第10話 昼食会

 多くの小中学校の夏休みに終わりが近づくその日は、一段と暑い日だった。時刻はちょうど十一時。蝉の声だけが鳴り響く閑静な住宅街を、森川ユズキが汗を滲ませながら歩いていくと、その店はあった。

 古ぼけた板に《食亭タルティーニ》と彫りこまれただけの小さな看板、それが目立たないところに掛かっていた。欧風装飾をあしらった古い扉の前には、毛筆で書かれた《本日貸切》の木札が掛かっている。異様に力強い文字だなとユズキは感じた。

 煉瓦造りのいかにも古そうな建物は、商売をしているという自己主張をすることもなく、小綺麗な家が並ぶ街並みの中にひっそり佇んでいる。

 ユズキは看板と札を数回見た後、視線を手元の携帯に移し、その店であることを確認してから、重い扉を押し開けた。軽やかな鐘の音が鳴り、涼しい空気が店内から漏れてきた。

 少し暗い店内には、静かな音楽が流れていた。全く聴いたことのない古い音楽だった。柔らかい優しいヴァイオリンの音色。装飾音が目立つが心が落ち着く曲だった。まさかその曲に『悪魔のトリル』などという物騒な名前が付いていることなど、ユズキは知る由もなかった。

 店内を見渡すと、中央に木目のはっきりした大きい長テーブルがあり、その周りだけに人が座っている。奥の右にはユズキとほぼ同年代であろう男の子、左には女の子、この子はどう見ても小学生にしか見えない。隣の老人はその保護者だろうか。それと、こちら側の席には顔は見えないが二十代ぐらいの男女が三人。この人達が研究所の人だろうか……。

 ユズキがそんなことを考えながら、しばらく突っ立っていると、手前の真ん中の席の女性が振り向き、立ち上がって大きく手を振った。

 長い髪がなびいた。綺麗な人だ。薄暗い店内がその部分だけ華やいで見える。ユズキは自分の姉も結構美人だと思っているが、この人には太刀打ちできないなと感じた。大きく見開かれた琥珀色の瞳。試験のことを訊きに来たはずなのに、ユズキはすっかり心を奪われていた。

「何ぼんやりしてるの? こっち、こっちー!」

 彼女は満面の笑顔で子供っぽく叫んだ。

 その言葉にユズキははっとした。あわててテーブルの方に歩みよった。

「君の席はそこね」

 彼女が指差した空いている椅子にユズキはそそくさと座った。視界に三人の大人の姿が入った。右隣に女の子がちょこんと座っている。

 ――やはり小学生だろうか。口をヘの字にし、きつい目をして僕を睨んでる。気むずかしい子なのかもしれない。あ、そうだ、謝らないと……。

「お、遅れてすみません。ちょっと迷っちゃって……」

 ひょろながで、色白で、猫背がちの少年は、再び立ち上がって二度頭をさげた。

「そんなぁ。約束の時間から、まだ……えっと」

 女は、手に持った装置を見た。普通の携帯と違う形をしているし、少し大きめだ。

「なによ、たった二分しか過ぎてないじゃないの。それより、こんな遠いところまでわざわざごめんなさいね」

「いえ、研究所より、ここの方がずっと近いですし……」

 猫背がちのユズキが言葉を返した。女は、二人だけが立ったままで話をしていることに気づき、ニコリと笑った。

「さぁ、座って座って」

と女はユズキを手で促した。

「えっと、君は……森川……ユズキ君だったわね」

 琥珀色の瞳を一瞬天井に仰がせて、女は言った。その瞳が再びこちらを向いた時、まず始めに自己紹介をしようと決めていたことを、ユズキはようやく思い出した。

「は、はじめまして! 森川ゆみちの弟のユズキと言います。ぼ、僕のなんて覚えてもらってて恐縮です」

 それを見ていた隣の少年は、変な自己紹介をする子だなと思った。

「私は、横浜沙耶葉さやは。沙耶葉って呼んでね。そういえば、キミは横浜に住んでいるんだったわね。いえね。私は名字は横浜だけど、出身は全然違って四国州の徳島なの。それも田舎暮らし。見ての通りの色黒だし……。だから、横浜さんって呼ばれるのは、どうもなんか変な気持ちでねー。大都会横浜って雰囲気じゃないでしょ、私って?」

