第14話 超レンズ

 ひとことで言えば、回復の途中にある町であった。約五年前、そこで震災が起きた。直下型と呼ばれるものだった。事前に予測されたものだったので、人的被害は少なかったが、震度七強をも越える激しい揺れは、周囲の山々を大きく崩し、美しい水をたたえていた湖がほぼ失われた。電力、水道、通信ネットワーク、交通などのインフラはすべて壊滅的な被害を受けた。建物の被害も甚大で、余震もしばらく続いたので、多くの人が町を去った。

 しかし、震災で各地に散った人々が、今、ようやく戻りつつあった。各地で復興が進んでいた。丈夫な建物が建てられ、道路にリニアモーターを埋設する工事も進んでいた。

 それが、トモの母であるあずさの故郷、長野県上諏訪の町だった。

 ――震災より昔、記憶も定かでない幼い頃に行った時以来だ。どうして今になって、お父さんはそこに自分を連れて行こうと思ったのか。恐らくお母さんと関係するのだろう……。

 まだ電化すら進まない路線を走る列車の窓から、復興が進む町の様子を眺めながら、トモは母のことをずっと考えていた。

 上諏訪駅に着くと、そこには笑顔をたたえた白髪混じりの夫婦と、一人の少女がベンチに座って待っていた。トモの姿に気づいた少女がすっくと立ち、駆け寄ってきた。

「お兄ちゃーん!」

 従妹の美貴だった。祖父母や叔父夫婦に連れられ、時々、四日市のトモの家に遊びに行くことがある。一人っ子の美貴にとって、トモはたった一人の兄とも言えた。

美貴みきちゃん久しぶり。元気だった?」

「うん! お兄ちゃん、かっこよくなったね」

「そりゃどうも……。美貴ちゃんもますます可愛くなったね」

 小学三年生の美貴は大いに照れた。

 続いて老夫婦が声をかけた。

「おお、トモ。元気だったか?」「まあまあ、こんなに大きくなって……」

 その嬉しそうな表情に、トモも顔がほころんだ。

「おじいちゃん、おばあちゃん、お久しぶりです」

《生駒レンズ工業》と書かれた業務用ワゴンに乗り、五人は家へ向かった。

 車が走り出すと、助手席に座った和人が訊ねた。

「工場の方はどうですか?」

「ようやく借金が全部返せそうだよ」ハンドルを切りながら、祖父の生駒篤志は笑った。

「ここへ来るのは震災以降は初めてだったね。今は余震もほとんどないし、復興の方も順調に進んでいるし、ちょうど良い時に来たね。うちの店も工場も、息子夫婦のおかげでようやく軌道に乗り始めた。おかげで俺も落ち着いて研究に打ちこめるよ」

「研究? 面白そう。どんなものなの?」

 後部座席のトモは、そういう言葉には興味津々だ。

「ああ、後で見せてあげよう。今、ちょっと面白いレンズと投影機を開発中でな。まあ、今のところ、企業とかの感触はいまいちなんだが、ヴァーチもようやく一般に普及し始めてきたし、このレンズは、ヴァーチへの応用とかにも、結構使えると思うんだよ」

「ヴァーチ? そういえば、僕の友達にヴァーチにとても興味を持ってる子がいるんだよ。渉君って言うんだけど」

「ほお、それは是非紹介してもらいたいな」

「それに、異星言語科学研究所ではヴァーチを使うそうだよ」

 そのトモの言葉に、白髪混じりの祖父はひどく驚いた。

「何だと、異星言語研究所? もしかして、今回来たのはその研究所と関係するのか?」

「えっと、それは僕にはちょっと分からないけど……」

 返答に困ったトモの代わりに和人が言った。

「まあ、確かに関係がなくもないですが……実は、雅臣さんに用があって……」

「雅臣に?」

 生駒いこま雅臣まさおみ、あずさの弟である。


   ◆


 そこは、奥に工場を構えた小さな店舗だった。ショウウインドウに、生駒レンズ工業ショウルームと書かれている。中には遠眼鏡(望遠鏡)や、双眼鏡、カメラや携帯、子供向けの光学玩具、それに、その店の代表商品である眼鏡などが並んでいる。

