コピー・モデル
佳原雪
01(イントロダクション)
火星の天気は今日も晴れ。微弱な風が吹き、空の高い所では時折雲が千切れる。明るい空と太陽光線。昨日と何ら変わりないこの眺めは、平和だったころの地球とよく似ている。
ここは火星水質研究所。太陽の照らすこの星に水質汚染を監視する施設はたくさんあるが、質を向上させるための研究施設はここだけだ。施設の窓から眼下に広がる景色を眺めて、男は後頭部から伸びたケーブルを弄った。指がケーブルを引くたび金色の短髪がわさわさと揺れる。
彼の名はデジタル二眼レフ、またの名前をデミ二眼という。頭蓋の半分と脳の一部は機械に置換されていて、頭部には特徴的な見た目のアタッチメント『デジタル二眼レフカメラ』を搭載している。彼は旧世代のサイボーグだ。
この時代、鉄の四肢、機械の体を持つ人間は決して多くない。劣化なしのクローニングと記憶のバックアップが可能になり、肉体とは修繕せずに次々乗り換えていくものになった。脳と外付け記憶のハイブリッド、クローニング黎明期の技術はとうに時代遅れになって、今となってはそれがなんであるかを知っている人間は少数派。皆に忘れられ、古代遺物との誹りを受けることももはやない。そんなクローニング全盛期、デジタル二眼レフがサイボーグで居続けたのは、頭部アタッチメントを扱える人間が他にいなかったことと、生身の体を宛がわれることによるアタッチメントの喪失を彼自身が拒んだためだ。
◆◆◆◆◆
「おーい、二眼くん。検査の時間だよ。手伝って」
スナップショットはデジタル二眼レフを呼んだ。スナップショット、青い髪の彼はドクターによるクローニングの成果物だ。ドクターは新しく製造した人体にある時点での自身の記憶を移し替えた。そうして空っぽの体は、スナップショットになった。
デジタル二眼レフはドクターが肉体を乗り変えるより以前に雇われた研究所の助手兼記録係だった。真面目なデジタル二眼レフはドクターに気に入られ、彼がスナップショットとなった今も、研究所でこうして記録を取っている。
「聞こえてるかい二眼くん。時間だってば」
安物のノートを丸めたスナップショットは助手の体を、幾らか低い位置からぽこぽこ叩いた。鈍い暗色の目がデジタル二眼レフのカバーに覆われた素顔を映し、デジタル二眼レフは口元だけで笑って見せる。
「ええ、スナップショット。ただいま」
デジタル二眼レフは頭部アタッチメントを被り、ケーブルを繋いだ。縦に二つ並んだ大きなレンズが部屋を鮮明に映す。ケーブルの接触を確認して彼は先に行ったスナップショットを追った。
白い実験室の中。採取された液状サンプルの半分は保管庫へ、もう半分は解析機へ入れられる。検査結果はいつも通りで、ディスプレイには水を表す文字列が表示されていた。始まりがどこで、いつまで続くとも知れぬ、ページを埋める同一の文字達。助手はさしたる感慨もなくジハイドロジェン・モノオキサイドと今日もペンを走らせる。
◆◆◆
検査は終わり、スナップショットは椅子に身を預けた。机上のマグを手に取り、半分だけになった中身を助手に掲げて見せる。
「無秩序を秩序へ、拡散したものをあるべき姿へ。僕の体は増大したエントロピーを元へもどすことができる」
半透明暗色の黒は、蛍光灯の光を反射し不透明に白く光った。スナップショットはマグを手元に戻した。陰になったことで、分かたれた二色は決して混ざり合うことなく元のどろりとした暗色へと戻る。
スナップショットは助手の返事を待った。視線を受け、助手は少し呆れたようにスナップショットの持つマグを指差した。
「そうですね、では、その手の中のものを温めることはできますか」
質問などではない、答えが知れている物事を確認するように助手は言葉を発した。スナップショットはマグから片手を離し、露出した助手の頬にぺたりと触れた。助手の歯の隙間から悲鳴じみた呼吸音が漏れた。
「もとがアイスだからどうにもできない」
「……ええ、そう言うと思っていました。この話をするのが何度目か、スナップショットは覚えていますか」
氷のように冷たいスナップショットの手を、助手は頬からゆっくり剥がした。冷えて強張ったスナップショットの手は助手の指先によってそっと机に降ろされた。
「さあ、覚えてないね。僕らがその絵を見た回数と大体一緒だと思うよ」
