第12話 魔術師

 会議の後、繭田まゆたに呼ばれ、寒河江は、機構調整官専用の応接室で彼を待っていた。

 政治家、実業家、国内外の著名科学者などの来賓向けにあつらえた豪華なソファーに、寒河江は少々居心地悪そうに座っていた。下には緋色の絨毯じゅうたんが敷かれている。

 そこに、二人分のアイスティのグラスを両手に持った機構調整官の繭田が扉を背中で開けながら入ってきた。ここの扉は研究所の中でも珍しく自動ではない。

「ストローは無くて良かったよな」

 それを見て、寒河江はあわてて立ち上がった。

「ま、繭田さん、わざわざそんなことしなくても……」

「いや、これは私が飲みたいのだ。これがないとどうも調子が出ない。自動販売機のはどうもだめだな。一つ一つの茶葉は悪くない。でも、特にアイスは中途半端なブレンドばかり……。一体誰が考えるんだろうね。風味も足りない。自販機のコーヒーはなかなかの出来だが、紅茶は神経が行き届いてないよね。紅茶の自動抽出機が開発されてから、恐らく四百年は経とうというのに、これはツキが存在した昔からのことなのかねえ。ま、クリームダウンを考えずに済むから楽だけどね。あ、砂糖は適当に入れといたからね」

 紅茶に疎いこの研究所の代表者は、ただ「はぁ」と答えるのが精一杯だった。

「今日は大野木君がいないので、私の下手なアイスティで済まないね」

 繭田は全く濁りのない濃い赤に、大きな岩氷が一つずつ浮かぶグラスをテーブルに二つ置いた。寒河江は、ぼーっと立ちつくしている。これだけ透明で濃いアッサムのアイスティを作ることの難しさなど、彼は知らなかった。

「何つっ立ってるんだよ。君が研究所の代表だろ。堂々と座ったままでいればいいんだよ」

 そう言われても、寒河江は、ついこないだまで単なる一人の研究者だった。

 名目上に過ぎない老所長をトップに据えていた国際社会文化研究所の頃は、間違いなく繭田が研究所の実質の代表だった。そして今も、彼の持つ権限は何一つ変わっていないのだ。その繭田に、君が代表だ、などと言われてもどうもしっくりこない。

 繭田がニヤリと笑いながら先に座ると、そそくさと寒河江も座った。グラスに一口つけてから、彼の話は始まった。

「さって。この先、うちは何かとやばい橋ばかり、渡り続けていくつもりなんで、これからは所長の君にもちゃんと相談していかないとね」

「何ですか?」

 寒河江は怪訝な顔をした。

「野獣君もお気に入りなあの娘だけどね。私もここに絶対必要な人材だと思っている」

「小白川綾子のことですか」

「ああ、その娘だ。君もあの紙の手帳を見ただろう。あの娘はあの歳でうちの若手研究者並の研究力を持ってる」

「それはいくらなんでも少々過大評価では……」

 繭田はアイスティをごくりと飲んでから、一気に話し始めた。

「あの娘は、月を含んだ昔の日本の漢字の元のパーツを、二十五種も言い当ててるんだよ。その半分以上が配置まで合っている。そもそも、そのうち二つは、七年昔の佐世保遺跡発掘の時、その存在がようやく確認された文字だ。あれは、一冊の古い放送禁止語辞典だけで解る内容じゃないよ。間違いなくかなり多くの資料を丁寧にあたっているね。彼女は命令されることもなく、すべてそれを自分の意志でしているんだよ。それがどれほど凄いか解るだろ?」

「確かにそれはそうですが……」

「ま、それはいい」

 そう言って繭田は立ち上がった。寒河江に背を向け、電動ブラインドを開け、窓の外の木々を見た。室内に強い日差しが差しこんできた。

「その天才娘が、なんとまあ皮肉なことに、今は教区の檻の中だ。このままじゃ、彼女の才知は全く生かされることもなく、生涯を終えるかもしれない。文教特区などと良く言ったもんだ。実に皮肉な話だ。いや、逆に悪用されるかもしれないな――」