 今、自分を凝視しているこの女性は、日本が誇る大都市横浜に負けない美しさだとユズキは思った。本人は色黒と謙遜するが、健康的に日焼けしたキメの細かい美しい肌だ。服のセンスもいい。シックなむら染めのタンクトップに、七分丈のホワイトデニムのパンツ。活動的なところを強調しながらも、大人の雰囲気が漂う彼女にぴったりだ。いや、でも、せっかくの長い髪は何かアレンジした方がいいかも……。ユズキはそんなことを次々と頭に思い浮かべた。

 しかし実際は、沙耶葉の矢継ぎ早の言葉に、ただ「はー」と相槌を打つことしかユズキにはできなかった。

 このままだと、この女性はどうでもいいことを次々話しかねないが、そこに元気な男性の声が割って入った。短く髪を刈った熱血教師風。身長は沙耶葉よりもずっと低い。爽やかな笑顔で……というか、なんだかちょっと浮いた感じかな――とユズキは思った。

「こいつは、話し出すと止まらないからなぁ。私の名称は早川隆之。よろしく!」

 語尾に力がこもっていた。やっぱり変な爽やかさだとユズキは感じた。

「彼女も私も、異星言語科学研究所の教員です。で、こちらの人が……」

「大野木です。宜しく」

 黒のスーツ姿にボブカットの女性は、笑みを浮かべることもなく、やや低い声で静かに答えた。そう言った後、うつむいて、黙ってしまったので、沙耶葉が再び話し始めた。

「えっと、大野木さんはね。研究所のね……」

 沙耶葉は斜め上に目を泳がせ少し考えた後、

「何なのかなー、この人って、ははは」

とお茶目に笑った。

「さて、ユズキ君も来たし、残るは一人だけね。大野木さん、そちらの方は大丈夫?」

「全て準備は整っています。何も問題なしです。そろそろ着く頃でしょう」

 大野木は、下を向いたまま答えた。

 その時、再び店内にカラカラという音が響いた。沙耶葉は再び入口の方に振り向いた。

「遅れてすみません!」

 そこには、光を背にして清楚な少女が立っていた。小白川綾子だった。

「どんぴしゃね。さすがは大野木さん」沙耶葉は感心しながら言った。


   ◆


「なんだい。そんなこと、俺は聞いてなかったぞ!」

 野獣の雄叫びが、研究所の殺風景な会議室に響いた。

「受験志願者達を集めて楽しく昼食会だとぉ! 俺に内緒でずるいぞ!」

 テーブルの中央には、向日葵や百合などをあしらった明るい色合いのアレンジメントが置いてある。一昨日、沙耶葉が持ってきたものだ。しかし、晩夏の暑さに萎れかけていた。

「そんなことをミノさんに言う必要などないだろ。それに昼食会とは言っても受験に関する相談会だ。これは大切な業務だ」

 寒河江さがえは涼しい顔で答えた。実際、室内は程良く冷房が効いて涼しい。でも、彼がミノさんと呼ぶ畠山はたけやまみのるは、今日もTシャツ一枚なのに汗だくだ。

「だから、何で俺をまぜてくれなかったんだよ。この暑い中、俺はサンダースのアホと、政治家、役人、マスコミ、それに、小やかましいばばあとかの対応でずっと大変だったんだぞ」

「いくらなんでも、アホは酷いですよぉ」

 横の楠木・サンダース・尊氏は弱々しく言った。

「香川のばばあの相手なんて、貴様一人で本当は十分なんだよ!」

 香川とは、研究員募集発表の当日、たすきがけでやってきた市民団体の代表だ。

「で、その香川さんはどうだって?」

「あの女、本当にわからずやだ。何度言っても、全然、納得してくれやしない。今日なんか、まっ黄色のスーツで現れやがって目が痛くなったよ。あの日は東の信者のおかげですっかり大人しくしてたのによお」