 店内には、一人花柄のワンピースを着た娘が座っていた。女性が「どうぞ」と言って、アイスコーヒーをテーブルに置くと、娘はグラスにクリームを注ぎながら、無表情のまま、抑揚のない喋り方で言った。

「わあ、氷とコーヒー、そしてクリームの織りなすカオスが実に美しいわ。しかも、今ここの先端ではスーパーエミッティングが始まりそう。きっと、クリームの比重が絶妙なんだ……。この偶然に今日巡り会えたことを感謝しなければ……」

 女性が首を捻りながら奥の部屋に引っこむと、入れ代わりに中年の男が出てきて、娘の前の椅子に座った。店長の生駒雅臣だ。

「えっと、妻が良く解らないとか言ってたんですが、えっと、超……何ですか?」

 アイスコーヒーとクリームのモーションをじっと見つめていた娘が顔をあげた。

「はい、超次元偏向レンズです。私はそれが欲しいのです」

 前に垂れ下がる左右の三つ編みが揺れた。

「はあ?」

と雅臣は上ずった声をあげた。

「超次元偏向……も、もしかして、それって、偏向振動光同調レンズのこと?」

「はい。それです。それはつまり平たく言えば、超次元レンズです。是非、私の眼鏡のレンズに使いたいので、二枚分けてください。こうしてちゃんとフレームは用意してきました。加工もここでできるんですよね」

 娘は、欧州著名ブランドのロゴの入ったケースを出し、蓋を開けてフレームを見せた。

「これまた高価なフレームだねえ。まあ、そりゃ、そんなことはすぐできますけど、あのレンズは、普通の眼鏡に使うようなもんじゃないですよ。うちの道楽じいさんが遊びで作った試作品みたいなものですし、高校生が手軽に買える値段でもない」

「私は口座に二百万円所持しています。足りませんか?不足するならローンを組みます」

 娘は表情一つ変えずに言った。

「に、二百万? 正気ですか?」

 それは、この時代、例えば、この店の業務用のワゴン車が買える金額だった。

「こんなことのためにと密かに貯金していました。足りませんか?」

「い、いや、眼鏡用大きさなら、おやじの話じゃ、現状では一枚四十万円ぐらいで出せるとか言ってたから、そりゃあ買えなくはないけど、これは映像投影機がなきゃ全く意味がないんだ。それは、小規模なものでも一千万円近くになる代物だ。その機械がないと、これは単なる度のないレンズでしかない。だから、君のような女の子には全く無意味な買い物だよ」

「その話だと、周囲の普通の風景は、レンズを通しても、見え方は全く変わらないんですね」

「ああ、光の強さも全く変わらない。そういえば、おやじはそれが自慢だとも言ってたな」

「そんな凄いレンズが、今なら何と、加工賃込みで二枚でわずか七十九万八千円のお値打ち価格とは……。テクノロジーの進歩って素敵だわ。ではさっそく加工の方、お願いします」

 そのレンズは、ゆみちの脳内で勝手に二千円と加工賃分が値切られた。

「ちょっと、今の私の話ちゃんと聞いてた?」

 雅臣が更に声を上ずらせていると、自動ドアが開き、白髪混じりの男が店に入ってきた。

「雅臣、お客さんに対して、一体何を興奮しているんだい?」

「おやじ、聞いてくれよ。この娘が、あの偏向振動光同調レンズを欲しいって言うんだ」

「ほ?」

 篤志あつしが鳩が豆鉄砲でも食らったような顔をしていると、娘がすっくと立ち上がった。

「貴方がレンズ開発者の生駒篤志さんですね」

「そうだよ」

 まるでゾンビのような喋り方をする娘を奇異に感じながらも、篤志は笑顔で答えた。

「この人ではどうもらちが空かないので、開発者の貴方と直接お話したい。この超次元レンズについて」

「超次元……ほう、確かにそういう言い方もできるかもな。ああいいよ。で、雅臣。七王さんが話をしたいそうだから、奥で話すといいよ。俺はこの面白そうな娘としばらくここで話をすることにするよ」