投げやりに壁の絵を示し、スナップショットはコールタールのようなコーヒーを一口すすった。壁には古い時代の肖像画がかかっている。デジタル二眼レフはその絵に目をやった。四角い絵画の枠の中でその人間は豊かな赤毛の長髪を三つ編みにし、暗い色の目をこちらへ向けている。
スナップショットの体は原初の神を模して作られている。原初の神とは、神話時代の地球に存在した水を司る女神だ。赤毛の女性は神話を紐解き、神の奇蹟を人間が扱える事象へと零落せしめた科学世紀の功労者だと伝えられていた。彼女の研究は世界中に拡散し、今も分析・再構築され、人々の役に立っていることだろう。
「彼女の功績がなければ、我々はここにはいなかったかもしれませんね」
「そうだね。少なくとも僕はそうだ」
スナップショットは目を閉じ何度も頷いた。赤毛の科学者、アッシュの手記がなければ今の体が作られることはなかっただろう。女神の奇跡。スナップショットの存在は、彼女の遺した理論によって支えられている。
「そう思うと彼女の見たカミサマってなんだったんだろうね。無尽蔵のエネルギーと水源……エネルギー問題ってそのころからあったのかな」
楽園に女神が存在する限り、綺麗な水とエネルギー源が保証される。女神の祀られていた水の国ではそうしてもたらされる奇跡を享受し、民は女神を守り続けた。伝承にはそうあるのだが、不可解な点も多い。今世紀に入っても膨大なエネルギーの出所は不明なままだ。
「そうですね……ええと、無尽蔵、ですか。それは自然の法に反していませんか」
アタッチメントの黒い光彩に似た絞りが大きなレンズの奥で、瞬きするようにカシャカシャと音を立てた。
「だから奇跡って呼ばれるんだよ。二眼くん」
スナップショットはコーヒーをすすった。どろりとした舌触りとともに暴力的な苦みと僅かな酸味が口の中に広がった。
「……しかし君の作ったコーヒーは苦いね。身体を変えたから舌が子供に戻ってしまったのかもしれない」
スナップショットは足を組み、口の周りを舐めた。唇の上に薄く紅を引いたような跡が残ったのを、スナップショットは手の甲で拭った。助手はおうむ返しに、コーヒー、と呟いた。
「もしかして、冷蔵庫のボトルの中身のことですか? だとすると、希釈してないアイスコーヒーの原液になりますが」
「ああ、道理で」
さしたる感慨もなくスナップショットは残り少ないマグの中身を喉の奥へと流し込んだ。どぷりと流れる液体は冷たく苦い。コールタールのようなコーヒーを飲み下し、スナップショットはマグを置いた。
◆◆◆
水質調査用の解析機は巨大だ。その大きさゆえ解析機の大半は壁に埋め込まれ、人間の触るディスプレイや投入口だけが部屋の隅に設置される。デジタル二眼レフは壁にもたれて、光るディスプレイと検査の行く末を眺めていた。
スナップショットが投入口に瓶の中身を開けると、ディスプレイにはあいもかわらず水を表す文字列が表示された。リザルトに成分の詳細が表示されているが、不純物は無視できる量といえる。
「徹底的に水だね。雑菌も毒物も検出されない」
感慨深そうに言ったスナップショットに助手も同意する。
「飲料水にしても問題ないレベルですね」
「概ね同感だよ。むしろ純度だけでいけばこっちのほうが高い」
二人は画面をしげしげと見つめた。助手が思い出したようにノートに結果を書きつけた。空になったラッパ型の瓶を、洗うのとこのまま乾かすのとどちらがいいのか、蛇口に手をかけたままスナップショットは考えていた。
「いかがされました」
ぼんやりしているように見えるスナップショットの顔をデジタル二眼レフは覗き込んだ。真面目な助手にこんなことを言ったらなんて言うだろうとスナップショットは考えた。怒られてしまうだろうか。スナップショットは心配そうに覗く助手へ軽く首を振って、握った蛇口をひねった。塩素消毒のつんとした匂いが鼻をつく。
「いいや、なんでもない。少し塩素が目に染みただけだ」
スナップショットは結局その瓶を洗うことにした。瓶の外側は触っている上、いくら菌がいないといってもなんの問題もないとは言い切れない。消毒できないぶん真水は不衛生だ。そう、真水は不衛生だ。菌を殺さない万物の溶媒は、その中に重篤な死の要因を孕み、数多の生き物を殺す。それは小さな死を積み重ねて人工的な綺麗を作る消毒液よりもはるかに。
「二眼くん、保管庫の水も変化がないか見ておこう。手伝ってくれるかい」