「なんだ。ミノさんでも、手に負えないんじゃないか」

「だからー、あんなやつの相手わー、時間の無駄だからー、語尾伸ばしのー、サンダースだけでいいんだよ!」

 野獣の雄叫びに、寒河江は不快な表情一つ浮かべず、相変わらず涼しい顔のままだ。学生時代を含め、研究を共にしてきた彼にとって、こんなことなど慣れっこなのだ。サンダースや、他の所員達は、雄叫びが室内に響くたびに、目を閉じたり、身をすくめたりした。

「ふーん。ま、香川さんは香川さんとして……やっぱり、問題は地元住民ですね。椙山すぎやまさん、それはどうです?」

 寒河江が、髪が少し後退した神経質そうな男に顔を向けると、彼は着席したまま答えた。

「微妙ですね。代議士の多くは、外国人を含め学生が町に集まると、過疎からなかなか回復できない地元が活気づき、経済的にも潤うという理由で、歓迎している人が大半です。少なくとも与党側は賛成に落ち着きそうです。一方、市民は歓迎と不安が半分ずつと言ったところで、野党議員の反発もまだ強いです。東救光教が詰めかけた影響も大きいようで……」

「与党というと当然あの党も含むんですね」

「あ――はい」

「なるほど、それなら何とかなりそうだが、まだ長引きそうだな。こんなことしている場合ではないのだが……」

 寒河江が顔をしかめた時、ドアが開いた。そこには一人の長身の男が立っていた。

「その問題は解決する」澄んだ声が会議室に響いた。

繭田まゆたさん。帰ってきてたんですか……」

「ああ、たった今、サンタフェから戻ってきたばかりだ」

「で、解決するとは?」

 さっそく、寒河江が聞こうとしたところに野獣が話に割り込んだ。

「ちょっ、ちょっと待ってよ。話を戻そうよ。繭田さん、こいつったら、俺に内緒で、受験志願者の昼食会なんかセッティングしてるんですよ」

 所長の寒河江をこいつ呼ばわりできるのは、畠山だけだ。

「それを指示したのは私だ」

 それを聞いた畠山は再び立ち上がった。椅子が背後に吹っ飛んだ。

「なんですって! どうしてメンバーに俺が含まれてないんですか! 得意分野ですよ」

 繭田機構調整官の前では、一応野獣も言葉遣いを変えるようだ。

「君は危なっかしいので、この任務には向かない。食べるのは君の得意分野だろうけどね」

 畠山は腕を組み、口を真一文字にして拗ねた。横の楠木が転がった椅子を元に戻している間、彼は立ったまま話を続けた。

「だったら、どうしてニンジャなんかが参加してるんですか!」

「忍者? ああ、大野木君のことか。でも、そこは、くのいちと言うべきじゃないのかな」

 彼女は日頃、繭田の秘書のような仕事や、研究所のセキュリティを確認するなどの業務に就いているが、表向きは庶務課所属の一事務員だ。でも、大野木が事務員という職名になっていることなど、多くの所員は知らなかった。

 ――大野木はくのいちなんて可愛いタマじゃないよ、と畠山は言いたいところだったが、繭田の前だったので、その言葉は飲み込んで、楠木が戻した椅子に不機嫌そうに座った。

 そもそも、官吏のくせして、タレントのように、ショルダ()にかかるほど髪を伸ばしたキザな格好をしていることが、畠山はまず気に入らない。さらに、こんな暑い日に、デザインスーツで涼しげにしているのも気に入らない。ネクタイの抽象的な模様も気に入らない。

 もっとも、彼がどんな姿で現れようと、畠山は繭田を気に入ることはないだろう。だからと言って、研究所の全人事権を握っている彼と、下手に諍いを起こすのも嫌だった。彼がいるだけでストレスが溜まる。汗が更に滲み出てくる。