「自己紹介が遅れ失礼しました。私は森川ゆみちと言います。今時の女子高生です。横浜からはるばる参りました」

 三つ編みを地面に届きそうなくらい垂れ下げ、ゆっくり深くお辞儀をしたその奇妙な娘を、篤志の後についてきたトモと和人が少し怪訝な表情で見ていると、

「じゃ、トモ君達は、こっちにどうぞ」

 二人は店の奥の《関係者以外立入禁止》と書かれた扉の方へと促された。美貴もトモにひっつくようについて行った。

 そこはソファーがあるかなり広めの居間だった。やや大きめのスクリーンが壁に掛けてあり、その向かい側に立派な映像投影機がある。叔母の梨沙が笑顔でトモ達を迎えた。

「いらっしゃい。トモ君。大きくなったわね。今、冷たいものでも持ってくるわね」

 そう言って、叔母は奥のカウンター付きのキッチンに入っていった。

「あ、どうも済みません」

 和人が恐縮しながら言った。外の暑さにすっかり喉がからからだった。

「ま、座って。さて、それで一体用件って……」

 雅臣の言葉の後、飛び込むように座った美貴に続いて、二人がソファーに座ると、和人は早速、話を始めた。

「実は、あずさのあの論文をトモに見せてやりたいと思って……」

「姉さんの論文だって?」

 雅臣の表情が、たちまち険しくなった。

「義兄さんは何を言ってるのか解っているんですか?」

 トモは戸惑った。穏和な叔父が、何故これほど取り乱すのか全く解らなかった。そして母の論文とは何なのか……。


   ◆


「まあまあ、あなた一体、何を……」

 汗だくになりながら、工場から、大きな機械を抱えて戻ってきた篤志の姿に、老夫人は呆れながら言った。

「この娘さんにぜひ超次元を体験してもらおうと思ってな!」

 老研究者は、その大きな装置をどしりと机に置いたあと、レンズ度数調整用の特別な眼鏡フレームに、その問題のレンズを差しこんだ。その様子をゆみちはじっと無表情で眺めている。

「さあ、掛けてみなさい」

 ゆみちは老研究者から眼鏡を受け取って掛けた。彼女の目の前の壁には、Cマークが並ぶ古風な視力検査盤が取り付けてあった。

「いい感じです。想像よりもずっとぞくぞくする」

 ゆみちの口元に少し笑みが浮かんだ。

「今はただの度のないレンズのはずだけどなあ?」

 老研究者は首を傾げた。

「そんなことはございません。空間が研ぎ澄まされて見えてくる気がします。異星人の感覚に一歩近づけました。ゆみち的には大満足です」

「は? 異星人の感覚だってえ? ま、喜んでくれるのは嬉しいが、問題はここからだ」

 そう言って、持ってきた装置のスイッチを入れた。装置からは別に光が出ている訳でもなく、店内に何も変化はない。しかし――

「――ああこれは……」

 眼鏡を掛けているゆみちが声を出した。彼女の目の中に、動く立体映像が飛び込んできた。周囲を駆け回る可愛い子犬達の姿だ。

「これは、この感覚は、信じられない……色が……二つの空間が……」

 老人の表情が変わった。

「もしかして、若い君には解るのか! 実は、これはただの立体投影装置とは違うのだよ!」

「解ります。はっきり解ります。この立体物は、実空間と同じところに存在するのでなく、別の空間として区別できます。実像と座標は重なっているんですが、虚空間です。超次元です」

「そう、そうなんだよ。これは、単に立体映像が浮かんでるんじゃないんだ。子供にはその感覚が解るんだけど、大人には全然解ってもらえなくてな……」

「凄いです。正にこれです。これが私の求めていたものです。いえ、嘘です。求めていたものを遙かに越えています。今、一瞬、何でもお見通しの天才のふりをしてしまいました。ごめんなさい。とにかく、ここまで足を運んできた甲斐がございました」