発された言葉に、助手はノートを持ったまま二度カシャカシャと瞬きをした。保管庫にはたくさんの水が保管されている。助手にはスナップショットの気紛れがどこから来たものかは知る由もないが、それでも手伝ってくれと言ったわけは理解できる。ボトリングされた水を一つずつ検査していくのはとても面倒な作業だ。いつまで待っても返事が聞こえないのでスナップショットが顔をあげると、助手は答えあぐねていたようで口元に手をやって考えるような仕草をした。気が進まないだろうとはスナップショットも思ったことだ。ややあって、腹を決めたのであろう助手はスナップショットのほうを向き、黒い光彩で思わせぶりに微笑んだ。
「ええ、マイマスター。手伝いますよ、私はあなたの助手なのですから。さあ行きましょう、スナップショット」
スナップショットは保管庫へ向かってわざとらしく歩き出した助手をじっと見た。助手も貼り付けた笑顔のまま振り返り、スナップショットに微笑みを寄越した。スナップショットは理解し、思わず笑いそうになる。これはちょっとした嫌味だ。ここで掴みかかって怒鳴りつけるような真似をすることもできるが、それはスナップショットの役目ではない。助手は自分の言ったちょっとした洒落にオチが付くのを待っている。スナップショットはわざとらしく咳払いをしてから口をとがらせ、少しむっとしたような声を作った。
「僕はドクターなんだけどね」
望まれた答えは、かりそめの微笑を本物の笑い声に変えた。
「ええ、ええ、その通りです、スナップショット」
助手は口元を押えて嬉しそうにくすくす笑っている。スナップショットはにっと笑ってぱたぱたと駆けだし、先を行く助手の背中を、追い抜きざまに掌で叩いた。
「さ、二眼くん、行こうか。早くやって適当なところで切り上げるんだ」
「ええ、ええ、そうですね、スナップショット」
助手も博士を追いかけて走り出す。和やかな雰囲気のまま、二人は競うように廊下を駆けて行った。
◆◆◆
「そういえば、君はよく窓の外を眺めているけど、何を見ているんだい」
柔らかな陽の射し込む窓辺で、助手はアタッチメントともに何をするでもなく外を見ている。やることがないのだろう、手持ち無沙汰なのはスナップショットも同じだ。だから、研究所の最高管理責任者は大した用もなく自身の助手へと言葉を投げかけた。
答えを待ちながら椅子に腰かけたスナップショットはぬるい泥水のようなカフェラテをすする。誰かが歩いた水たまりのような薄い土色のカフェラテはさして良い味がするわけでもなく、まさしく泥水というのにふさわしい。視界の端で助手が振り向いた。スナップショットが目を向けると、逆光になったシルエットの端で金の髪が陽光を透かしてきらきらと光っていた。スナップショットはいつか見た日食を思い出した。しかしそれがいつ見たものなのか、スナップショットには思いだせなかった。
「特に何を、ということはないのですが、強いて言うなら空でしょうか」
デジタル二眼レフはガラス窓にもたれて火星の空を仰ぎ見た。視線を追って見た窓の外は晴れ渡って青く澄んでいる。良い天気だった。
「ほう、空を。またどうして」
理由まで問われるとは思っていなかったのか、デジタル二眼レフは口篭もり、ええと、と言って考えるようなそぶりを見せた。
「地球と、あまり変わらないなあ、と思いまして」
しばらく間を開けて、ようやく出された助手の答えは簡単なものだった。スナップショットは目をぱちぱちさせて、納得したようにゆっくりと頷く。連動してカフェラテの水面がどろんと揺れ、スナップショットはこぼれないよう口をつけた。
「そうだった、そうだった。君は地球生まれの人間だったね。火星の気候にはもう慣れたかい」
何度も頷き、スナップショットはテーブルに肘をついた。デジタル二眼レフはそんなスナップショットを怪訝な顔で見た。スナップショットの質問は全くもって今更だ。人類が火星に移住して既にどれほどたっただろうか。
「先ほども言った通り地球とあまり変わりありませんね。月にいたころは重力が、いえ、待ってくださいスナップショット。あなたも地球生まれなのではなかったでしょうか」
助手は首を捻り、手に持ったアタッチメントに目を落とし、頭に載せた。話すたびに動く口元がカバーがかかった目元ともどもアタッチメントのなかの闇へと消える。
