「蟲」

 最近わたしはイライラしており、とても攻撃的だった。右の目玉の中に妙な虫が蠢いており、うぞうぞと、視界の中で泳ぎ回るのが鬱陶しかったのだ。

 何時頃から現れたかを考えるのは苦痛で、この嫌な奴のためにわたしは普段よりも注意が散漫になっており、人を観察するゆとりさえ失っていた。

 じっと、視界を気にせず焦点をずらしてゆけば、眼球に吸い付く虫の姿を捉えることが出来た。

 頭だけは一点にかじりついて動かず、長くて白い胴体部分だけが、くねくねと動いている。一見では糸くずのようにも見えたものだが、その糸には細かな繊毛が生えていて、よくよく見れば早回し程の速度で動いている。眼球のぬめりや水気を掻いて泳いでいるのだろう。

 くるくると、時計回り、逆回りで、齧りついた頭を真ん中にして動き回って鬱陶しい。


 右側の視界は、虫が泳ぎまくったせいで少し濁っている。

 だから、前方から歩いて来る男の影に気付いた時には肩がぶつかってしまう寸前だった。

 避けようと思えば避けられただろう。だが、わたしは避けなかった。面倒になったのだ。深く考えるだけの心理的な余裕がないせいで、咄嗟の判断を間違う事はよくある事だろう。

 案の定で、男はわたしに絡んできた。まっすぐに歩いていてどうして避けなかったのだ、と、こう言うのだ。それを言うならお互い様で、男もわたしが前方から来ることを知っていたはずなのだが、その点には触れなかった。わたしから言ってもよかったのだが、口を開く前に前歯を折られた。殴られたのだ。

 眼の中の虫が驚いたのだろうか、私の目玉を食いちぎった。みるみるうちに右の視界は赤く染まって、瞬きの度にコリコリと不快な鈍痛が引き起こされた。すぐにも目を擦りたかったのだが、いちゃもんを付けてきた相手の男に遮られて、手を顔のほうへやる事さえ出来ない。

 苛立ったわたしは男の左足を踏みつけた。一瞬怯んだところで、手にしたビニール傘の先をその男の右目に向かって突きだした。足をどけた時に飛び退いてくれたので、ちょうど良い距離だった。


 雨が降りそうなどんよりとした空を見上げると、やはり視界の真ん中にぼんやりと白くて長い虫が蠢く。曇天の空を舞う竜とでも言えば詩的だが、あいにくそんなに御大層なものには見えなかった。

 赤く染まった片方の視界と、どうともなっていないもう片方の視界とで、空の色は点滅したように赤と灰色が交錯していた。虫はまた、どこか別の個所に齧りついたらしく、時計回りと逆回りを始める。

 足元で転げまわるどこぞの誰かを大股で越えると、わたしはまた歩き出した。


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