「悪用……ですか」

「だが、幸いなことに、あの子の凄さに、まだ西の轟代表は気づいていない。だから試験日までに、相手に気づかれず、先手を打つという訳だ」

「先手?」

 光を背にした繭田が、寒河江の方に向き直った。

「寒河江君。いや、所長というべきだったね。君は今までに、マジシャンが美女を二つに分離したり、空中浮遊させるようなイリュージョンを観たことはないかな?」

「いきなり何の話ですか? ――えらく古臭いショウの話をしますね、番組映像としてなら観てますけど……」眩しそうにしながら、寒河江は答えた。

「その時、よくマジシャンは、その美女に対してまじないと言うか、術のようなものをかけるよね。――実はね、今回のランチタイムでは、美少女に術をかける手筈になっているのだよ」

「え?」

 その瞬間、突然、大きな氷が音をたてて二つに割れ、赤い液体がグラスから溢れた。

 寒河江はびっくりして思わずグラスに目を向けた。そして驚いた顔を再び繭田に向けると、彼は手を銃の形にしてグラスの岩氷に向けていた。不敵な笑顔を浮かべながら……。

 寒河江も畠山同様、そんな繭田が苦手だった。


   ◆


 子供達の視線が沙耶葉の整った唇に集まっていた。これから彼女が始める秘密の話を、食事の手を休め、皆、わくわくしながら待っていた。

「綾子ちゃん、この紙の手帳が何だか、みんなに言ってもいいかしら」

「あ、ええ、構いませんが……」

「これはね、綾子ちゃんの研究ノート。それはもうとっても凄い内容なの。どちらかというと私は専門外なんだけど、それでも感動しちゃったわ」

「そんな、大袈裟な……」綾子が恥ずかしそうに言った。

「でも、中身はひ・み・つ!」

「えー、今、綾子さんがいいって言ったのに……」

 意地悪っぽく笑う沙耶葉に、渉はむくれた。彼は、それがヴァーチに関係する研究ノートかもしれないと思っていたのだが、そんな渉に一切構うこともなく、沙耶葉は話を続けた。

「今日はね、これを返そうかと思ってね」

 その言葉に、綾子はむしろ残念そうな顔をした。

「あの……それ、できれば、まだそちらで保管していてくださいませんか。預けた後、手帳の中身は全て覚えてしまっていることに気がついたんです。そもそもここだときっと危ないんで今は要りません。いや、もうずっと、要らないかもしれない……」

「あ、そう。多分そう言うと思ってたわ。実はね、やっぱりこの手帳は、綾子ちゃんが持ってるのはまだ危ないんで、今日は返すつもりはなかったの。丁寧な手書きの文章に、偽装を施すのも何だか悪い気がしたし……」