「ああ、僕自身はそうだ。精神と記憶は引き継がれる。ただ、体は違う。この体は火星生まれだ……あれ、月だっけ? 地球ではないよ。それは確かだ」
「ええと、どうでしたっけ。月ではなかったような気がしますが……」
ハイブリッドの記憶領域を参照しても容易に思い出せないのか、腕を組むデジタル二眼レフ。その後頭部から垂れ下がる見慣れたはずのケーブルを、スナップショットはなぜか異質なもののように感じた。地球にいたころからデジタル二眼レフはデジタル二眼レフだったというのに。そう、デジタル二眼レフは地球生まれの人間だ。
「地球、今どうなってるんだろうね」
「地球ですか?」
途端にデジタル二眼レフの発する声に嫌悪の色と微小なノイズが混じった。助手の表情は見えないが、アタッチメントの下では口元が不機嫌に歪められていることだろう。デジタル二眼レフはいつもこうだ、見える見えないを問わず口に表情が出る。
「自浄作用が機能しなくなってから我々は一切関与していません。ですから、人工物の劣化を除けば月に移住した時以上に悪くなることはないでしょう。どちらにしろ、もう人が住める環境ではなくなっているでしょうが」
ケーブルをはみ出させたまま、サイボーグの助手は吐き捨てるように言った。気色ばむ助手の様子に、スナップショットは尋ねたことが失敗だったかどうかを考えた。おそらくは失敗だったのだろう。どう軽く見ても助手は苛立っている。そのうえスナップショットは地球がどうなったかをほとんど覚えておらず、助手の怒りが何に起因するものなのかさえ見当もつかない。このまま話を続けるのは悪手だ。そう判断したスナップショットは別の話題を助手へ振ることにした。
「そっか。二眼くんはさ、蓮の花って見たことある?」
少し面食らったようにデジタル二眼レフはスナップショットを見た。スナップショットにガーデニングの趣味はない。食べられるものならともかく、まさか火星にきて花の話題が出るとは思いもしなかったのだろう。アタッチメントの側面に手をあて、考えているような仕草をとる。
「ええ。薄桃色と白のグラデーションに赤みが差した花でしたね。……あってますよね?」
スナップショットは適当に頷いた。ハスかレンゲかスナップショットには区別がつかなかったが、どちらにしてもさして間違ってはいないし、間違っていたとしても訂正する術をスナップショットは持たない。
「そうだ。それで、蓮は泥の上に咲く。どんなに汚い場所でも蓮が汚れることはない。むしろ、泥が汚れていればいるほどきれいな花が付くといわれているくらいだ」
スナップショットはマグを目の高さまで持ち上げた。しかし、泡だらけのカフェラテは何も映さない。ただただ不透明にくすんだヘイゼルに濁るだけだ。顔をあげると、デジタル二眼レフが小さく笑っていた。
「それは、いえ……桜の木みたいですね。どうぞ続けてください」
たくさんの死の上に咲いた花は、その実情を別としてさぞかし尊ばれることだろう。スナップショットはカフェラテをすすった。
「地球に戻ったら、一面の蓮で埋め尽くされてるっていうのはどうだろう。勿論、本物の……きっときれいだよ」
助手は黒いレンズの目で、虚をつかれたようにスナップショットを見た。
「ええと、それは、喜んでいいことなのでしょうか。いえ、けして悪いというわけではないのですが」
スナップショットは首を傾げ、もとに戻した。確かにこれでは地球が泥だらけと言っているようなものだ。故郷がそれでは、手放しでは喜べないだろう。
「ああ、そうだね。これは失礼した」
助手の視線に気がついて、スナップショットは残り少なくなったカフェラテを差し出した。
「二眼くんも飲む?」
デジタル二眼レフは手の平をスナップショットに向け、ひらひらと振った。
「いえ、泥水に例えられたものを飲むのは、その、あまり気が進みませんので……」
「あ、気づいてたんだ。良い目をしているね」
半笑いの助手を尻目に、スナップショットはマグを空けた。甘ったるい眠りのような泥水は、喉の奥へ消えていった。
◆◆◆◆◆
「む」
解析機の前でスナップショットが唸ったのを、デジタル二眼レフは見咎めた。
「どうかされましたか」
「ああ二眼くん、これを見てくれ。どうにも様子がおかしいんだ、水に別のものが混ざっている」
スナップショットは解析機のディスプレイを指した。デジタル二眼レフがリザルトを確認すると、項目の中にごく微量の蛋白質が含まれていた。こんなことは初めてだ。
