第4話 小白川綾子

 その日、小白川こじらかわ綾子は、いつも通りとても朝早く登校した。だから、八時に報じられた重大ニュースのこともまだ知らずにいた。一番先に教室に入り、これまたいつも通り、ある書物をこっそり読んでいた。

 珍しく紙に印刷されたその書物は、手製の綺麗な刺繍ししゅう入りの布製のカバーに包まれている。一ページ目には、某放送局名と枠で囲まれた社外秘の文字。書物にタイトルはない。

 その本の内容は、中学生にはかなり刺激が強いものであった。もし、彼女のやや厳格な父親が発見したら、すぐに本を破棄し、その後、厳しく彼女を叱りつけるだろう。

 だから綾子は、誰にも見つからないように、少し厚めのその本を肌身離さず持ち歩き、深夜や、朝早くにこっそり読んでいるのである。その彼女の『十早とはや(朝)の習慣』は、クラスメートの中の何人かには、とっくにばれていたのであるが……。

 その書物には、彼女のような真面目な女子学生が読むのには不似合いな、卑猥な言葉が多数含まれていた。それは書物としてはあまりにも非常識な量だったが、その書物にとっては必要な量だった。差別用語もたくさん載っていた。

 彼女は、目に入るものはしっかり読む律儀な性格なので、結果として、それらの言葉の知識が、同年代の誰よりも遙かに多く蓄積されていった。

 しかし、彼女の関心はそれらとは全く別のところにあった。

 その書物は、ある放送局の『放送禁止語』を集めたものであった。古い本で、今はもう現場では使われていない。友人の祖父の遺品の整理を手伝った際、譲り受けたものだ。

 それはまるで辞書のようなフォーマットになっている。単語が五十音順に並んでおり、その後に、その言葉の言い換え方や簡単な説明が書いてある。それぞれの単語は、《放送禁止》《アナウンサーは禁止》《避けた方がよい》《好まない人もいる》《当社では問題なし》という五つのランクに分かれていた。

 卑猥とか、差別的な理由でリストアップされたものの他に、漢字に直すと月を含んでしまう言葉がその本には含まれていた。綾子の関心はそこにあった。但し、直接月を含む漢字で書かれた単語は一つもない。それは、日本ではすべて社会的に禁じられてしまったのだ。特殊な用途で作られたこの本でさえもその例外とはならない。

 月が含まれていた言葉を判別するのは比較的容易だ。卑猥語や差別語は、その後に書かれた説明で大抵判別できる。したがって、その残りの、どうして禁止なのか良く解らない言葉が、それであると大体考えてよかった。

『あさ』や『まえ』、『あかるい』などは、使用が完全に禁止された言葉だ。

 体の部分や臓器を示す言葉も、軒並み放送禁止語としてリストアップされており、この時代、それらは大半が外来語に言い換えられている。

 漢字では『蒼』や『碧』などと書かれる『あお』という発音は、アナウンサーが青色を表現するのには使ってはいけないとされた。それは、そもそもは、読み上げると月を含む『青』という文字を想起してしまう人がいたためだった(そんな日本人は、もうこの時代には少なくなっていたが……)。それらは『そう』とか『へき』と読むのが正しいとされた。

『ムーン(moon)』は《避けた方がよい》言葉に含まれるが、アメリカとの外交に配慮して、禁止にはなっていない。同時に、三日月など月を象ったものを含むマークなども禁じられていない。これはアラブ諸国への配慮だ。

 一方、月を含む漢字を遠慮無く使用する中国等とは、外交関係が拗れてしまっていた。

 また、『用』『済』『備』などを含む言葉は、《好まない人もいる》言葉に含まれる。しかし、例えば『使用』などは、普通に学校や日常で使用する言葉であり、それらを使わないのは、具体的に言うと、東救光教ひがしきゅうこうきょうの信者達ぐらいだということは、中学生でも知っていた。これらの言葉を許すか許さないかで、この宗教は西と東に分裂したのだと綾子は聞いたことがあった。