 その言葉にも、やはり抑揚が不足している。しかし、彼女の目から涙がこぼれた。それを見た老研究者も、つられて感動の涙を溢れさせた。

 その瞬間、ゆみちは眼鏡を外した。

「立体映像の刺激が、ちょっと目に強すぎたのか、涙が出てしまいました。場の雰囲気を壊してしまい、失礼しました」

 え、感動して泣いたんじゃなかったのか……と、せっかく涙目になった篤志が、あっけにとられていると、彼女はハンカチで静かに涙を拭って話し続けた。

「しかし、私には、投影機までは手が出ませんし、今はこのレンズだけで十分です。

オーラ――という言葉が妥当ではないのは百も承知ですが、そのような何か――を高めるのに十分なアイテムを、今私はゲットしたと言えましょう。我々はもう異星人の世界へ一歩踏み入っているのです」

 その話し方には徐々に感情がこもっていったが、何だか国営放送のドキュメンタリーのナレーションに似てきていた。上諏訪の変人と皆から呼ばれてきた篤志にさえも、どうもこの娘は理解できなかった。凄い娘なのは解るのだが……。

「それに、投影機の方も、もしかしたら何とか手に入れることができるかもしれません」

「なんだと? この装置はいくら勉強しても、五、六百万円が限度だ」

「普通の高校生の私に、その規模のローンはさすがに無理ですね」

「無理だ」

 しかし、一瞬、この装置をこの娘にあげてもいいかなと老研究者は思った。でも、同時に、あげて大丈夫なのかなという気持ちもあった。

「実は私は、年末、異星言語科学研究所を受験するのですが、あそこなら、この装置を買ってくれる気がしてきました。さっきまでは考えてもいませんでしたが……もし、合格できたら、相談してみることにします」

 老研究者は再び驚きの表情を見せた。

「き、君も研究所なのか……」

「はい」

とゆみちはあっさり答えた。そもそも、そこで「はい」とすんなり答えるのは間違っていると篤志は思ったが、それよりも……。

「今から、作業室でレンズを加工してやるから、その間に、もっと話を聞かせてくれないか」

「分かりました。お聞かせします」

 その時、背後から声がした。ゆみちが振り向くと、星雲プラズマを描いたTシャツが視界に入った。

「あの……僕も見てていいですか?」

「あれ? トモ君。どうした?」

「何だか、お父さん達、二人だけで話がしたいとかで追い出されちゃって……」

 更にその後には、トモの寄り添う美貴もいた。

「そうか……うん、いいよ」

「あの、森川さんでしたっけ。七王トモと言います。よろしく」

「ご丁寧なご挨拶痛み入ります。森川ゆみちと申します。宜しくお願いします。立ち会いの方がいらっしゃるのは心強いです。今から私が立派な眼鏡っ娘になるという貴重な瞬間、別の言葉に言い換えるならば、処女喪失の瞬間を、気の済むまでじっくりご覧ください」

 彼女にしては大きな声で喋ったゆみちは頭を深々と下げた。トモは、何か返事の言葉を――と考えたが、彼女があまりにもあまりにも変なことを言うので、何も思いつかなくなった。

「じゃ、始めるよ」

 仕方ないので、篤志が口を開いた。


   ◆


 雅臣はテーブルを激しく叩いた。

「義兄さんもよく覚えてるでしょう! 遭難事件の後、姉さんのことを調べた時のことは!」

「ああ、あの時は私も色んな所をまわった」

「佐世保の気候は穏やかだった。原因はやっぱりあの論文しか考えられないんですよ!」

「でも証拠は何も見つからなかった」

 興奮ぎみに話す雅臣に、和人は終始落ち着いた声で答え続ける。

「あの論文が提出された後、発表も出版もすべて中止された。その裏に西救光教の圧力が存在したことはほとんど確実じゃないですか!」

「確かに学会での論文の発表が中止になったことに、西救光教が関与したのは間違いない。しかし、だからと言って、教団が妻を狙ったという証拠にはならない」

 その言葉に雅臣は呆れた顔をして、声を荒げて言った。

「義兄さんは連中の弁護人でもするつもりですか? あの発表中止の後、佐世保に行って、姉さん達が遭難したのも事実です。奴らの危険さは義兄さんもよく解っているはずだ。連中は警察だって動かせる。証拠は見つからなかったんじゃなく、見つけられなかったんだ!」

