「眠い」
なぜディスプレイを眺めているうちに眠くなってくるのだろう。確かに私は枕に頭を付けた記憶もないほどに寝付きはいい方だが、それでも眠れない日はあるし、そんな夜は苦しくなるほどに足掻かねばならない。睡眠に関しては人並みであるし、何かの異常があるとは思えない。夜は眠れるのだから。眠りの総量が足りていないとも考えにくい。もともと眠くて堪らなかったわけでもないのに、パソコンの真っ白いエディタ画面を睨んでいるうちに、急激に眠気が襲う。行き詰まっているだとか、案が浮かばなくて困っているというわけではない。ただ身に付いた癖であるかのように、エディタの白く輝く画面を眺めているだけで眠くなるのだ。
頬を両手で挟み、ペタペタと軽く叩く。最初はこれでもなんとかなる。しかし十分と保たずに眠気が襲う。ここで眠ってしまっては、何のためにパソコンを開いたのか解からない。書くべき文章は頭の中にあり、キータッチで入力される時を待っている。なのに、私の視界は霧がかかったように不鮮明となり、頭も重くなってくる。
時間が惜しい。眠りたくなんかない。睡魔と闘うことが主要となり、文章を紡ぐことは疎かとなる。くそ、どうしてこんなに眠いんだ。昨夜も十一時には布団をかぶり、その後になにか思考したという記憶などはない。すぐ眠りについたんだ。語られるべき物語は頭の中にある。冒頭の一行目をどうしようかと推敲したいんだ。頭をクリアにするつもりで息を整えれば、眠る前の儀式と同じ深呼吸に変わってしまう。瞼が落ちてくる。いいや、ここで目を閉じたらそれこそヤツの思うつぼだ。睡魔の。
頬をふたたび両手で挟み、今度は少し強めに力を篭めた。パシパシと音を鳴らして、その瞬間だけは目が覚める。しかし、両手を降ろしてキーボードへ置く間に瞼はまたどんよりと重みを増した。頭は冴えているのだろう。この眠気をどうにかしようと躍起になっているのだから、冴えているに決まっている。ただ、瞼が上がらないだけだ。苛立ちはここらで我慢がならないレベルへと達し、私は三度の目覚ましを試みる。両手を上げ、今度は加減無しに思い切り頬へとぶっつけた。ばしん、と高い音が鳴り、両の頬はじんじんと痛む。この痛みが瞼の重みを消してくれる。これでようやく落ち着いて推敲が出来るはずだ。最初の一行目。神経を集中し、頭の中の物語の全体像から相応しい場面を取り出す。この場面を表現するに相応しい最初の文章を思いつかねばならない。ああ、瞼が下がる。
背筋を伸ばし、腕を回した。肩を左右で揺すって、肩甲骨を逸らせる。首を回す頃には眠気が消えている。よし。今のうちに最初の一行を打ちこむのだ、これはもう閃いていた。
「貴方のそこが嫌なの。」
女のそんなセリフから始まるのだ。これは別れ話の一幕だ。主人公は言われている方で、男はこれを切っ掛けにあれこれと思い悩むことになる。女の容姿を描き出すべきだろうか。主人公を出すのが先だろうか。少しキータッチが止まると、それきり思考が足踏みをする。規則正しい『その場で駆け足』が頭の中でリズムを刻む。1、2、3、4。ああ、瞼が降りてくる。頭を思い切り左右へ振った。脳みそが揺れて頭痛がした。馬鹿になりそうな気がする。しかもあまり効果はなかった。
何を書こうとしていたのか。「貴方のそこが嫌なの。」の後だ、揺すった拍子に消えた。「貴方のそこが嫌なの。」そうだ、女を出すか男を出すかで迷ったんだ。男の一人称だ、ここで女を出すならしばらくはこの別れの場面の描写をすることになり、男を出せばすんなり回想後に移れる。
胃がむかむかしてきたぞ。眠気と吐き気はどうして連動するように出来ているんだろう。生あくびはひょっとして、どこか胃袋のスイッチに繋がるのかも知れない。小腹が空いてはいるが、ちゃんと食事は三度ごとで取っている。時間にして、二時間前か。しかし胃がむかむかして気になってしかたない。眠気からくる生あくびも連続している。目覚ましをかねて、何か食べよう。女を出すべきか、男を出すべきか。サンドイッチがあったか。ああ、そうか、気を紛らわすための珈琲を淹れ忘れているんだ。
珈琲はあいにく切らしていた。代わりにココアを淹れてきてパソコンの傍へセットした。鈍痛を紛らわすための軽食の類も残念ながら見つからなかった。たいていの場合で同居人が食べ尽くしてしまうのだ。冒頭は女の容姿を書くところから始めることにした。
「貴方のそこが嫌なの。」
きつい眼差しをまっすぐにこちらへ向けて、彼女は鉄柵にもたれかかる。大人びた口紅の色は他の誰かから贈られたのだろう。俺なら決して選ばない派手な唇がひん曲がってさらに可愛げを消していた。瞼が重い。頭も重い。ココアで腹が暖まり、ちょうどいい具合に落ち着いている。あろう事か、睡魔を増長したらしい。
「ねむい……、」
ついに私は音を上げた。苦痛に満ちた呟きを聞き咎め、ソファにくつろぐ同居人がゲームを中断して視線を向けた。携帯ゲーム機を膝に置いて、呆れたような溜息をこぼす。
「寝ればいいだろ。」
さらりと言うな。
「三十分ほど眠って、すっきりしてから書けばいいじゃないか。」
一度寝ろだと? 馬鹿を言うな。一度眠ってしまったら私は起きない。起きないんだ。そして夜は眠れなくなり、パソコンを開くこともメモを取るために灯りを燈すことも出来ずに悶々と過ごす一夜の地獄を味わう羽目に陥る。
「それは無理だ。眠ったら起きない。」
「根性が足りないから起きられないんだ。」
根性ならある。起きているためにあらゆる努力を払っている。正座でパソコンの前へ陣取るのも、夜は早めに寝ているのも、規則正しい生活は昼間に睡魔に襲われないためだ。なのに瞼は下がる。猫がするように、両手で顔を洗った。
「水で洗ってきたほうが早いと思うぞ。」
それはその通りだ。蠅のように擦り合わせていた両手を頭上へ伸ばし、一つ背伸びをしてから私は立ち上がった。顔を洗って、ついでに歯磨きもしよう。それだけすれば目が覚めるはずだ。ぐにゃぐにゃした感覚で歩きながら、重い頭をもう一度左右へ振った。瞬きがスローモーションになっている。大丈夫、顔を洗えば眠気も取れる。
パソコンを開き、真っ白く輝く文章エディターの画面を睨んでいると、どうしても眠くなる。これはきっと癖に違いないのだ。嫌な癖がいつのまにやら付いてしまったらしい。生あくびを噛み殺し、スローモーな瞬きを何度も繰り返しながら、私は洗面所へ向かって歩いた。
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