02(水編)
窓の外は今日も晴れ。雲ひとつない空は、地面へ強い日差しを投げていた。助手は相変わらず窓の外を眺めていた。
「ねえねえ、二眼くん。ちょっと聞くけどさ、人間って水がないと死ぬんだっけ」
振り返ればスナップショットが呆然と立ち尽くしていた。助手は怪訝な顔でスナップショットに歩み寄った。
「物騒なことを言いますね。そういうスナップショットはどうなんですか。それより何かあったんですか?」
「水がないんだよ、二眼くん。日照りが続いたせいでプランテーションの奴らが貯水タンクの中身を持っていったらしいんだ」
スナップショットの口調はいつも通りだが、デジタル二眼レフはそこにほんの少しの焦りと苛立ちを感じとった。大規模プランテーションというと、酸素と食料の生産施設だ。確かに水がなければ立ち行かないだろう。それにしても、とデジタル二眼レフは口を開いた。
「返してもらえるよう交渉に行けばいいのでは?」
助手はブラインドを下ろした。日光が遮られ、部屋の温度が急に下がったように感じられる。ブラインドに指をかけ、隙間から外の、プラントのほうを覗き見る。機械の目にかけられたカバーが、光を反射して不透明にちかりと光った。
「出来るならやってるよ、僕はここから出られない」
スナップショットはポケットからIDを出し、ひらひらと振った。スナップショットは管理責任者だ。施設から離れ、おいそれと外へ出ることは叶わないのだろう。助手は自身のIDを取り出した。割り当ては一般職員。
「私は移動を禁止されていません。私が行きましょう」
踏み出そうとする助手を遮り、スナップショットは即座にその申し出を却下した。
「だめだ。君が行って、帰ってくる保証が何一つない。捕まって猟奇趣味の金持ちに売り飛ばされるのがいいとこだ。僕はまだ君を失うわけにはいかない」
猟奇趣味。デジタル二眼レフは不可解な単語について問おうかと逡巡した、だがそれも一瞬だ。今、それはさして問題ではない。スナップショットの記録係は自他ともに認める優秀な人間で、つまりは自分のもとから出ていかれると困ると、そういうことなのだろうとデジタル二眼レフは推測した。雇われの身としてはなんとも名誉なことだ。
「では、どうしますか」
スナップショットは指を立て、くるくると回した。
「飲料水がゼロになったわけじゃない。雨が降れば浄水装置が動く、このまま日照りが続けば湿潤地帯から陸路で水が送られてくる手筈になっている。それまで耐えればいい」
「期間は如何ほど」
「一週間、いや、既に二日経っている。後五日だ。それだけ凌げば後はどうとでもなる」
◆◆◆
水のタンクが持ち去られてから一日半、デジタル二眼レフとスナップショットは椅子に腰かけてノートを開いていた。かちゃかちゃと神経質にペンを弄るデジタル二眼レフのノートには赤色のペンで綴られたジハイドロジェン・モノオキサイド、DHMO、Waterなどのマインドマップめいたレタリング。デジタル二眼レフはペンを弄る手を止めた。
「普段の生活がいかに無駄を削ぎ落としたものなのかわかって嬉しいですよ。削る場所がないというのは普段から無駄遣いをしていないということの証左なのですから」
デジタル二眼レフは表情を動かさない。一度はずして机の上に置いたスクリューキャップを手に取り、反対に回し再びはめこむ。
「新しい発見っていうやつだね。僕も嬉しいよ、二眼くん」
相槌を打つスナップショットも真顔だ。残された水は約半分。このままいくと、三日間一滴の水も口に入らない計算になる。最悪、命を落とすことになるかもしれない。それよりいくらか良くても、生死の境をさまよう羽目になるだろう。
「さして旨くもないマグの中身が、いまさら少し減ったところで何が変わるわけでもなし。二眼くん、正直なところ僕はね、どうとでもなれって思ってるんだよ」
僅かな苛立ちを隠すこともせずスナップショットは言葉をこぼした。旨いほうが良いのは確かだが、酸っぱいコーヒーも気怠い味のラテもあれで存外気に入っていたのだ。
「奇遇ですねスナップショット。私もです」