「警察に対して、教団から何らかの働きかけが行われたのは間違いないだろう。聴取の時も、気がつくと、こっちの方がまるで犯人扱いだった時には私も驚いたよ。後で判ったことだが、担当の刑事が西の信者だった。それを知った時はさすがに怖かった……」

 あの時、薄気味悪い笑みを浮かべながら聴取をしていた刑事のことを和人は思い出した。思い出すだけで虫酸が走る。彼も教団の恐さを身をもって知っていた。

「そうでしょ! しかも奴らは、事件の後もしばらくうちを見張ってました。盗聴もしていたのでしょう。震災がなければ、あの連中は今でもここを見張っていたかもしれません」

「少なくとも、最近までは、うちも東の信者には見張られていたようだ」

「そうでしたか。そうだ、東だって怪しいんだ。そんな危険な論文を、まだ子供のトモ君に見せるなんて、正気ですか?」

「――確かにトモはまだ子供だ。でも、今、その時が来たと思っている」

「その時が来た?」

 雅臣は怪訝な顔をした。

「私はあずさのことを調べているうちに、救光教よりも、あずさと一緒に研究をしていた人達の方が気になった。話を聞いた時の彼らの様子がどうも妙だった。救光教に怯えているのとは違っていた。後になって思えば、それは何かを知っているような感じだったんだ。だから私は、今でもあずさがまだ生きているのではないかという気がして仕方ないのだ」

「生きている? 正直に言いますが、もう私は諦めました。考えてみてください。もう七年も経ってるんですよ。それなのに、未だに全く何の手がかりもない。救光教や、他の国が姉さんをずっと拉致でもしているというんですか。いくらなんでもそれは考えられない」

「教団や国とは限らない。もしかして……」

に拉致されたとでも言うのですか?」

 そう言った後、雅臣は馬鹿馬鹿しいとばかりに笑った。

「いいですか。姉さんは昔の日本語を研究していただけです。それは救光教には大いに関係するけど、周星しゅうせいの異星人と一体何の関係が存在するというのですか?」

「――あなたは畠山実という人を知っていますか」

「あ、ええ、よく知ってます。姉さんが大学院の時に同じ研究室でしたからね。ここにも遊びに来て、実は一度一緒に酒を飲みました。陽気な人です。僕は、てっきり、姉さんは彼と結婚するかと思っていたぐらいです。それがどうしました?」

「やはり知ってましたか。私は知りませんでしたが、実は、その人は今、異星言語科学研究所で働いているそうなんです」

「な、なんだって! あの研究所に?」

「トモはそこを受験するつもりです」

 雅臣は言葉を失った。その時、二人の会話をカウンター越しに聞いていた梨沙が、果物を入れるための透明な器を落とした。ガラスの割れる音が室内に響いた。

「多分、昔、あずさが何を研究してたのかをトモが知るべき時が今来たんです」

 あずさの遭難を知った時と同じくらい真剣な表情に、雅臣は圧倒されていた。


   ◆


 トモは、検眼用の眼鏡を掛けながら、その立体空間を観ていた。

「どうだ。見えるか?」

 篤志は、専用の機械でレンズを削る作業をしながら、背後のトモに訊ねた。

「うーん、確かにこれは凄い。羊が僕の周りを走り回っている」

 トモの視界に周囲を走り回る子羊の姿が見える。

「で、それは別の空間として認識できるか?」

「別の空間? えっと、その……特にそういう感じには見えないよ」

「実は、投影機が映し出す立体画像の方には、レンズで映像を受け取った後に、特殊な変調をかけて、視覚細胞を刺激する仕掛けを加えてるんだ。変調をかけると、通常とは違う感覚として認識するという仮説が書かれた医学論文を最近読んだんで、それを試行錯誤しながら作ってみたのさ。トモにはちょっと難しい話かな」

