第9話 信者の暴走

 教室の外では、数学教師の高原がおろおろしながら待っていた。彼女が過激な信者を校内に招き入れてしまったのだ。

 この付近に住む東救光教の信者達は、以前から、この中学校の一人の生徒をずっと監視し続けていた。その生徒とは七王トモのことだ。

 きっかけは、トモの母、七王あずさが、日本の失われた言葉の研究者であったことだった。彼女の様々な研究論文や発表は、常に救光教信者を刺激した。そして、いつしか信者の何人かが七王家に赴き、監視するようになったのである。

 しかし、彼女は佐世保の遺跡調査に向かい、そのまま消息を絶ってしまった。それからは、信者達は、残された家族、つまり、夫の和人と息子のトモを、監視するようになった。

 和人は、あずさが失踪してからの数年間、事件の真相を求め、警察を含め色々な所を駆けずり回っていた。しかし、妻の研究を引き継いだり、遺した研究成果を公にすることは一切なかったので、信者達の彼に対する警戒心は次第に薄れていった。

 一方、息子のトモは、宇宙に対する好奇心を周囲に隠さなかった。それは、宇宙をモチーフにした日頃の服装からも容易に類推できた。信者は更に、トモが失われた衛星(月)にも興味を持っている危険性を恐れていた。だから、要注意人物として監視し続けてきたのである。

 そして、この日突然、異星言語科学研究所のニュースが報じられた。トモの動きが気になった信者達は、信者の高原に手引きさせ、学校に潜入したのである。

「七王トモはどこへ行った!」

 リーダー格の男が、厳しい口調で翔に訊ねた。

「し、知らないよ。今日は休みなんじゃないか?」

 翔はトモを庇った訳ではなかった。遅刻したので、朝、トモが来ていたことを知らなかったのだ。

「嘘を言うな! 家にはいなかったぞ」

 それを聞いて綾子は驚いた。

 ――トモの家も調べていたの? どうして?

 その時、信者の一人が、床に開いた本を発見し、大きな声をあげた。

「わ、若葉様! 足下に何かが!」

「どうした?」

 若葉は落ちていた本を拾い上げた。所々、文字に蛍光色で印が付けられているが、その言葉はどれもこれも……。

「ぎ、ぎゃああ!」

 教室に叫び声がとどろいた。狼狽ろうばいした若菜は、顔をそむけ、瞼と本を同時に閉じた。

 そして、深呼吸した後、再び目を見開き、翔を厳しく睨んだ。

「何だ、このいかがわしい本は! 貴様のか!」

「ち、違う。それは、あや、綾子の……」

 翔は震えていた。

「綾子というのはそいつです!」

 白装束の一人が少女を指差して叫んだ。指の先の綾子がぴくりと体を震わせた。

「こいつ、昔、七王の家に来ていたのを見かけました。きっとヤツの彼女です」

「貴様か!」

 若葉の鋭い視線が綾子を突き刺した瞬間、少女は血が凍るような戦慄を覚えた。

「こんないかがわしいものは……火だ!」

 若葉がそう言うと、隣の信者が棒状の着火装置を取り出した。本にそれを近づけると、一気に燃え上がった。若葉は顔を歪めながら、それを床に投げつけた。黒い煙を出しながら、本はめらめらと燃えていく。

 綾子は思わず口に手をあてていた。目からは大粒の涙がこぼれ落ちている。その涙は恐怖のためなのか、それとも大切な本が燃やされる悲しみのせいなのか、綾子には分からなかった。

 火災報知のアラームが鳴り響き、教室は騒然となった。女子生徒が声をあげ泣き出した。

「引き上げだ! 貴様は来るんだ」

 若葉は、そう言って綾子の前に近づいた。そして、涙で顔を濡らし、自失呆然となっている綾子の腕を強く掴んだ。その瞬間、少女は恐怖のあまり気を失い、そのまま若葉の体に寄りかかった。若葉は、綾子を体格のいい別の信者に抱き上げさせ、教室から出ていった。