二人は目を合わせたまま笑わない。デジタル二眼レフはペンをノックする。カチ、カチ、カチとノック音が響いた。
そうして、一日目は過ぎていった。
◆◆◆
「もうコップ一杯分しか無いんですね……」
二日目の夜、机に体を預けて空のグラスを転がしていた助手のもとへ、ガラガラとプラスチックの箱を鳴らしながらスナップショットが嬉しそうに駆け寄った。助手はグラスを弄る手を止め、もわもわと正体不明の煙を出すプラスチックの箱に目を向けた。近づけば、ひんやりとしている。煙の正体は冷気だ。
「氷ですね、とかしますか?」
「ああ、ちがうちがう。コップに水と一緒に入れる。で、これ受け皿ね」
透明なガラスが冷気に白く曇り、見る間に結露して水滴が膨らんでゆく。デジタル二眼レフはそれに嬉しそうな声を上げた。
「さすがですね。ああ、スナップショット、いいことを思いつきました。冬場の窓枠の下にビルドインプランターを設置すれば、鉢植えに水をやったり、日光のあたる場所へ移動させたりする必要はなくなるのではないでしょうか」
「とても良いアイデアだよ二眼くん。名前をデジタル慧眼レフにかえたらどうかな」
「いえいえ、スナップショットにはかないませんよ」
結露して濡れていくコップの前で、熱に浮かされたように二人は笑い声をあげた。傍から見れば知性が残っているかどうかも怪しい会話だったが、スナップショットとデジタル二眼レフは真剣だった。そうして、二日目も過ぎていった。
その晩、デジタル二眼レフは照りつける太陽と砂丘の夢を見た。陽光は眩しく、細かい砂はどこまで行っても続く。どこかで見た景色だ。それがどこだったのかを思い出す前にデジタル二眼レフは目覚め、アタッチメントに保存されないままの夢の景色は、枕に残りやがて消えた。
◆◆◆
「生活用の水道水は飲めませんか」
喉の鳴る音にスナップショットは顔をあげた。仄暗いバスルームで、助手は水の出る蛇口を凝視している。消毒の塩素臭が漂う中、助手とスナップショットは途方に暮れていた。呼吸器の乾燥を防ぐために空調を切って湿度の高いバスルームにいたのだが、もはや双方限界に近い。
「やめといたほうがいいよ。塩素消毒で死ぬ名も知らぬ雑菌達の気持ちがどうしても知りたいって言うんなら止めはしないけど」
スナップショットが応えるが、その声量のほどは普段の半分に満たない。塩素臭が充満するバスルームの中で僅かな光を反射するデジタル二眼レフの目元はオバケめいて明滅して見える。
「……塩素消毒……」
何事か呟いて助手がふらふらとバスルームから出ていく。スナップショットは止めなかった。止める気力もない。飲料水が完全に無くなってから丸一日。生活用水は引かれているのでどこへ行っても水、水、水。それだというのに口に入る水は一滴もない。いい加減頭がどうにかなってしまいそうだった。実際問題、デジタル二眼レフからは脱水に伴う頭痛が訴えられている。せめて水に触れていれば気もまぎれるだろうと思っての采配だが、これなら砂とでも戯れていたほうがいくらかましというものだ。スナップショットは皺の寄った手を見つめた。バスルームや水道管と同じ物になってしまったのかと思わせるような、ひどく塩素臭い手だ。
暫くすると助手がバスルームに戻ってきた。手に抱えているのはやかんだ。スナップショットは視認したものが信じられず、目を擦りもう一度見た。やかんだ。
「ちょっとまって二眼くん、それどうする気?」
「……塩素消毒なら沸かせば飲めるのではと思いまして。衛生基準は満たしているのでしょう?」
スナップショットの困惑をよそに、蛇口にやかんをあてがって助手は水を汲んだ。蓋を閉め、覚束ない足取りでふらふらとまたバスルームから出て行く。言葉通り湯を沸かしに行ったのだろう。
誰もいなくなったバスルームでぼんやりと蛇口から垂れる水滴を眺め、落ちた回数が二桁に達したところでスナップショットは鬱陶しくなって蛇口を閉めた。徐に立ち上がり、湯を沸かすと言った助手の様子を見るためバスルームから出た。調理場には机に突っ伏して伸びている力尽きた助手の姿があった。スナップショットは励ますようにシャツを着た背を撫でた。ふと目をやった襟元から不自然に乾いた首筋が見える。どれほどの時間そうしていただろう、シュウシュウと鳴るやかんの音でスナップショットは我に返った。