 綾子は、この放送禁止語『辞典』を眺めながら、三〇〇年前には存在したおびただしい数の単語が、どうやって一つ一つ失われていったのか、その経緯等に思いを馳せるのが、楽しくて仕方なかった。少し後ろめたい思いを抱きながらも止められることではなかった。それは趣味というより、もはや研究の域に達していた。彼女はその研究成果を紙の手帳に記述し、肌身離さず持っていた。

 文章を筆記具で紙に書く行為は、その時代には珍しくなっていたし、学校で書き順を学ぶこともない。書道などという教科も失われていた。それでも、彼女は敢えて研究成果を筆記用具で紙に残した。

 一つの理由は、字を書くこと自体が好きだったこと。そしてもう一つの理由は、デジタルで残せば、知らないうちに誰かが盗み見るかもしれないと思ったからだ。

 でも実際は、何人かのクラスメートにその手帳は覗かれていた。

 その迂闊な綾子は、その日も、本に熱中している最中に、仲良しのクラスメートに背後から、「わっ!」とおどかされた。そして、その後に研究所のニュースを初めて知ったのである。


「綾ちゃん。異星人ってやっぱりいたんだね。異星言語ってどんな言葉なのかなあ」

 でも、綾子にとっては、異星人や異星言語の話よりも、『ツキ』という言葉が放送されたことの方が、よっぽど驚きであり、同時にとても嬉しいことだった。もしかして、自分のこの趣味を、この研究を、堂々と発表できる日がいつか来るかもしれない……。

 それと同時に、綾子は親友のトモのことを思った。

 七王トモ、その名字の『七王』は、『亡王』が変化したもの――という仮説を綾子は立てていた。『亡王』では、亡くなった王という意味になり、印象が良くないので、『七王』に変わっていった――彼女はそう考えた。

 綾子は、放送禁止語辞典の『のぞむ』の項を読んでいる時にその仮説を思いついた。

 そこには、《『臨む』の場合は使ってもよいが、もう一つの意味としての『む』は使ってはならない》と書かれていた。そして、その使ってはならない言葉の方の補足として《時に『亡王む』とも書かれる》という記載があったことに、綾子は注目したのだ。

 その言葉は、『観覧する』とか、『願う』などに言い換えるべきと、その辞典には書かれていた。だからきっと、この『のぞむ』の『のぞ』は元は月という形を含む一つの漢字だったのだろうと彼女は考えたのだ。

 その『のぞむ』という字がどんな形をしているのか、綾子は知らなかったが、トモの名字は昔はきっとその字だったのだろうと推測した。一方、自分の名字の『小白川』は昔からずっと小白川だったに違いない。そう思うと、ちょっとトモのことが羨ましかった。

 確かに彼女の推理はかなり当たっていた。しかし、彼の名前には、彼女の推理した一つの月に加えて、あと三つの月、合計で四つの月が含まれることは綾子にも全く想像できなかった。

 彼が祖先から引き継ぐはずだった名字は『』であった。そして、彼の本来の名は『』。それは、彼の母、あずさがつけた名だ。『七王トモ』は本当は『』であった。


   ◆


 そのトモは、始業時刻ぎりぎりに息を切らせながら教室に飛び込んだ。すると、彼の前に、「十早とはやのニュース見たか?」などと、クラスメートが何人か集まってきた。トモが宇宙大好き少年なのは、誰もが知っていた。

 そして、クラスメート達が、もったいづけながら、代わる代わる異星言語科学研究所のことを話した。みるみるうちに少年の目に輝きが増していき、しまいには、感激のあまり涙さえも溢れ出ていた。研究所の場所も聞かずに、トモは声をあげながら教室を出ていった。

 その様子に、いかにもトモらしいな――と綾子は感じた。そして、

 きっと入学するんだろうな。ちょっと淋しいな――と、トモの父と同じことを思った。

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