「花紅柳緑」
あぜ道のあの独特の臭いを思い起こせる機会が少なくなった。
コンクリートやアスファルトは砂っぽく乾いていて、埃の臭いがする。
郷愁の原風景は電車や飛行機を乗り継がねば見えなくなった。
あぜ道の脇にははこべやなずなが芽吹き、烏瓜の蔓が寄る辺を探している。濃厚な緑の、むっと鼻につく青い匂いはまだまだ先で、春先の野辺はむしろ清涼な匂いに包まれている。
澄んだ空気の匂い。透明感のある柔らかな日差し。日なたの、陽に照らされた場所はハイライトを掛けたようにほんのりと白が被さる。真夏の日なたは突き刺さる日差しがこの景色を容赦なく白に染めるのだけれど。
曇天が多くなった近頃の春は、やはり異常気象というものなのだろう。あぜ道のある景色自体も少なくなった。
薄墨色の遠い山々。ぽつぽつと点在する家屋。谷合の村落はすぐ傍に崖がせまり、家々の前後はすべて坂道だ。猫の額ほどの、雑草だらけの裏庭のすぐ傍には杉が群れなしてのっそりと立っている。あちらとこちらを分ける境界線のように。
そして、広くもない平地には田圃が広がっている。川に沿ったなだらかな土地はすべて田畑だ。
秋に収穫した南瓜の蔓が枯れて冬を越し、春の芽吹きに埋もれかけている。その向こうは淡い紅色に染まり、れんげの花が絨毯のように咲き広がっている。養蜂業者の依頼があり、冬の間に種を撒く。
ここへ移り住んで15年目の春に、坂上彰彦はようやく認知され始めた。その道を目指すと決めて、いっぱしの陶芸家と名乗るまでに20年掛かったことになる。最初の1年は雑用ばかりで轆轤も回した覚えがない。その後の3年で独立し、工房を得た。無銘の市販品の皿を受注に応じて焼く。生活の為に。
合間合間に自身の銘で陶器を焼き、最初に仲間との連名で個展を開いたのは10年目の春だった。その間に、京の街中にあった工房を出て、この地へ。
陶芸の街と呼称する田舎町は過疎化する村落の村おこしの為に、窯を作り、若手の陶芸家を招聘していた。
この辺りの土は癖があり、あまり好まれないようだが、彰彦は気に入っていた。均一でなく、気紛れに一部分のみをざらつかせてみせるこの地の粘土は、若い娘のように扱い難い。独特のその癖が、彰彦の作品においてはいい持ち味になってくれた。
時を止めた田舎の暮らしと、ただひたすらに繰り返される四季は心地良かった。
邪魔なものが一切合財と、ここでは目の中に映り込むこともない。
京都だからと格好付けで始めた和装もこの歳となれば身に馴染み、もはや洋服は着苦しい。工房では作務衣のほうが都合がいいが、普段ならば帯一つで済む単衣がこの季節には重宝した。鮫紋の青が緑の野辺に溶け込んでいる。冬は褞袍どてらを引っかけ、夏はカンカン帽をちょいと被せる。プラスチックの白いバケツを片手に野辺を行く。
「おじさん、こんな所でなにしてるの?」
春の野辺を歩く道すがらに、菜穂子と行き会った。みずみずしい黒髪の艶、背中あたりにまで届くその長さはむろん、己の美しさを自覚してのものだ。さらりと風になびき、白い肌を掠める。つるりと剥けたゆで卵のように、子供の肌には皺もシミもくすみも無い。無防備に、柔らかな日差しに照らされている。白と黒のセーラーを着て、革の鞄を後ろ手にして背の高い彰彦を見上げていた。
高校をこの春に卒業する従姉妹の娘は、歳が少々離れているせいで、叔父と姪のように言われてしまう。母は六人兄妹の末っ子で、彰彦の父親が一番上、菜穂子の母親が一番下だ。
歳の離れすぎた従兄弟を名前で呼ぶのは嫌なのだろう、彼女には物心ついてからずっと「おじさん」だ。
「田圃に水が入る前に粘土を仕入れさせてもらうんだよ。この辺の土がいい塩梅なんだ。」
「ふぅん、相変わらず土いじりしてるのかぁ。」
菜穂子がもっとずっと幼かった頃には、京都の工房へ遊びに来るたびに轆轤を回し、得体の知れない作品を量産していたものだ。それらの記憶はどこかへ置き去りにされたのか、今では若い娘らしく、泥にまみれる仕事に眉を顰めた。