「うん、よく解らない」

「実際、美貴に試してみたら、やっぱりそういう感覚が存在することが判ったんだ。本当は、あんまりやっちゃいけないことだが、俺の技術者魂が我慢できなくてな。幸い、息子がオプトメトリストの資格を持ってるし、眼科医療の知識も持ってるので、脳波も含め、色々調べたが、幸い今のところ、安全性の問題は出ていない。でも、トモには見えないか……」

 年老いた研究者は少し残念そうに言った。

「えっと、何て言うか、重なって見えるというか……。いや待てよ、変だな、走り回ってる羊の後に隠れているはずの部分もちゃんと見えるのは……羊は透過体じゃないのに……あっ!」

「どうした?」

「あれ……い、色が……わ、解った。解ったよ! おじいちゃんの言ってる意味が解ったよ。本当だ、これは別の空間だ。なんでこんな風に見えるんだろ。今まで経験したことがない」

「トモにも解ったか!」

 篤志は喜んだ。

 トモはしばらくその空間の面白さを声を出して楽しんだが、「でもこれ、ちょっと疲れるね」と言って眼鏡を外し、目を閉じこめかみを押さえた。ゆみちと同じ疲労感だった。

「やっぱり、慣れが必要なようだな」

「そういえば、どうして投影機は今も動いているのに、周囲には何も見えてないの?」

「それがもう一つの売りだ。投影機が発する光には、一種の偏向をかけているんだ」

「偏向って?」

 トモの問いに篤志は手を休めた。

「光の波の進む向きを変える……って言えばいいのかな。古典的な立体視システムではよく使う光なんだ。で、この投影機の場合は、光に特殊に歪んだ偏向をかけ、さらに、非常に早い周波数でその偏向の角度を常時変化させているから、肉眼ではほとんど見えない。多少はそこにぼんやりした光のようなものが見えるとは思うが……」

「ああ、確かになんとなく……」

「で、このレンズは、その光の偏向振動に自動的に追従し、目に見える映像に変換するんだ」

「それで偏向振動光同調レンズと呼ぶのね」とゆみちが口を挟んだ。

「ああ、そうだ。君は理解が早いね。理系かい?」

「理科系科目は苦手です。私の得意科目は語学です」

「ほお、そうかい」

「ところで、森川さんはどうしてこんな変わったレンズが欲しいんですか?」

 トモがゆみちに訊ねた。

「おお、それは俺も聞きたかった」

「はい、最初、それは、試験に合格するおまじないのつもりでした。三つ編みを編んで、眼鏡っ娘になる。そんな新しい自分に生まれ変わってから、受験に挑みたいと思ったのです」

「おまじない?」「眼鏡っ娘?」

 篤志とトモは顔を見合わせた。二人にはゆみちの思考回路がやはり理解できなかった。

「で、眼鏡に使うフレームとレンズを探してたんですけど、異星言語科学研究所のことを調べる目的でたまたまアクセスした科学サイトに、このレンズのことが紹介されていたのです。私の眼鏡に使うレンズはこれしかないとゆみち的に思って……」

「え? 森川さんも研究所を受験するんですか?」

「はい、トモ君と同じく私も受験します」

「あれ? もしかして、おじいちゃんから聞いたの? いや、言った記憶がないな……」

「先程、生駒博士と会話してた時に研究所の話がちょっと出たので、そこから推理しました」

「い、いやだな。博士と呼ぶのはやめてくれよぉ。昔、博士課程で挫折してるし……」

 篤志が苦笑気味に言うと、ゆみちはうつむいて言った。

「大変失礼しました。私は人を傷つけることが多いようで、時々は反省するんですが……」

「いやいや、別に不快に思った訳じゃないよ。そんなこと全く気に病むことはないけど……。それより、どうして君は研究所を受験する気になったんだい?」

「先程言ったように、どうも、私は語学修得が得意なようで、最近になって、アラビア語など外国の言葉を覚え始めていたのだけど、それよりも、もっともっと、今まで見たこともないような未知の言語が知りたい――あの研究生募集のニュースを見て、そのことに気づいたのです。それが解った後は、何をするかが頭に次々浮かんできて、まず言語そのものについて勉強しました。まだまだ解らないことだらけだけど、色々学ぶことができました」