 外で待っていた高原は、教室から飛び出してきた信者達と少女を見て、驚いた顔で叫んだ。

「この子は、こ、小白川さん! 若葉様……こ、こんなの、話が違います!」

「こいつは危険人物だ。教会でじっくり調べる!」

「そんな……生徒の様子を確認するだけだって言ったのに……」

 高原は泣きながらその場にへたりこんだ。男達は、そんな高原に構うこともなく、廊下を早足で駆けていった。あっという間に彼らの姿は見えなくなった。

 本は燃え続け、教室には煙が充満していた。一時は呆然としていた生徒達だったが、信者が教室を去ると何人かが平静を取り戻し、まず、急いで窓を開けた。そして一旦教室の外へ逃げた。災害への対処に慣れた生徒が多かった。

 煙が戸外に抜けていくのを確認すると、一部の生徒が教室に戻り、燃え上がる本の周りを取り囲み、消火器でその火を消した。あっという間に火が消えたが、綾子が手に入れた貴重な辞典は、すっかり黒焦げになっていた。

 その間、翔だけは、色を失なったまま、床に座りこんでいた。腰が抜けていた。

 警報音が止む頃になって、ようやく教師達が駆けつけてきた。見ると、生徒が廊下に集まり騒いでいた。煙が廊下側にも少し漏れ出していた。

「どうした!」

と担任が生徒達に訊ねると、

「綾子が……綾子が拉致された!」と男子生徒の一人が答えた。

「なんだとぉ!」

 普段は全くと言っていいほど緊張感のない担任が、今まで見せたことのない形相で叫んだ。

 その直後、「ご、ごめんなさい……みんな私のせい!」

 その場にへたりこんでいた数学教師の高原が、すすり泣きながら叫んだ。


   ◆


 綾子を抱え四人の信者達は、素早く校門を通り抜け、中学校の隣の公園の遊戯施設に潜んだ。若葉は携帯で迎えの車を呼び、その場で車が来るのをじっと待った。

「こんなことなら、先に車を待たせておけばよかった!」

 止めるよう進言する者はいなかった。少女を連れ去るというとんでもない罪を犯したことを信者らは誰一人として冷静に受け止めることができずにいた。

 綾子は気を失ったまま、横たわっていたが、しばらくして意識を取り戻した。自分を見下ろす信者達の姿に、あわてて立ちあがり逃げようとしたが、公園の広場を少し走ったところで、追いかけてきた信者に腕を掴まれた。

「放して、放して!」

 綾子が叫びながら、男の腕を振りほどいたその時、上着の内ポケットにしまっていた小さな手帳が落ちた。

「な、何だこれは?」

と信者の一人がそれを拾い上げた。

「それは駄目!」

 必死になって手帳を取り返そうとしたが、たちまち取り押さえられた。

「見せろ!」駆け寄った若葉が、手帳を信者から奪い取り中を見た。

 それは綾子が放送禁止語辞典を読み、解ったこと、推理したことなどをまとめたものだった。信者が嫌う言葉がそこにはびっしり書きこまれていた。

 しかも、若葉が続いて開いたページに、よりによってあの字が大きく書かれていた。

「うわあああー!」

 網膜に焼き付いたその字に、一段と大きな悲鳴をあげ、夢中で手帳を遠くに投げ捨てた。

「こ、こんな、こんなこと……」

 錯乱状態で「貴様あ!」と綾子に掴みかかった。両手でその首を絞め、喉をからし叫んだ。

「その、その紙の手帳を……早く、早く燃やすんだ!」

「や、やめて……」

 綾子は体を揺さぶって必死に抵抗しようとしたが、だんだん、意識が遠のいていった。

 その時、遠くから大きな怒号が響いてきた。

「――おい! そこで、何をしている!」

 信者らが声の方角を見ると、全速力で駆けてくる男の姿があった。男は公園の柵を跳び越え、若葉に駆け寄り、まだ夢中で綾子の首を絞め続けているその顔を力一杯殴った。

 両手が綾子から離れた。若葉はその場に倒れ、気を失った。口から血と泡が吹きだした。その腕から離れ倒れていく綾子を男は受け止めた。

「貴様ら、これはどういうことだ!」

 感情を露わにして叫んだその男の名は、早川隆之といった。小柄だが、筋肉質の男だった。彼は異星言語科学研究所の研究者であり、寒河江所長の指示で、この中学校にやってきたのだ。