「……二眼くん、湯が沸いたよ。飲めるかどうか、少し冷ましてから解析機にかけよう。ね」
力のこもらない肯定が聞こえ、スナップショットはデジタル二眼レフに目を向けた。突っ伏したままの彼がどこか泣いているようにも見えて、スナップショットは瞬きをした。頭部アタッチメントを持つ彼の目はサイバネティクスだと聞いた。涙など出るはずもない。スナップショットは手を伸ばし、冷たい頬に触れてそっと撫ぜた。助手はそれに応えるように曖昧な唸りをあげた。
解析機のリザルトには、水とミネラル、その他、ごく微量のトリハロメタンが表示された。金属、毒物、細菌・ウィルスの類は検出されない。
「大丈夫そうだね……これなら飲んでも死なないはずだ」
デジタル二眼レフは何も言わず、胡乱な唸りを持って肯定の意を表した。スナップショットの隣で、助手は真顔のままディスプレイを見つめていた。コップに半分残ったぬるま湯をスナップショットは指し示したことで、助手はそれを手に取り、意を決したように口へ運ぶ。乾いた唇が割れ、隙間から覗いた口の粘膜がぬらりと光るのを、コップからの水流が押し隠した。
「……ぐぅ……」
「二眼くん?……二眼くん!」
苦しげに呻いたデジタル二眼レフは、俯いて口を押えたまま、コップを差出した。飲めということだろうか。スナップショットはやかんから水を注ぐ。透明の水を一瞥し、躊躇う気持ちを無視して一気に吸い込んだ。途端、不快な味が口の中を蹂躙する。埃の味とでもいうのだろうか、なるほど、沸かした湯特有の臭気があってとんでもなく不味い。スナップショットの味覚は酷く鈍感だ。その愚鈍な舌を持ってしてもこれだけ不味いのだから、鋭敏な生身の舌を持つデジタル二眼レフにはもはや拷問だろう。かける言葉が見つからないままのスナップショットを尻目に、デジタル二眼レフはやかんを掴み、直接口を付けた。鼻をつまみ、口の端からあふれるのも構わず飲み下していく。スナップショットは驚きに目を剥き、むせた。
「ね、ねえ、ちょっとちょっと、二眼くん」
スナップショットの制止も振り切って、旧世代のサイボーグは嚥下を続ける。スナップショットの与り知らぬことではあるが、軋む脳は幻肢痛だ。軽度の脱水に起因する脳の痛み、それが発生した位置にはデジタル二眼レフの脳はない。ぬるく埃っぽい水を、渇きがもたらす鈍痛ごとデジタル二眼レフは飲み込んだ。
軽くなったやかんが床を転がった。デジタル二眼レフが取り落したのだ。その音が止むと、かわりに嗚咽とも唸り声ともつかぬ喘ぎが部屋を満たした。吐き気を堪えるような声が断続的に漏れ出る。
スナップショットは顔を覆い蹲る助手を躊躇いがちに撫ぜた。触れた頬は汗でしっとりと濡れていた。スナップショットはその頬を袖で拭ってやった。
◆◆
スナップショットは助手を部屋に連れて行き、背後から首を絞めることで寝かしつけた。多少暴れるかとも思っていたが、助手はあっさり意識を手放した。本来デジタル二眼レフの部屋には入ってはいけないことになっているが、緊急事態だ。仕方のないことだから許してくれるだろうと心の中で言い訳をする。完全に眠りについたのを確認して部屋を出たスナップショットは解析機の前に戻り、その場に座り込んだ。
スナップショットは項垂れた。デジタル二眼レフは何とか正気を取り戻したが、あの様子では次はないだろう。いや、すでにもう手遅れなのかもしれない。飲料水の供給まではあと二日ある。助手が人間性を手放し、完全に発狂してしまう前にどうにかしなければ。スナップショットは唸った。
◆◆
「水、か」
スナップショットは椅子に腰かけ、白い天井を見上げた。薄暗い室内にブラインドが影を落とし、縞模様を形成していた。ダズル迷彩のような白黒の縞と低い夜の温度はスナップショットに海を想起させた。まるで無人島に漂着したみたいだとスナップショットは夜のしじまの中で考えた。もっとも、事態はそれ以上に悪い。施設の中には果物の生る木や泉、魚やカメなどの動物など、おおよそ飲用に耐えうる水を得る手段は存在しないからだ。身近に感じた終わりの気配と薄ら寒い感触は脊髄を通り全身を撫ぜまわすように広がった。スナップショットは熱っぽい恐れを振り払うように荒くため息をついた。すっと冷えていく脳が、一つの答えを吐き出した。