 繭田はキザに歩きながら(と畠山には映った)話し続ける。

「この仕事には、ニンジャとサムライ、それから、少々おっちょこちょいな魔術師が必要なんだ。なにせあの場所は、主争岡しゅそうおか。西救光教の総本山だからね」

 そう言って繭田はゆっくりと彼専用の肘付椅子に座り、更に付け加えた。

「残念ながら今回の任務には、野獣は必要ないんだよ」

 貴様だけにはそう呼ばれたくないよ……とばかりに畠山は、腕を組んだまま、椅子をクルッと回転させそっぽを向いた。


   ◆


「はじめまして。小白川綾子です。こんな私のために色々ご迷惑おかけして済みません」

 少女は深々とお辞儀をした。

「ユズキ君にしても、どうして最近の子供は、こんなに謝ってばかりなのかしらね。そういえば、こないだわたる君も……」

 沙耶葉が呆れながら、少年の方を向いてそう喋りかけた時、無口だった少年が口を開いた。

「綾子さん? もしかして七王トモ君の友達の?」

 その言葉に綾子はびっくりした。

「と、トモ君を知ってるの?」

「うん、僕、水無みずなし渉って言うんけど、あのニュースの日に、列車の中でトモ君に偶然会って、一緒に研究所に行ったんだ」

「元気なの?」

「え?」

「私、あの日からずっとトモ君に会ってないの。お父さんに言われるままにこの街に来て入信してからは、一切連絡が取れなくて……お父さんは県外に出るのも許してくれないし……」

「にゅうしんって、まさか……」

 渉が驚いて言うと、綾子は小さくうなずいた。

「そうか、それであんなメールを……」

「え、トモ君からのメール?」

「いえ、トモ君からも貰ったけど、そのことじゃなくて……」

「話しているところ悪いが……」

 早川が話を止めた。話をしていた二人はあわてて謝った。

「そんなわけで、綾子さんはここから出られない。だから、ここ、主争岡の袋井で昼食会を開くことにしたんだよ。試験について話を聞きたいという人を一緒に集めてね。新潟の水無君を除けば、みんな、研究所よりもここの方が近いことだし、あっちよりもむしろ安全だろう」

 早川が今回の昼食会の主旨を説明した。

「早川先生。あの時は本当にお世話になりました!」

 綾子は再び深くお辞儀をした。

「いや、私はそう呼ばれるのはまだ早いな。それより早く座りなよ」

 早川に促され、綾子が席に座ると、幼い少女がついに我慢できなくなって立ち上がった。

「またライバル出現なのですね!」

 甲高い声が響いた。

「すみません。自己紹介します! わたくし、氏名はさわ雛菊ひなぎくです。まだ十一さいだけど、決して負けません。ライバル同士、試験の時は、みなさん正々堂々戦いましょう!」

「これこれ、ひなぎく……」

 傍らの老人がたしなめた。

「あれ? 確か、あの後、受験資格が、来年の九十二日(四一日)現在で中学二年生以上、という条件に変わったという話を……いや、そもそも、元から十二歳以上だったような……」

 渉がそう言うと、待ってましたとばかりにひなぎくは話を続ける。

「そうなんです! わたくしは入学予定日の三日昔(三日)の八十九日にはちゃんと十二さいになります。だから大丈夫なんです。なのに突然変更になったのです! 忘れもしない、それは二百二十八日のことです!」

 ひなぎくは必死だ。

「東救光教の件もあって、小学生の受験は安全上ちょっと難しい、という話になってね。当初は高校生以上にするという話まで出たんだ。それは阻止できたんだけど……」

 早川が事情を説明した。もし条件が高校生以上になったら、ここに受験資格を持つ子供は一人もいなくなる。

 だが、一人だけ、その条件なら良かったのに――と密かに思う少年がここにいた。中二の森川ユズキである。来年高校三年生になる彼の姉ならその条件でも受験できる。

「どうしてですか? 言葉を覚えるのは早い方がいいはずです。私は英語もできます。ちょっとだけなのは、アイムソーリーです。勇気も持ってます。救光教信者の圧力にも決して負けません! 信者にふみつけられても丈夫な雛菊です!」

 老人がひなぎくに声をかけようか迷っていると、

「あのぉ……」

と渉が声を出した。その視線は、西救光教の信者である綾子に向けられていた。複雑な表情の綾子を見て、すべてを理解したひなぎくは大あわてした。

「いえいえいえいえいえ。わたくしったら、わたくしったら、なんておっちょこちょいのちょこさんなのでしょう! どんな相手でも友だちです。信教の自由はじっちゃんの教えです。すなわち、日本国けん法なのです。だから綾子さんとはもう友だちです。でも、友だちは友だち、ライバルはライバルなのです。とんだライバルなのです。ごめんなさい!」