「偽装?」

 そう叫んだのはまたもや渉だった。そのキーワードに少年は興味津々だが、沙耶葉はやっぱり無視して話を続ける。

「でも、あの辞典はまだ欲しいでしょ。内容を見る限り、まだ研究は途中だし……」

「ああ、あの本ですか。でも、あれは燃えてしまったから……」

 少年達には二人が何のことを話しているのかさっぱり解らない。

「でね」

 そう言って沙耶葉は、水色の表紙の本をテーブルに置き、その隣に装置を並べた。

「ちょっと今から綾子ちゃんの信号を計らせてもらうわ」

「信号……ですか?」

「この装置のセンサー部分に左小手の真ん中辺りをかざしてみて」

 沙耶葉は、装置を操作した後、センサーの部分を指差した。

「え、はい」

綾子がその言葉に素直に従い、左腕の小手の部分を装置にかざすと装置が綺麗な音を奏でた。ハープのような音色だった。

「やっぱりチップの場所はそこか。オッケ。じゃ、今から本に鍵を掛けるわ」

 そう言って、今度は装置を再び操作して本にかざした。再び装置が音を奏でた。

「これで完了」

と言って沙耶葉は周りを見回した。

「じゃ、まず……。さっきからずーっと暇そうだったユズキ君。その本、適当に真ん中辺りを読んでみて」

「……あ、はい」

とユズキが読もうとする。しかし――

「あれ? これって韓国語の本ですか? ハングル文字ですよね」

 次々にページをめくるが、どこまでもハングルだ。時々挿絵もある。周囲にも中身を見せた。

「そう。これはハングルで書かれた青少年向けの物語なの。綾子ちゃんには、ちょっと、ハングルでも勉強してもらおうかと……」

 その話に綾子が戸惑いを隠せずにいると、突然、ひなぎくが立ち上がって叫んだ。

「なるほど! わたくしたちはハングル語を勉強しなければならないのですね! がんばります。オイキムチのはげしい辛さにも負けない雛菊です!」

「い、いや、そういうわけじゃないんだけど……んっ!」

 沙耶葉は、拳を握りしめ、危ない危ないと思いながら、今にも出そうな笑い声を飲み込んだ。また笑いツボを突かれそうになったのだ。しかもオイキムチかよ――とか思った。

 沙耶葉は少し息を整えてから、再び話を続けた。

「じ……、実はそれは冗談よ。今度は綾子ちゃんがその本を読んでみて」

 綾子はユズキからその本を受け取り、開いて中を見た時、驚きの声をあげた。

「こ、これって……」

「そう、例のアレです。ちょっと放送局は綾子ちゃんが持ってたのとは違うんだけどね」

 それは間違いなくあの辞典だった。


 ましかく《真四角》[E]

 また[A、X]【『又』は問題ないが、枝や体の部位を示す意味で使うのは不可】

 まちあかす《待ちあかす》[X]待ち過ごす

 まっき[X]最終(的)、終(的)

 まつご[F]一生の終。【末後としてまれに使われるが、推奨されない】

 まっさお《真っ蒼》[F](顔色が)悪くなる。蒼白。真碧(しんへき)。真蒼(しんそう)。


 ――ついつい、目が字を追ってしまう。恐らく、Aは問題なし、Xが絶対禁止で、Fは使う人はいるが、放送では禁止か。Eは好まない人(東救光教信者)がいる言葉……。

 少し読むだけで綾子には判った。


 まっしょう[X]誤記塗り潰し、抹白(まっぱく)/(枝や神経の)末端

 まっぽ[C]警官

 まつやに《松やに》[X]松油

 まら《魔羅/摩羅》[D]男性器(元は梵語)


 ――CとDは放送では使わない方がいいものね。でもその差が今ひとつ解らないな……。


 まんき[X](刻限付預金などが)満了すること


 ――そして、あの言葉か……綾子がそう思った時、

「あれっ、この……まん……」

 背後から声がした。あわてて綾子が振り向くと、そこにはひなぎくが立っていた。先程からずっと覗き込んでいたのだ。


 ひなぎくは、学校で先生に質問するかのように次のように訊ねた。

「この『まんげつ』ってところ、その下に何も書いてないけど、どういう意味なんですか?」

「こ、これこれ……」

 無邪気に訊ねるひなぎくを、老人があわててたしなめようとすると、

「私も……判らないの……」

 綾子は悲しげに言った。少女があまりに悲しげだったので、堪らず老人が言った。

「あの……、沙耶葉さん、いいですかな?」

「あ、いいですよ。ここには監視カメラも、盗聴機もないですしね。ね、大野木さん!」

 大野木は「はい」と小さい声で答えた。

「大体、私達はこれらの言葉を避けていてはこの先全く何もできないし……」

 沙耶葉の言葉に安心して、老人は語り始めた。

「これはな。こうして、満ちた月と書くのじゃ」

 老人は、ひなぎくのメモ帳に力強く《満月》と書いた。ユズキが目を剥いて驚いた。これがあのツキか……。一方、渉は少し感心ぎみに驚いている程度だ。

「月が満ちる……それは、どういう意味ですか」

 顔を老人に向け、綾子が訊ねた。

「さあて、どう言ったらよいかな。その昔、地球を回っていた月はな、夜も、太陽からの光の反射で光って見えたそうじゃ」

「やっぱり夜にも月の光が照っていたのですね。昔、トモ君がそんな話をしてくれました」

「そうじゃ。そして、太陽との位置関係によって、月には陰が付くのじゃが、その陰が全く無くなった時、すなわち真円になった時を、満月と呼ぶのじゃよ」

「なるほど、それで満ちると書く訳ですね。何とお礼を言って良いのか……」

 綾子は嬉しそうに言った。

「その光の下で、沙耶葉さんや、大野木――さん、そして、綾子ちゃんの白い表皮が、さぞや綺麗に見えたことじゃろうの。ほっほっほっ」

「じっちゃん。わたくしは……この雛菊はどうなのです!」

「もちろん、それはそれは可愛く見えたじゃろうて」

「そうですか、そうですか」

 夏の強い日差しに健康的に日焼けしたひなぎくは嬉しそうに大きく頷いた。

 その時、「あの……」と我慢しきれず、渉が口を挟んだ。

「この仕掛け、どうなってるんです?」

「ま、これも偽装の一種ね。大した技術じゃないけど。つまりこの本には、元々の文章の上に、薄い液晶箔に印刷された別の文章を更に重ねてるの。それがハングルの文章ね。これが、普段は下の文章を隠している。で、綾子ちゃんが手に本を持つと、その鍵が解けて、下に覆い隠されていた内容が読める仕掛けになっているのよ。――それにこの液晶は視野角がとても狭いんで、横から覗いたくらいじゃ判らない」