「ああ、そうか、僕も広義の動物だったっけ」
本当にまずくなったらデータのバックアップをとって、体を助手にやってしまえばいい。スナップショットは頷いた。体液を啜れば二日くらいならきっとなんとかなる。あの助手なら何とかしてくれるだろう、デジタル二眼レフは有能だ。クローニングで作られる体は器であって、中身さえ無事ならどの器に入っていても本質は変わらない。スナップショット目を閉じた。前例があるから大丈夫、そう自分自身へ言い聞かせる。そう、これは二度目だ。
「二眼くんさえ生き残れば、あとはなんとでもなる」
呟いた言葉は自分を鼓舞するための言い訳だったのかもしれない、しかしその真偽がどうであれスナップショットはデジタル二眼レフを手放すつもりはない。それだけは事実だ。死へ向かう痛みをスナップショットは考えた。鎮痛剤は遠い昔に使っていたものの残りが部屋にある。腕を組み、椅子の背もたれに頭を乗せたスナップショットの意識はふとした疑問によって引き戻された。地球でも禁制品だったはずのアルカロイドの鎮痛剤が、なぜ研究所に残っている?
「どういうつもりですか、スナップショット」
急にかけられた声に思考は途中で打ち切られ霧散した。棘の含まれた声に目を開けると、厳しい顔つきの助手がスナップショットを睨みつけていた。スナップショットは目をぱちくりさせた。先ほど寝かしつけたはずのデジタル二眼レフがそこにいた。
「ああ、二眼くん。起きてたんだ。眠れなかったの?」
締め方がたりなかったかな、とスナップショットは考えた。助手はただただ黙ってスナップショットを見つめていた。会話の途切れたまま不満げな視線を送っていた助手が、痺れを切らしたように口を開く。
「それはこちらの台詞です。スナップショット、もうじき夜明けです」
思考のすべてを中断しスナップショットは跳ね起きた。ブラインドの隙間からは夜明けの淡い光が差し込んでいる。先ほどまで部屋を支配していたはずの夜の空気とダズル迷彩は幻のように消え失せ、柔らかな陽光が部屋の壁を薄く彩っていた。
「……ほんとだ、もう夜が明けてたんだ……おはよう、二眼くん」
助手は眉根を寄せ、スナップショットの挨拶を無視した。
「どういうおつもりですか、スナップショット。私にまた貴方の死体を片付けろというのですか。二度目はないと言ったはずです。あなたがなにをどう忘れても、それだけは忘れてもらっては困る」
強い語調でデジタル二眼レフは捲し立てた。ずい、と顔が寄せられ、スナップショットはその剣幕に息を詰めた。
「そうだね、そうだった。しかしどうしろっていうんだ。僕にできることなんか、他にはもう」
糾弾に耐えきれずスナップショットは目を伏せた。睨み合いの体勢から片膝をついてデジタル二眼レフは立ち上がった。
「……人間の血液の味をご存知ですか。貴方の思う以上に、人体を構成する諸々は生臭く、不味いです。それこそ……あなたも飲んだのでしょう、昨日の水道水よりもです。私はあなたを、いえ、死んだ人間の体液を啜ってまで生き延びたいとは思えないのです」
スナップショットは顔をあげ、助手をまじまじと見た。逆光で表情はわからなかった。しかし、助手がスナップショットに生きろと言っているのは明白だ。降参だというようにスナップショットは両手をあげ、息を吐いた。
「そうだね、君がそういうんなら死ぬだけ無駄だ」
スナップショットはあくびをした。助手はそれを見ると、少し安心したように腰を下ろした。
「ああ、スナップショット。眠る前にサンプルをとりましょう。時間には少し早いですが、大幅に遅れるよりは良いでしょうから」
助手は椅子を引いて立ち上がった。スナップショットは頷き、瓶を用意した。
◆◆◆
瓶の中に注がれる液体を見て助手は鼻を鳴らし、わずかに顔を歪めた。
「スナップショット、なにか、混ざっています」