山あいの春は遅い。風はまだ幾分冷たく、湿った空気がぞんぶんに含まれ、野辺の草を潤わせる。
菜穂子がついて歩き始めたことに躊躇して、彰彦は歩を止める。
「帰りなさい、付いてきても何もないよ。」
「お母さんが言ってた。彰彦はいつになったら身を固めるつもりなのかしらって。」
「結婚はしたよ。そりが合わなくて別れてしまったけどね。」
意地悪そうな顔をして菜穂子は痛い所を突いてくるが、彰彦はまるで動じる様子もなく淡々と切り返し、そしてまた二人は歩きはじめる。
菜穂子はこの田舎の町に住んでいるわけではない。一時間に一本しかない電車を使って、もう少し開けた都会の街からやって来た。数年前に来た時は叔母と一緒で、二度目の今回は独りのようだった。学校をさぼったのかも知れない。京とは目と鼻の先、彼女自身は京都の有名な女子高に通っている。妻も、同じ学校だった。
妻とは協議離婚をした。結婚したのは京に居た頃で、こちらへ引きこもると決めた時に離婚届を差し出された。
陶芸に没入し過ぎて放り出していたから、自業自得なのだと調停委員たちは口々に責め立てた。彰彦には苦い思い出だ。子供がないうちにやり直したいのだと、妻は告白した。
そんなに悪い亭主だったかと、彰彦は認めがたく抵抗する。最後にはどうでも良くなった。本当に、この女を愛していたのかも解からなくなった。家庭を持つ資格のある人間ではなかったと言いたげな、人々の目が忘れられないトラウマとなり、尾を引く。
菜穂子が自身に恋心を抱いている事も承知している。応えるつもりなど毛頭無かった。
「おじさん、わたしね、東京の大学に行こうと思ってるの。」
「ふぅん?」
「夢に向かって進みなさいなんて、先生たちは無責任なことしか言わないし、お父さんやお母さんも、菜穂子の進みたい道へ進めばいいなんて言うけど、わたしはどこへ進めばいいのか解かんない。」
「とりあえず、進める方向へ進んでみるしかないだろうな、それじゃあ。」
「わたしの選択って、間違ってない?」
「さあ。解からないな。」
「おじさんは高校を途中で止めて陶芸の道へ進んだんでしょう? そんな風に迷いなく進むなんて、わたしには無理。自分が何をやりたいかも解かんない。」
「後悔してないわけじゃないよ。いつだって、ふとした時に思い出す。あの時、この道を往かねばどこへ辿りついていたんだろうかってね。菜穂子が進学することを聞いた時も、羨ましいと思った。」
「学校に行ってれば良かったって、そう思う?」
「ああ。」
「けど、学校に行って別の道を進んでも、やっぱり後悔した?」
「ああ。」
「やっぱりそう思う? だからおじさんのこと好きよ。話すとすっきりするもの。」
晴れやかに笑って、菜穂子は首を上げた。背の高い彰彦の顔はそうしないと見えない。
自身の存在を肯定するための問答で、相談に乗ってほしいというほどの事もない。東京へ行くことは、菜穂子にはもう決定事項なのだろう。その先の道を決めあぐねている。
どちらを取っても、ありもしない別の道を思い描いて後悔する。それが人間というものだ。
彰彦が子供にしてやるような態度で菜穂子の頭をぽんと叩くと、身をよじって逃げた。頬を膨らませて彼女は怒りだし、しきりと自分の髪の頭頂部を撫でた。
睨みつけてくる瞳に苦笑を浮かべて誤魔化せば、菜穂子は片手を上げて威嚇する。
「泥が付くよ、菜穂子。」
使い古したポリバケツはいちいち丁寧に洗ったりはしない。こびりついた白い土くれが彼女を怯ませた。
「もう、嫌い。」
膨れっ面をして、少女はそっぽを向く。
急に思い出したように菜穂子は鞄の中を漁った。
訝しんで見ていた彰彦の前に、銀色の四角いものが向けられる。陽光を反射して、一歩引いた彰彦をパシャリと写した。
「友達に見せる約束したの。」
悪戯が成功したかのような笑顔を向ける。
ああ。こんな顔をしていたろうか。あの頃の自分は。置き忘れてきた幾つもの思いが巡った。
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