第3話 森川ゆみち

 森川ゆみちは、将来の進路に一応の結論を出したばかりの頃、家族と共に食事をしながら、そのニュースを見た。

 今年になってから、ゆみちは何か語学を学んでみたいと思うようになっていた。元旦、賽銭箱に小銭三百五十七円をじゃらりと投げ込んだ時、ふとそうひらめいた。

 そして、一五八日(六月六日)の夜、特に親しい友達のいないゆみちは、両親と弟とで誕生日をささやかに祝っていた。

 ケーキに並ぶ十六本のろうそくの炎をぼんやり眺めながら、ゆみちは考えた。

 ――やっぱり、なんか新しい言葉を学びたいな。そろそろどれにするか決めなきゃ……。

 来年は高校三年生。そろそろ進学のことを真面目に考えなければならない時期だった。

 その国の人と話せるとか、就職の際に履歴書に書けるとか、そういう時にも役立つだろうけど、それよりも、ただ純粋に、他の国の言葉が学びたいな。だから、とにかく語学を学べる大学(別に短大でもいいや)に進みたいな……。

 二十日ほど昔(二十日ほど)の初めての進路指導の時、そんな話をしたら、担任は、そんなゆみちの考えに全面的に賛成してくれた。でも、何語を勉強したいんだ? とかれると、はて何にしようか、その時は全く思いつかなかった。

 英語は苦手じゃないけど、学校で嫌という程勉強させられてる。そうなると、まずはオーソドックスなとこでフランス、ドイツ、ロシア? それとも、少しマイナーなスペイン、イタリア? でも、そんな国々の文化にも社会にもあんまり興味ないな。まぁ、欧州のブランド物は結構好きだけどさ……。国交がない中国なんかも面白そうだけど、使ってる字が日本と同様漢字というのが、かなり不満だな。そういえば、韓国は文字の形が面白いな。

 よく考えてみたら、ゆみち的には、既視感を抱くような言葉が嫌なんだ。結構嫌。かなり嫌。絶対嫌。そうなると、英語に似ているヨーロッパの言葉も全部嫌……。

 自らの吹く息がろうそくから炎を奪ったその瞬間、

 ――韓国語もいいけど、文字を右から書くアラビア語がいいかな――そんな思いが湧き出てきた。それが十六歳を迎えたゆみちの決意だった。

 誕生日の三日後、二回目の進路指導の時、その気持ちを伝えると、

「え、アラビア語学科を設置している大学を受験したい? そりゃいいね」などと、担任は全面的に賛成してくれた。でも、その理由を聞かれて、

「だって、全然その言葉に馴染みがないから……。文字を右から書くのも面白いし」

と答えたら、変な顔をされた。

 その後、担任から、アラビア語文化圏の慣習とか宗教の難しい話を色々されて、アラビア語を使う人達って、そんなになんか色々と拘るの?――とちょっと驚いた。

 家に帰って両親に話すと、今度はいきなり怪訝な顔をされた。ママは国旗がどうとか言ってたけど、やっぱを気にしてるのかな……。でも、結局反対はされなかった。

 なんかちょっと不安だけど、アラビア語でいいか……。

 さっそく、アラビア語入門の本も買ってみた。結構面白い。何故か解らないがすいすい頭に入る。こんなに適性を持ってるとは思わなかった。こないだは、通りすがりのピザ配達のヨルダン人とアラビア語でちょっと話ができちゃった。兄ちゃんはすんごい嬉しそうだった。ゆみち的にもとっても嬉しかったから、頼まれるままにお金を貸してあげた。

 そんな訳で、ゆみち的にはそれで決まり! そういう結論が出ていた。さっきまでは……。


 でも、ゆみちはその日、ニュースを見てしまった。

「――国際社会文化研究所では、今回、新たに異星言語を学ぶ生徒を公募することに……」

「いせいげんご――」

 人と話す時でさえ、いつも、ぼそぼそと抑揚なく喋るゆみちは、その時も抑揚なくアナウンサーの言葉を繰り返したのだが、実はその言葉を聞いた瞬間、結構大きな感動を覚えていた。甘美な響きだな――とさえ感じていた。

 一方、両親は、ニュースの内容に驚愕していた。『』という言葉に酷く動揺したのだ。

「つ、つ、ツキ……そ、そ、そんな恐ろしい言葉、どうしてニュース番組なんかで……」

 あれ? いきなり泣き出してる……。ママ、かなりやばいな。

「おちつけ、光子! しっかりしろ!」

 そういうパパも、全然落ち着いてない。「しっかりしろ」という言葉を繰り返しているだけ。そんな貴様こそオチケツ……。

 ユズキはテレビの電源を急いでオフにしている。そうか、それが先だよな。

「救急車、呼ぼうか」

「だ、駄目だ。きっと、今、日本全国でパニックになってる……一一九はきっと繋がらない」

 パパはわりと沈着なんだな。取り乱したママにおびえているだけなのかな。

 こんな状況で、異星言語科学研究所で勉強したい。異星言語を学びたい――などと言ったら、両親はどうなるだろうか。でも……。

「――異星言語が学びたい」

 そんな言葉は叫び声にかき消された。ゆみちのその声もやはり抑揚なく小さかった。

 パパは、急いでソファーにママを寝かせている。ユズキは氷枕を用意している。でも、え、冷やすの? 何で?

 私も何かやった方がいいのかな。でも、それより、今は、この自分の素敵な気持ちを言葉として発したい。こんな甘美な気持ち初めて……。ああ、今ならいつもは出ない声が出せそう。で、出る、やれ出る、今出る……。

 ゆみちはちょっと常人には理解し難いところがあった。その性格は、日常生活上はあまり大きな問題にはならなかったが、それでも時折、小さなトラブルを起こすことがあった。友達もまともにいない一つの原因はその性格だった。

「イセイゲンゴカガクケンキュウジョでベンキョウしたいノ!」

 その時、信じられないほど大きな声が出た。

 それに驚き、気を失いかけていたゆみちの母ですら、一瞬、体を起こしたほどだった。そして、その後、完全に気絶した。それにつられるように父も同じく気絶した。

 次々に気絶する両親を眺めながら、結構言いにくい言葉なのに、何だかやたら舌(滑舌)よく発声できたなと、ゆみちは感じていた。

「お姉ちゃん!」

 ユズキが大声で叫んだ。姉はいつもボーっとしてるので、いつもついつい大声で呼ぶのだけど、この日は特に大きな声になった。

 ユズキは、姉のことを、ルックスはそんなに悪くない、成績も悪くない。行動力もわりと持ってる。英語だけでなく、アラビア語を話せるのも凄いし……。でも、いつもぼーっとしているのだけがどうもイマイチだな、と思っていた。

 他にも姉にはたくさんの問題があるのだが、それはともかく、ユズキはそんな姉がこんな溌剌はつらつとした声を発したことに驚いていた。異星言語科学研究所で学びたいと言ったことよりも、そのことに驚いた。ちょっとした感動だった。何だか舞台女優っぽかったと思った。

 その時、弟ユズキは、姉のその思いを全力で応援することに決めた。

 一方のゆみちは、その様子に、ついにユズキにも見捨てられたのかな――と勘違いしていた。

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