スナップショットはチャックをあげると、瓶をじっと見た。確かに、強い色がついている上、透明度がやや下がっている。スナップショットは採取された光を透かす濃い黄色の液体を、解析機にかけた。
リザルトに表示されたのは、水と尿素、極々微量のアンモニア。
「どこからどうみても完全な尿です。まるで普通の人間のようですね……水を摂取しないことで体の構造が変わったというわけでは無いでしょう。昨日も一昨日も条件は殆ど同じでしたが、これといった変化はありませんでした」
助手はペンを握り、解析機のディスプレイを書き写している。大量のジハイドロジェン・モノオキサイドに混ざるウレアの文字。書き慣れない文字が歪み、助手は手に持ったままのペンをカチカチと神経質にノックした。
「そうだね。君から見て、何か変わったことはあった?」
スナップショットはあくびをした。それを見た助手は手を止めて少し考え、口を開いた。
「睡眠、眠ることがなにか関係しているのではないでしょうか。普段と比べて口の中が乾いています。一睡もしていないのでしょう、スナップショット」
スナップショットは頷いて肯定を示し、椅子に腰かけた。段々と重くなる瞼を、目をぱちぱちさせてどうにか誤魔化す。
「ふむ、確かに一理ある」
「寝室に入る許可をくだされば、今夜にでも確認しますが」
助手は瓶を手に取って残った物を捨てた。蛇口をひねり水道水でじゃぶじゃぶと満遍なく洗う。
「それはまた後日に。ああ、そうだ、二眼くん。保管庫の中身の変質がないか見よう。前に見たとき、確か全部は終わらなかっただろ」
スナップショットはふらふらとした足取りで保管庫へ向かった。助手は、スナップショットの後を慌てて追いかけた。
◆◆◆
「スナップショット。少し考えていたのですが、話しても?」
両手に持ったシリンダーを見つめ、助手が口を開く。スナップショットは振り返らず返事をした。
「なに?」
デジタル二眼レフは口を開き、何かを言おうとして、言葉を探すように、ああ、ともううん、ともつかない意味のない音をだした。デジタル二眼レフが驚愕や動揺の表現以外で言いよどむのは珍しい。スナップショットは助手の言葉を待った。
「ええと、これ、飲料に転用できませんかね」
スナップショットは驚き、振り向いて助手を見る。先ほどまでの眠気は嘘のようにどこかへ飛んで行ってしまった。普段通り解析機にシリンダーの中身を流す助手に、妙な部分は見受けられなかった。スナップショットは、当然シリンダーの中身が何かを知っている。無論、採取を手伝う目の前のデジタル二眼レフが中身を知らないわけはない。スナップショットは助手の真意を測りかねた。訝しげに首を傾げたスナップショットに、なんにせよ理由は聞かれると思っていたのだろう助手は視線を泳がせながら説明を始めた。
「サンプルの管理はスナップショットの管轄です。助手である私が許可なく自由に動かすのは、決して望ましいことではないでしょう。いえ、立場を考えればこんなことを提案するのもおこがましいとは、ええと、思っていないと言ったら嘘になりますが……そういうわけで、スナップショット、許可をいただけますか」
スナップショットは、飲むことに対する忌避感が感じられない事を問いただすつもりだった。ふざけているわけではないとはわかっていたが、渇きでおかしくなっているだけだろうとも思っていた。しかし助手は本気で言っているようだ。この間言っていたこともどうやら冗談ではなかったらしい。スナップショットは口をつぐんだ。
今、助手の口から出たのは研究所としての体裁の話だ。許可するとしても、もっともらしい理由が欲しい。脱水症状で死にかけていたなどというのでは、尊厳も体裁も何もあったものではない。研究機関において、禁断症状に耐えきられず化学物質を持ち出すのは重罪だ。スナップショットは助手に問い返した。
「理由はどうする。何をするにもそれらしい言い訳が必要だろう。君なら思いつくかい、デジタル二眼レフ」
デジタル二眼レフは、しばし考え、先ほどとは打って変わってはっきりと言った。
「個体『スナップショット』から得られる体液の安全性及び人体に与える影響の調査、でいかがでしょう」