 手を拳にして弁解するひなぎくは、ひたすら必死だ。

「ふふふふふ……」それは最初は小さな笑い声だった。

「ふふ、ははははははははは…………」

 文字通り、お腹を抱えて笑い出したのは沙耶葉だった。

「あーあ。始まっちゃったよ……」

 早川が頭を掻きながら呆れ顔で言った。

「ふふ、ははははは。ちょっと、ごめ、ごめん、ほんと、ごめん、はははは……」

 その後しばらく、厳密に言えば一分ほど、沙耶葉の笑い声が続いた。

「あの、えっと、えっと、えっと、えっと…………」

 その間、ひなぎくはどうしたらいいのか分からず、立ったまま、「えっと」をこれまた何回も繰り返した。他の少年少女達も、呆然としながら笑い続ける沙耶葉の姿を見ていた。

 ひとしきり笑った後、沙耶葉は大きく息をした。

「はーあ。ごめんね。私笑い出すと止まらないのよ。これじゃあ、私の方が先生失格よねぇ」

「そんなに笑ったら、ひなぎくちゃんに失礼じゃないか。一体、この問題どうするんだよ!」

 早川が声を荒げると、沙耶葉は「は?」と気の抜けた声を出した。

 彼の疑問には大野木が答えた。

「早川さん。実はこの件ですけど、話をしたら、繭田調整官がすぐさまOKを出しまして」

「繭田さんが言えば絶対でしょ。だから問題ないのよ。なんだ、隆之君は知らなかったのね」

「全然、知らなかった……。仕方ないから、ここで三人で頭を下げるのかと思っていた」

「早川さんは例の問題の対応もあって忙しそうでしたので、この件について話す機会を逸しておりました。この件はさして重要な事項でもないので……」

 その時、所員達の会話に少女が割り込んだ。

「重要でないと申されるのですか!」

 突然のその声に大野木はびっくりした。見ると、声の主が肩を振るわせている。

「わたくしには、それは、とっても、とっても、重要な話で、えっ、えっ、えっ……」

 ついには、ひなぎくの目に大粒の涙が……。

「あ、あの……それは、ええと、そうではなくて……」

 何が起きても動じないニンジャ大野木が動揺している。異星人らしい連中が現れた時すら、やっぱり全く動じず的確に対処したあの大野木さんが……。それを思うと沙耶葉はまた……。

「ふ、ふふ、ふふふふ……」

 それを見て、渉が思わず「あ……」と声を出した。

「ご、ひひ、ごめん、はは、おおの、大野木さんの、こ、こんな姿見るの、は、はじめ、はははははは……」

 沙耶葉の笑いが今度も約一分続いた。しばらくしてようやく笑い声が止まり、皆がほっとしたのも束の間、再び笑いが止まらなくなったので、沙耶葉は立ち上がった。

「ははは、ご、ごめん。本当にごめん、ちょ、ちょっと、外出てくる……」

 涙を浮かべたままひなぎくがあっけにとられていると、沙耶葉は外へ駆け出していった。

 軽やかな鐘の音が鳴り、扉が閉まったあと、沙耶葉の大きな笑い声が扉越しに漏れてきた。

「ほんと、困ったやつだよあいつは……」

 早川が再び頭を掻いた時、突然、老人がひなぎくに話し始めた。

「ひなぎく。さっき、汝は『申される』と言ったじゃろ。あれは謙譲語じゃ。大野木さんは無論目上の方じゃ。だからここは尊敬語の『おっしゃる』という言葉を使わなきゃならんぞ」

「は。そうでした、じっちゃん。わたくしとしたことが、大切な日本語でこんな重大なまちがいを……。あの。オーノギ先生!」

 ひなぎくが大野木の前に立っと、

「は、はい?」

と大野木はぴくりと体を動かした。

「もしかして、このようなことでは試験に落ちてしまうのでしょうか。わたくしは、先程はすっかり動ようしていたので、まちがえてしまったのです。ふだんはこのようなまちがいなど決していたしません。弁解がましく聞こえるかもしれませんが、本当にそうなのです!」