「なるほど、なるほど……」渉が目を輝かせながら頷いた。

「本人認識に、綾子さんの左小手に埋め込まれたチップが発する信号を使っているのが皮肉ね。綾子さんを識別するための信号だから、逆にこういう使い方もできるわけ」

「これなら文教特区内でも大丈夫ですね」綾子は本当に嬉しそうに言った。

「でも、真後ろは気をつけてね」

 綾子は、あの日も同級生に真後ろから本を読まれていたことを思い出し、苦笑した。

「今度こそ十分気をつけます。でも、私がハングルの文章を読むためにはどうしたら……」

「それは、単に左手を本から外せばいいけど、手袋をしたり、少し厚手のブックカバーをつけても大丈夫よ。だから、普段はブックカバーでもつけておくといいと思うわ」

「あの、私、何とお礼を言ったら……」

 綾子の言葉を遮ってひなぎくが元気よく言った。

「それはもちろん、カムサハムニダです。実は韓国語にもちょっぴり強い雛菊です」

 店内に笑いが起こった。その時、チャイムのような音が鳴った。沙耶葉の携帯からだった。

「あら、もうこんな時間。私、まだ用事が残ってるから行くね。渉君も行くよね」

 そう言いながら、沙耶葉は立ち上がった。

「はい! 手伝います」と渉が元気よく言った。

「じゃ、後のことはよろしく……」

 沙耶葉がそう言った瞬間、ユズキが叫んだ。

「あの、僕の姉のことは?」

「それは、隆之君に任せるつもりだったけど、私にも聞いて欲しいことなの?」

「あの、えっと……」

 ユズキは早川のことはまだ分からないので、まず、信頼できそうな沙耶葉に話を聞いて欲しかった。それとやっぱり、ユズキは横浜沙耶葉さんともっと話がしたかった。

「――はい……」

「そう? ま、時間は少し残ってるし……。じゃ、手早く参りますか」

 そう言って、再び沙耶葉は座った。

「じゃ、ひなぎくちゃん」

「待ぁーってました!」と素早くひなぎくは立ち上がり、

「いきまーす。用件、そのさん!」とノリノリでポーズを決めた。

「で、ユズキ君の相談はお姉さんのことだったよね」

 沙耶葉が突き放し気味に言うと、ユズキが立ち上がった。

「はい、私の姉、えっと、森川ゆみちっていいまして、研究所を受験したいと考えているようなんですが……私の姉は……」

 子供達の視線がユズキに集まった。

「変なんです!」

 叫ぶユズキの表情は真剣だった。その言葉に少年少女達はお互い顔を見合わせた。

「弟の私が言うのも何なんですが、姉はとっても変人なんです。それで今回はその相談に来たんです。変人用の受験準備とか、性格改善とか、そういうことが必要ではないかと思って」

 変人用の受験準備って一体何だ?

「ちっとも、さっぱり、まったく、なんにもないわね」沙耶葉は呆れるように言った。

「うん、何も問題ないよ」

と早川も答えた。大野木にもユズキの視線が向かったが、彼女は無表情のまま顔を逸らした。

「だあーって、研究所の人間は、ほとんどみんなが変人だしー。自分で言うのもアレだけど、見ての通り、私もこんなだしー」

 なんか少々キャラ変わり気味にだるそうに喋る沙耶葉の言葉に、ひなぎくがうんうん頷く。

「ああ、研究所で変人でない人を探すのがむしろ難しい」

 早川も付け足すが、ユズキはまだ納得しない。

「でもでもでも、私の姉は人とのコミュニケーションとか変なんです。実は姉を密かに慕う弟の私が言うのは心苦しいですが、喋り方もおかしいし、多分考え方もおかしい。親しい友達もいないようだし」

「別に日本語が話せない訳じゃないでしょ?」

「はあ、それは問題ないです。そもそも、気持ちを込めればちゃんと話せるようなんです」

 ユズキはあのニュースのあった日、女優のように叫んでいたことを思い出していた。

「じゃ、そのままでいいわよ。そんなに心配だったら、ユズキ君も一緒に試験受けたら?」

「え?」

「それがいいよ」と早川も言う。

「私のような平凡な一般小市民がそんな大それたことを、とんでもない……」

「……君もきっと変ね」

 沙耶葉はあご肘をつき、呆れたように言った。

「そうでしょうか?」

「ああ、変人の才覚を感じるよ」と早川も変なことを言う。

「そうでしょうかぁ?」

 そう言われたユズキは何だか嬉しそうだ。それは何かおかしいぞユズキ!