「身を挺した文字通りの人体実験ってわけだ。でも、悪くないよ、二眼くん」
人間として振る舞っているスナップショットの思考をデジタル二眼レフは容易に飛び超えていってしまう。それはきっと人間であることの事実が何をしても揺らがないという自信の表れに違いない。そこでふと、彼はありもので何とかしようとしているだけで、実のところ何も考えていないのかもしれないという可能性に思い至ってスナップショットは強く納得し、同時になんだか面白くなって少し笑った。
◆◆◆
「いいかい、口に入れる前に解析機にかけることと、一度必ず沸かすこと。解析機の結果はもちろん、何か些細な変化でも書き記しておくこと。二眼くんなら言わなくてもわかってるとは思うけど一応ね。頼むよ」
スナップショットは新しいノートを実験室の机に置き、解析機を視線で示した。
「ええ、わかっています、スナップショット」
デジタル二眼レフは頷きながらアタッチメントにケーブルを繋ぎ、データを同期した。
「じゃあ、僕はしばらく寝るから」
スナップショットはあくびをすると、寝室に入っていった。ドアが音を立てて閉まる。デジタル二眼レフはそれを見送ると、シリンダーを取り出し迷わず中身を呷った。生水だ。菌が繁殖していないことは解析機に通して既に確認済み。スナップショットとの約束を破る形になるが、今を逃せばこれを飲む機会は永遠に失われるだろうと思われた。一度きりのチャンスをみすみす逃すほど、彼もできた人間ではない。
水を口に含んだデジタル二眼レフは少なからず動揺した。何も含まれていない原始のぬるい水からはあまい味が感じられたからだ。デジタル二眼レフにはその味に覚えがあった。胸中を激しく、焼けつくような情動が満たす。
焼けつく情動を呼ぶのは生きていたころの地球の水の味。まだ地球が水の惑星と呼ばれ、海が万物の源であった時代。帰ることの叶わぬ人類の故郷。デジタル二眼レフの中に潜む古い地球の懐古主義は、高揚感と故郷への憧憬や渇きの不快感をないまぜにしたものをそのうちに孕んだ。苛烈な情動が喉の奥からせりあがって、口から叫びとして吐き出されそうになるのをデジタル二眼レフはうずくまって耐え、憂いも嘆きも後悔も、水と一緒に飲み下した。
◆◆◆◆◆
目を覚ましたスナップショットが聞いたのは、さざめきの様な音だった。スナップショットは部屋を出て窓の外を見た。鈍色の雲、煙る視界。地面に突き立ち消える水の矢。火星に雨が降っていた。
スナップショットは安堵の息を吐いた。これでデジタル二眼レフが死ぬことはないだろう。雨は一向に止む気配はなく、ひんやりとした空気は湿気を帯びている。
「おはよう、二眼くん。いい天気だ」
薄暗い部屋の中、デジタル二眼レフは窓辺に座って外を見ていた。窓を叩く雨音は強さを段々と増していく。
「ええ。そうですね、スナップショット」
「これでやっと人間らしい生活ができると思うと涙が出そうだよ」
おどけて目元を拭う真似をして見せるスナップショットに、デジタル二眼レフは失笑した。
「そうはいってもスナップショットは狭義の人間ではないのでしょう?」
一瞬助手が何を言ったのかわからずきょとんとしたスナップショットは、理解すると同時にふきだした。
「それなんだよね」
スナップショットはけらけらと笑い、デジタル二眼レフを肘で小突いた。
「……ところでさ、雨が降るのを空が泣いてるって言い換えるのは特殊な用法じゃなかったよね?」
「ええ。詩的な表現だとは思いますが、さして特異な言い回しではないかと」
そっかあ、と呟き、スナップショットは窓の外を見て、思い出したように言った。
「……サカサテルテルボーズ作ればよかったね」
「カサ……?」
「逆さテルテル坊主、窓辺に吊って雨を降らせるんだ。知らないかな、旧世代のオマジナイだよ。こういうやつ」
冷たい窓ガラスにスナップショットの指が描いたそれは、開いたまま吊るされた傘に似ていた。
「パゴダ……」
デジタル二眼レフは殴られた。
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