「何の勉強を?」

 トモは試験を前に、一体、何を準備したらいいのか全く考えていなかった。

「世界の言葉の違い……例えば、文法の違いとか、使う母音、子音の数の違いとか、発声法の違いとかを調べました。それから、認知言語学も。どれもが、何もかもが新鮮で。中でも、チョムスキーの考えには大きな影響を受けました。私が師と仰ぐのはこの人だと思いました」

「チョムスキー?」

「ノーム・チョムスキー、二十世紀から二十一世紀の間に活躍した言語学者です。彼は、『人間には生得的に備わった言語獲得力が存在する』と考えました。四百年以上経った今も、その説は完全には立証されていませんが……」

「何だか、全然、難しくて解らないや」

「単純な話です。私の言い方が下手なだけ。要するに、人間の頭の中には元々言葉を使う機構が予め備えられていた、という考え方なのです。猿やイルカは、いくら学習を繰り返しても文法を覚えない。一方で、どの人間社会にも文法を持つ言葉が発生している。これらの事実は、彼の説を裏付けていると言えましょう」

 要するに――と言えましょう、と言われても、やはり二人にはあまり良く解らなかった。

 ゆみちの話に耳を傾けながらも、丁寧に作業を続けていた老技師が手を止めた。

「よしできた。我ながらなかなか見事に仕上がったと思うよ。さあ掛けてみて」

 日本で指折りのレンズ加工職人でもある篤志は、眼鏡を機械から取りだし渡そうとしたが、ゆみちはそれを右手で拒否した。

「あの……できれば、トモ君が掛けてくれませんか?」

 その言葉にトモは「ええっ、な、な、何で?」とあわてた。

「私のファースト眼鏡掛けは、トモ君にあげると今決めました」

「わあい、ファーストメガネかけ、ファーストメガネかけだ!」

 美貴がはしゃいた。

「意味わかんない! 全然、意味わかんない!」トモは上ずった声で叫んだ。

「まあ、いいじゃないか。掛けてやれよ」

 篤志は笑って、トモにフレームを渡した。

 ゆみちは「さあ、どうぞ……」と目を閉じ、顔を……というかむしろ唇を少し突き出した。

 トモは仕方なく立ち上がり、ゆみちが座る椅子の前に立った。

 周りを見回すと、おじいちゃんとおばあちゃんが笑顔でこっちを見ている。あれれ、美貴ちゃんは何かを用意してきたぞ。あれは一体……。

 トモは、ゆみちの顔の高さまで屈み、少し震えた手で、そおっと、そおーっと、ゆみちに眼鏡を掛けた。これは何かが間違っていると思いながら……。

 その瞬間、美貴が二人の頭の上に何かをふわっとかけた。色紙で作った紙吹雪だった。

 ゆらゆらと紙吹雪が舞う中、ゆみちは目をゆっくり開けた。すると、それまでは焦点の定まらない感じだった瞳が、突然爛々と輝き出した。すっくと立ち上がり、彼女は両手を広げた。

「星への扉が、まさに今、開かれました! そして、これから、私達の長い旅が始まるのです。我が友、トモよ! いざ共に行かん!」

 舞台女優のように大きな声で叫んだゆみちに、トモはすっかり圧倒された。そして、この人はだ――と確信した。

 しかし、どういう言葉を返したらいいのやら……。ゆみちに再び視線を戻したその時、一瞬のその突き刺すような美しさにトモはどきりとした。もしかして、これが恋の感覚?。

 何をバカなことを考えているんだ! トモは再び大きく頭を振った。

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