか、それとも皮膚の下で脈打つ血管? それとも性器そのものか。神経のどこが何を拾っているのかも、もう判別がつかなかった。ただただ、流動性の低い高濃度の快楽が体の中に渦巻いている。


先端がひやりとしたのが現実のものだったのかはわからない。

果てる直前に思い出したのは、いつかのスナップショットとの会話だった。A・A・B。それ以上も、死に際さえ知っているというのに、キスの一つもしていないことに気づいたのは幸か不幸か。


◆◆◆


スナップショットは驚いた。もうこれ以上は膨らまないと思っていたそれが握ったそばからどくりと脈打ち手の中で質量を増す。緩めた手でさするように撫ぜれば、苦しそうに口を開閉するデジタル二眼レフの声帯からは不明瞭なノイズが断続的に発された。目の前のデジタル二眼レフは苦しそうにあえぐだけで、やめろともやれとも言わない。どのタイミングで容器を出せばいいか先に聞いておくべきだったことに気づき、スナップショットは自分の不手際を悔やんだ。

プリカムの滲んだ先端を見たスナップショットは尿道口にシリンダーの口をあてがった。特に何も起こらなかったので手の中のそれを殊更に握った。手に熱が伝わり、それが強く脈打ったのがわかる。

膨張していた可変式の管から得られた体液は、事が無事に終わって安堵していたスナップショットの顔をわずかにしかめさせた。

「酷い匂いだ」

「……前にも言ったでしょう、人間の体液なんてそんなに良いものではないんですよ」

床に寝転がっていたデジタル二眼レフは性器をしまい顕微鏡の皿を掴むと、ふらふらと立ち上がってどこかへ行ってしまった。部屋にはデジタル二眼レフの細胞と困惑したスナップショット、手袋の片方だけが残された。

「えっと……どうしよう、これ」

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