 倒れたリーダーの姿を見た信者達は、急いで早川の反対方向に逃げようとしたが、そこには一人の少年が立ち塞がっていた。

「――待ちなよ」

 少年は、まず、一人の信者に足を掛け、そのまま背負って投げ飛ばした。男は背中から地面に叩きつけられた。受け身も学んでいないようだ。痛みにもがいている。続いて飛びかかってきたもう一人の男の腕をはねのけ、鳩尾にパンチを一発食らわせると、その男も咳きこみながら膝を落とし、そのままその場に倒れた。

 その直後、残りの一人が少年の背後から襲いかかろうとしたが、今度は小柄な早川が飛びつき首を締め上げた。もがきながら、信者は早川の腕の中で気を失った。

 綾子はその場に座りこんだまま、二人の見事な格闘を凝視し続けていた。

 早川は、腕の中の男を地面に投げ捨て、熱血教師のような爽やかな笑顔で少年に声をかけた。

「感謝するよ。助かった。私は異星言語科学研究所の早川という者だ。君の名は?」

 研究所だと? 少年は心の中ではかなり驚いたが、相手にそれを悟られることなく、落ち着き払って答えた。

「オレの名は一ノ瀬……タカト……」

「見ると君も中学生のようだが、ここの生徒かい。こんな時間にどうしてこんな所に……」

「――いや、別にここの生徒じゃないんだけどな。今日は十早に放送されたちょっとしたニュースのせいで、親に学校に行くなと言われてよ。そういえば、それって、確か……」

「うちの研究所の研究生募集のニュースだよな」

「そうそう。でも、家にいてもつまらないからこの辺を走り回っていたんだよ。こいつでさ」

 そう言って右足を上げ、靴の裏の電磁ローラーを見せた。可変音をあげローラーが回転した。

「そう……か」

 早川は少年の返答に違和感を感じていた。他校の生徒が何故ここにいる? しかも、事件に出くわし信者の逃亡を防ぐのを手伝ってくれるなんて、偶然にしてはあまりにも出来すぎた話だ。彼は嘘を吐いている気がする。しかし、どんな嘘を?

 確かに彼は嘘を吐いていた。彼の親は今やタカトに意見することなど一切なく、この日も学校へ行くなと命令することもなかった。タカトは、組織に与えられた部屋でニュースを見た後、自宅へ一旦戻り、親に外へ出ると一声かけてから、ここに来たのだった。