 手をぶるぶる振りながら弁解するひなぎくはやっぱり必死だ。

「ええと、それは、私には……」大野木は返答に困っている。

「ふふふふっ……」

 綾子が静かに笑い始めた。渉もユズキも笑い出した。老人も、終いにはひなぎくさえも笑い始めた。早川も一緒になって笑っていると、またもや意外な光景を見た。

 ――あの大野木が笑っている……。約三年間、同じ職場で働いてきたが、彼女が笑っている姿を見るのはこれが初めてだった。

 ユズキもその笑いの中に参加していたが、しばらく笑っているうちに、こんな場面でさえも、きっとお姉ちゃんなら絶対笑わないだろうな、とふと思った。それを思うと不安になり、彼の笑いはだんだん収まっていった。

 店内の笑いが収まる頃、ふらふらになって沙耶葉が戻ってきた。そして、ひなぎくの前に立って深々と頭と下げた。

「ひなぎくちゃん。ほんとーに、ほんとーに、ごめんなさい。悪気はないの。ほんとよ」

「はい、よくわかりました。さやは先生の弱点が!」

「へ?」

「試験の時には、さやは先生のこの弱点をしっかり狙うことにします」

「か、かんべんしてー」

「冗談です」

 また笑いが起きた。笑いながら、綾子は、トモに初めて会った日のことを思い出した。

 ――あの日もこんな感じで笑ったなぁ……。

 その時、マスターが声をあげた。「さて、そろそろ料理の方、出しましょうか」

「お、お願いしまぁーす」

 笑いすぎてすっかり疲れきった沙耶葉が、声を振り絞って叫んだ。


   ◆


 会議が終わり、畠山は不機嫌そうに通路を歩いていた。大股で歩くその斜め後を、楠木=サンダースが小走りぎみについて行く。畠山の足取りは重いがどたどたと音がする。床には消音処理がなされているはずなのに。

「よかったじゃないですかぁ。例の拉致未遂事件の影響でぇ、東救光教もぉ、すっかり大人しくぅ、なったわけですしぃ」

 にこにこしながら楠木が言った。

「ちっとも良くねえよ。昨日と今日届いた受験申込メール、サンダースだって知ってるだろ」

「えっと合わせて……約八百人でしたよねぇ。いっぱい届いて嬉しいじゃないですかぁ」

「貴様は阿呆か!」

 畠山は立ち止まり、楠木を睨みつけた。思わず楠木も足を止めた。

「昨日届いたのは約五五〇人。今日届いたのは約二五〇人。どちらも、数分の間に一気に届いたものだぞ。それがどういう意味か、貴様には分からないのか?」

「えっ? あっ、そうかぁ……あれは救光教のぉ……」

「そうだ。一方が西救光教で、もう一方が東救光教の信者達の受験申込だってことだ!」

 畠山は吐き捨てるように言った。

「どうせ使えない連中ばかりなクセに、全く、無駄な手間ばかりかけさせるんじゃないよ。大量の書類チェックをするのは俺達なんだぞ」

「うひゃひゃひゃぁ!」

 体をくねらせながらの気持ち悪いリアクションを、畠山は気にする様子もなく話を変えた。

「それよりもだ! 昼食会だよ! 昼食会!」

「昼食会?」

「忘れたのか。綾子ちゃんの昼食会だよ! マユの野郎は俺なんか要らないなんて言ったけど、やらなきゃならない大切な役目を俺だって持ってるんだ」

「役目? え、何ですかぁ?」と馬鹿っぽく楠木は訊いた。

「天才少女綾子ちゃんへの特製プレゼントを渡す役目だよ!」

「プレゼント? あ、それって机に置かれてた空色の本ですよねぇ」

 畠山はぎょっとして、楠木の胸ぐらを掴んだ。

「な、なんで貴様……、そんなこと知ってるんだ?」

 そう言って脅すように楠木の体を揺すった。そんなことなど日常茶飯事なので、楠木はいつものように毛深い右腕に体を預けたまま、話を続けた。

「や、たんから聞いたんですよぉ。その本でしたらぁ、ヤハたんがぁ、持っていきましたしぃ。だから大丈夫ですよぉ」

「ナニィ! せっかく俺が苦労して探してきたのに……」

 楠木を突き離して、畠山はその場にうずくまった。

「そして、俺から美少女綾ちゃんに直接渡すつもりだったのにー!」

 野獣の雄叫びが、通路に響き渡った。

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