「本当ですねえ。蛋白ですと腎臓を悪くしたのではないでしょうか。スナップショットはこう、若くして内臓疾患が出る家系だったりしたのですか」
スナップショットは即座に否定した。
「違うよ! 二眼くんってば嫌なこと言うね、これでも人間だったころは健康そのものだったんだよ。でも、なんだろう。浄化がうまくいってないのかなあ」
スナップショットは解析機に手をかける。量が少ないためかリザルトにはそれ以上の情報が表示されない。スナップショットはディスプレイを覗き込み、不機嫌に目を細めた。
「原因がわからないことには対処のしようがありませんね。しばらくは様子見でしょう」
「そうだね。うーん、困ったなあ。作り直しは流石に勘弁願いたい」
助手は黙ったまま、口元に手をあて不安そうに表情を歪めた。
◆◆◆
スナップショットは椅子を引き、無造作に座った。手で示し、助手にも座るよう促す。助手は椅子に浅く腰かけ、机に外したアタッチメントを乗せた。
「そもそも浄化ってはいうけど、何が引き金で起きるのかわかってないんだ、どの器官がかかわっているのかさえ解明されてない。ためしに開いてみてもいいけど戻せなかったら大変だからねえ」
スナップショットは腹の上、かみあった務歯をなぞり上げた。切開手術を示唆するそれに、助手は身震いした。
「……やめてくださいよ」
浄化。一言で説明するなら、泥の混ざった水を真水に戻す働きだ。今のところはスナップショットの体内に入ったものにしか影響を及ぼしていないが、女神にまつわる諸々の話が本当ならば作用はもっと広範囲にわたるはずだ。専門家のスナップショットにわからないことが、知識の面で劣る助手のデジタル二眼レフにわかるわけもない。助手は首を横に振った。
「そのあたりはアッシュの手記にも書いていませんでしたね」
アッシュというのは女神のもたらす奇跡を解明した科学者の通称だ。灰を意味する名前をはじめ、その人物像には謎が多い。
「何も入っていない綺麗な水っていうのがもともと奇跡の産物で、クローニングも難しいんだ。元の体がどんな特性を持っているかわからないこともある」
様々な性質を掛け合わせてより安全で、より高性能な肉体を作ること。それがクローニングの目的だ。試験管ベビーなどと呼ばれ忌避されたのも遠い過去の話。新しく生まれてくる調整された子供達はほぼすべてが自我を消し去られ、意識を上書きされる。記憶の引継ぎが可能になった現代では生まれてくる肉体はもはや器でしかない。
「アッシュのクローンはうまくいかなかったみたいなんだよね。なんでも細胞が分裂しないとかで。いろいろと混ぜ物をしたけどだめだったみたいだ」
「採取した細胞がすでに壊れてたのでしょうか。そういえばスナップショット、混ぜ物と言いましたが、どういったものなんですか?」
「元の体に足りない部分があったときにはその部分にほかのものを繋ぎとして足すんだ。ああ、えっと、そう、今の僕……『スナップショット』の身体は僕と女神のものだよ。まあ、女神が混ざってるって言っても、与えられた情報が嘘でなければ……つまり、渡された肉体の一部が本当に女神のものなら、ってことだけど」
助手は驚いた顔をした。助手の顔の可動部はカバーに覆われていない口元だけだが、声や仕草から驚愕は伝わってくる。
「神に肉体が存在したんですか?」
「うん。疑問はもっともだけど、それでも残っていたらしいんだ。髪の毛だったかな。培養して全身作ったらしいけど、異形の怪物ではなかったみたいだよ。ああ、でも、すくなくとも人間でもなかったはずだ」
スナップショットは手の平で胸を押さえ、自分の体を示した。ただの人間ではありえない特性を兼ね備えた肉体は、スナップショット本来の物ではない。
「そうですね……なんにせよ、いずれわかる時が来るでしょう。ええ、私はスナップショットなら解明してくれると信じていますよ。なにせ時間はたっぷりとあるのですから。そうでしょう、スナップショット」
サイボーグは生身の口でスナップショットに笑いかけた。スナップショットは面食らったように目を瞬かせた。
「あ、それは僕がやるんだ……なるほど参考になるよ」
スナップショットは神妙な顔で頷いた。
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