「そのうち、警察も来るだろうから、ちょっと待っていてくれるかな?」

 とりあえず、早川はそう言った。

「やだよ、めんどくさいし……。オレこれ以上巻きこまれたくないからもう行くよ」

「そうか……分かった。気をつけて帰れよ」

 早川はそれ以上問い質すのはやめた。自分は警察官ではないし、調べれば彼の身元は判る。そもそも、自分を手助けしてくれた彼をこれ以上詮索する気持ちにはなれなかった。

 タカトが無言で走り去ろうとしたその瞬間、綾子がやや弱々しい声で話しかけた。

「――どなたか知りませんが、本当に何とお礼してよいやら。えっと、私は小白川綾子といいます。またお礼させてください」

 タカトはその声に一旦立ち止まったが、振り返ることもなく、軽く手を振った後、再びローラーを滑らせ去っていった。

 それを少し見送った後、早川は、今度は綾子に訊ねた。

「小白川さん。こんなことになった原因は、きっと十早のニュースだろう。本当に済まない。迷惑をかけてしまった。研究所の人間として謝る」

「いえ、私がうっかりしてたんです。私こそクラスのみんなに迷惑かけちゃって……」

 綾子は、それを言った瞬間、涙がこぼれてきた。

「どうした? どこか痛いのか」

「い……いえ、大丈夫です。ただ、ちょっと大切な本が燃やされちゃって。手帳も……」

「これか?」と言った早川が、綾子の手帳を手に持っていた。

「あっ!」

 その手帳を見た瞬間、少女が少し元気になったのを早川は感じとった。

「中を見てもいいかな。大丈夫、後で必ず返すから」

「あっ、は、はい!」

 中身を見ると、そこには、失われた言葉に対しての様々な考察がまとめられていた。

「こ、これは……」

 読み進みながら、その調査力、分析力、そして鋭い推理力に驚いた。日本語から何が失われたのか、かなり的確に言い当てている。これは立派な研究レポートじゃないか。大学生だってこんな見事なものを書く者は滅多にいない。言語学者の早川は、興奮ぎみにページを捲り続けた。そして、『月』という文字が書かれたページを見た瞬間、苦笑した。

「ははあ、これじゃ信者が黙っちゃいない訳だ……」

 早川がどこのページを見ているのかが、綾子にもすぐに解った。

「済みません……」

「いや、全然謝ることはない。これは日本の失われた言葉の大変立派な研究レポートだ」

「そんな、大袈裟な……単に考えたことを纏めた下らないメモです」

 口では謙遜しながらも、自分の研究を初めて褒められたことが綾子には嬉しかった。

「これは、ぜひ生駒……いや七王先生に見せたいよ」

「――七王……先生?」

「あ、私を指導してくれた言語学の先生だ。今はもう……いないのだけど……」

 早川は少々興奮していたので、他人に言うべきでない名前をうっかり言ってしまった。

「もしかして、七王あずささんのことですか」

 早川は彼女の言葉に驚いた。

「な、何故その名を……」

 そしてしばらく考えた。

「そうか、彼女の論文を読んだんだね」

「いえ、そうじゃなくて、トモのママの名だから……」

「トモ? あ、ああ、七王先生の一人息子の――もしかして、君のクラスメートかい」

「はい。友達です」

「それで、七王先生から、失われた言葉のことについても、色々聞いたんだね」

 色々と訊いているのは早川の方だが、逆に、綾子に色々と情報を与えてしまっている。

「失われた言葉……いえ、私がトモに初めて会った時には、すでにトモのママはいませんでしたから、私は会ったこともないんです」

 早川は再びしまったと思った。結果的に、七王先生が失われた言葉を研究していたということを、たった今会ったばかりのこの少女に教えてしまったのだ。

「じゃあ、先生が行方知れずになった……ことは知っているのかい?」

「はい。でも、必ず生きているとトモは言ってました。私もそう思います」

 少女は力強く答えた。

「そ、そうか……」

 失踪後七年経った今も、彼の息子が母の死を信じていなかったことに早川は驚いた。確かに先生は今も生きてはいる。しかし……ある思いが早川の脳裏によぎった時、その表情の変化を少女は見逃さなかった。

「やはり生きているのですね!」

 綾子の目が輝いた。

「いや、そんな……私は何も知らない……」

 とっさに否定したが、早川には動揺を隠せた自信がなかった。

 ――一見すると素直で大人しい普通の少女だが、全く油断できない。並はずれた分析力と推理力、そして、この少女は人の心を瞬時に読みとる力も持っているのではないか……。

「あの、お願いしたいことが……」

 その言葉に、早川は精一杯平静を繕いながら、「あ、ああ――何か?」と答えた。

「できれば、その手帳、預かってもらえませんか?」

 少女は早川が持っている手帳を見て言った。

「えっ?」

 拍子抜けした。当然、先生の安否についてさらに訊いてくると思っていたのだから。

「今、私が持ってると、色々と困ることになる気がします」

「ああ、確かにそうかもしれない。じゃ、私の連絡先を今から、君の携帯に転送するから」

「済みません。私、普段あまり携帯は持ち歩いていないんです。早川さんは信頼できそうだし、落ち着いたら、私から研究所に取りに行きます」

「研究所か……。そうだ、君、試験を受けないか……」

「はい?」

 その時、遠くから綾子を呼ぶ声がした。ようやく、教師達が駆けつけてきたのだ。クラスメートの少女達もいる。女生徒の一人が泣きながら走り寄り抱きついた。綾子はひたすら謝りながら一緒に泣いた。