「じゃ、そういうことで。渉くーん行くわよ」

「はい。それじゃあお邪魔しました。では今後ともよろしくお願いします」

 渉はそう言って、軽くお辞儀をした。

 その時、綾子が立ち上がった。それを見て、負けじとひなぎくも立ち上がった。

「沙耶葉さん、今日は本当にどうお礼を言ったらいいか分かりません。感謝の気持ちでいっぱいです」

「わたくしもいっぱいいっぱいの雛菊です!」

 ひなぎくも叫んだ。まだ十一歳とは言え、いくらなんでもその日本語はどうなんだ?

「その気持ちに応えたいなら、綾子さん。試験は受けなきゃだめよ」

「え?」

「私達が何とかするから、安心して」

「え、はい。あの、それと……」

 綾子にはもう一つ気になることがあった。

「今日、渉君は、何のために……?」

「あ、僕、今日は特に自分のことで用事とかはないんです。今日は沙耶葉さんのお手伝いと、みんなに会いに来ただけですから」

 綾子がびっくりしていると、

「そうやって点数を稼ぐつもりだったのですね!」

 ひなぎくが畳みかけるように言った。老人はもう呆れ顔のまま何も言わない。

「あ、そうかぁ。そういう考えもできるわねぇ。でもね、私はね――その、変なゆみちさんを含めて、この試験に君達が全員合格することなんて、予めの調査で判りきってることだから、そんなことはどうでもいいの」

 その言葉に子供達は驚いた。

「私は素敵な君達に会いたかったの。みんな思った通りのいい子ばかり。大好きよ!」

「沙耶葉!」と早川がたしなめた。

「あ、ユズキ君だけは微妙かもね。いろいろ喋り過ぎちゃったわね。ははは、じゃあね」

 左手を軽く挙げたまま、緑なす黒髪をはためかせて沙耶葉が出ていった。渉も軽くお辞儀をしてその後に続いた。

 カラカラと扉が締まり、綾子とユズキが座っても、ひなぎくだけは涙を溜めたまま、ずっと立ちつくしていた。その様子に堪りかねて早川が声をかけた。

「あの、ひなぎくちゃん」

「は、はい……」

という言葉と同時に涙が一筋流れた。

「ほんと、しょうがないやつだよ沙耶葉は……。確かに沙耶葉の言う通りかもしれないけど、だからと言って、試験は頑張らなきゃだめだ。君達が試験を受けること自体が、私達にとって、そして、世界の未来にとって重要なんだ」

 早川の『世界の未来』という予想外の言葉に、綾子とひなぎく、そして、老人も、少なからぬ衝撃を受けていた。

 ただ、森川ユズキだけは、沙耶葉の言った『微妙』とは、素敵かどうかなのか、合格するかどうかなのか、それとも、大好きというのが微妙なのか、どれなのかを考えていた。

 そのユズキに早川が声をかけた。

「ところで、どうして今日はお姉さんは一緒に来なかったんだい?」

「あ、はい。それは、沙耶葉先生には電話で伝えたことなんですが、姉は黙って旅行に出てしまったからです。こんなメールを残して……」

 そう言って、ユズキは自分の携帯の画面を見せた。それを読んで早川は怪訝な顔をした。

「『旅に出ます。探さないでください』って、何? これじゃあ何だか家出みたいな気もするけど……」

「いえ、姉が旅行に行く時はいつもこうなんです。第一、宿泊先も書いてるし……」

 ユズキが画面をスクロールさせた。

「本当だ。ん、長野県上諏訪かみすわ? 何でこんな所に?」

「さあ、姉のすることは、いつも不可解なことばかりなのでよく解りません。でも、何か理由が存在するんだと思います」

「理由ねえ……」と早川は首を傾げた。

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