 汗を拭い、早川はその様子をほっとしながら眺めていた。


   ◆


 トモは帰りの高速列車の中で、綾子が無事だったことを再びクラスメートから聞いた。さらわれたという第一報を聞いてから、既に一時間が経っていた。

 知らせが届くまでの間、トモは学校やクラスメート、そして綾子の自宅に何度も電話をしたが、全く繋がらなかった。それは相手も同じだった。ようやく掛かってきた電話は、次の言葉で始まった。

「トモ君なの? 良かった、ようやくつながった。今まで全然つながらなかったの……」

「えっと、あの、綾子は、綾子は……」

「無事よ。あの後すぐに助けられたわ」

 トモはほっとした。目に涙が浮かんだ。

「でも、もう担任に付き添われて帰っちゃったの。もしかしたら、今、警察で調書を取られてるかもしれないわ。私たちも集団で下校して、今、家に着いたばかり」

 とりあえずトモは少女に事件の概略を訊ねた。そして、日頃よく見かける白装束の信者が、事件を起こした犯人だったことを知った。信者に首を絞められたという話には胸が詰まった。大きなショックを受けていないか心配だった。綾子は学校に携帯を持っていかないので、再び、自宅に電話をかけたが、こちらは未だに繋がらない。

「現在、ご指定のお相手先へは、おつなぎすることができません」

 何度掛けても、乾いた音声メッセージが繰り返し流れた。実は、綾子の自宅への通信は、停止されてしまったのだ。更に、この日は全国で通信回線の混雑が発生していた。

 トモは、研究所の施設を何一つ見学できなかったのは残念とは思ったが、それよりも、襲われた綾子の様子が気がかりだった。家へ行くしかない――トモは思った。


   ◆


 綾子の自宅に着いた頃には、既に日も暮れかかっていた。押し寄せたマスコミ各社も撤収し、護衛の警官数名を残すのみだった。

 玄関に向かって歩いていくと、またもや警官に止められた。今日何回目だろうか。

 トモは息を弾ませながら言った。

「小白川さんのクラスメートです。会わせてください!」

「今日は駄目だ。帰りなさい」

 警官の冷たい返事が返ってきた。

「綾子ちゃんの姿を見るまでは帰れません!」

 警官と押し問答をしていると、玄関のドアが開き、男が出てきた。綾子の父親だった。

 トモは父親に駆け寄った。

「おじさん、綾子ちゃんは大丈夫で――」

 突然、父親の拳が顔を直撃し、トモはその場に倒れた。

「こ、小白川さん! 何を……」

 警官達もあわてて駆け寄った。

「聞けば綾子が襲われたのは、信者が貴様を探していたのがきっかけと言うじゃないか。そもそも宇宙などに興味を持つ奴が、綾子と仲良くしているのは昔から不安だったんだ!」

 痛みに思わず目を閉じていたトモだったが、その言葉に目を見開いた。自分がやっていることはそんな悪いことなのか……。目が合った。

「貴様の顔など見たくもない。さっさと帰れ!」

 綾子の父は吐き捨てるように言った。

「あなた。今、何もそんなこと……」

 後に綾子の母が姿を見せていた。トモはゆっくり体を起こしながら言った。

「あ……綾子ちゃんは大丈夫ですか……」

 口元から血が流れた。

「少し疲れているようだけど、大丈夫、元気よ。ひどいことしてごめんね……」

 その言葉は、トモを明るくさせたが、厳格な父がそれをとがめた。

「貴様は黙っていろ! とにかく、もう金輪際、綾子とは会わないでくれ。ここも引っ越す。学校も転校させる!」

 一度は安堵の表情を浮かべたトモだったが、その怒号に返す言葉もなかった。

 トモの長い一日が終わった。

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