「夢」

「御馳走を食べたら死んでしまうよ、」

 目の前に並べられた大小さまざまな料理の器を見回していた時に、中空から声が掛かった。

 途端にゆるゆると目が覚めて、大黒健也は鼻に刺さる異物感に眉を顰めもした。横にチューブがぶら下がっている。

「先生、患者さんが!」

 鋭く、女の声が響き、ピンクのワンピースが視界を横切っていった。何かはその時、気付かなかった。

 複数の人間が駆けてくる足音、キュッキュと混じるのは何の音だろうと思っていた。

「大黒さん? 聞こえますか? 瞬きしてみて、私の顔とか見えてる?」

 眼鏡の男が覗きこんだ。

「返事は無理にしなくていいからね。瞬きで返事してみて。聞こえてたら、目を瞑ってみて。」

 言うとおりにギュウと目を瞑り、再び開いた。眼鏡が光っていてどんな目をしているのか解からない。無表情に見えて不安が涌きだした。白衣を着ている、看護師がその周りを囲んでいる、ここは病院なのだろう。

「記憶はありますか? あなた、事故を起こしたんですよ、覚えてますか?」

 健也は頷いた。つもり、だった。

「痛い?」

 何が? そう聞きたかった。

「今ね、あなたの腕を掴んでるんだけど、解かりますか?」

 先生が持ち上げた腕を見た。それは、誰の腕ですか? 言おうと思ったけれど、口がどこにもなかった。


 目が覚めた。カーテン越しに日差しが顔に当たっている。眩しくて逃れた。スズメが何処かで激しく鳴き競っていて喧しい。鬱陶しいと思いながらベッドの上に身を起こした。何か夢を見たような気がしたのに、何も覚えていない。何か気になる夢だったのに、カケラも思い出せなくて気持ちが悪かった。

 バイクの排気音が複数で奇妙なリズムを刻みながら近付いてくる。わざとそうしているような、何かの音楽のようなアクセルの掛け合いが聞こえる。健也がベッドを離れ、ジーンズを穿いてシャツを首から被る間にインターホンが数回響いた。


「よぉーっす、健也。なに? もしかして、寝てた?」

「おお、今起きたトコ。ちょっと待っててくれよ、飯も食ってねーんだよ。」

「はぁ? 遅っせーよ、バカ。飯なんか途中で食え、今、九時だぞ。」


 玄関を開けたら、会話が始まった。真っ黒いヘルメットを被った二人は、同じピンク色のライダースーツだ。扉の向こうの二人は交互に健也を急き立てて、慌てて引っ込んだ彼を背後からまだ詰った。一人は空をしきりと見上げる。青天の向こう側には真っ黒い雲が山並みの上で胡坐をかいている。

「天気やべーな、天気予報どうなってた? 俺、朝の見てねーんだ。」

 もう一人がポケットを探り、携帯電話を取り出して操作した。

「今日は保つってよ。けど、ゲリラ豪雨に注意ってなってる。うげ、俺らの向かう方向、注意報だべ。」

「ルート変えるべよ、」

 二人はグニャグニャと軟体動物のような動きで話している。そこへ、健也が駆け戻った。

「悪ぃ、待たせた、」

 真っ黒のヘルメットが二つ、健也を振り返った。


 高速道路は二股に分かれていた。片方はとんでもない渋滞が起きていて、赤いトラクターが数十台も長い列をなしている。反対側は車一台見えなかったが、遠く山並みには真っ黒い雲がずり落ちかけていた。嫌な気持ちがしきりに騒いでいたが、トラクターの列に並ぶのはもっと嫌だった。

「なぁ、どっかでUターン出来ねぇかな?」

 健也が問うと、友人二人はバイクに跨ったまま振り返る。ヘルメットのワイパーがしゃかしゃかと動いて雨を掻き分けていた。健也は頭を掻き、手にしたサンドイッチを食べようとした。


「食べたら死んでしまうよ、」


 目の前に豚の丸焼きが載った大きな皿がある。こんがり焼けた豚の頭が、もう一度繰り返した。

「食べたら死んでしまうよ。ほら、こんがり焼けてるけどよく見てごらん? 薄いパリパリの皮の下に注射針がこっちを向いて隠れてるのが見えないかい? 突いたら最後、全部出てきてしまうよ。」

 健也は両手のナイフとフォークをそっとテーブルへ戻した。そっと、そっと、音を立てずに。注射針はそうしている間も健也の動きを、耳を澄ませて窺っているようで、じいっと飛び出すチャンスに構えている。気付かれないように、慎重にゆっくりと両手を開いてナイフとフォークを置いた。コトリとも音はさせなかった。

「そうそう、その調子。気付かれちゃいけない、音を立てちゃいけない、カチャンとでも鳴ったら一斉に飛び出してくるんだからね。」

 もう一度言って、豚の丸焼きは小刻みに身体を揺らし始めた。

「そうそう、上手、上手、あっはっはっ、」

 テーブルも一緒に揺れて、ナイフとフォークも踊った。慌てて、健也はその小さな手で暴れるナイフとフォークを追いかけた。パジャマがぶかぶかで、腕が長すぎるのだ。たくし上げて、ナイフに手を伸ばす。もう少しで掴みとれるという時に、またパジャマの腕が下がって邪魔をした。

「豚は耳も鼻も食べられるんだよ。」

 顔だけのこんがり焼けた豚が健也の耳に囁いた。


 雨戸を叩く風の音は台風のようだった。激しい雨音がまだらに屋根を叩いている。ヘンな姿勢で目が覚めた。首が”く”の字になっていて、頭の向こうはソファの肘掛けだった。首が折れそうに痛い。足元には真っ黒い鳥が居て、両の翼は人間の腕のように器用に健也の足を掴んでいた。ツルのような細くて長い頸を伸ばして、健也の様子を覗い見ている。

「おい、」

 健也が声を掛けると、そろりそろりと翼をどけた。睨みつけると揉み手で首を傾げた。身体を起こすのは大変で、まずなにより首が痛い。散々にもがいてようやく半身を起こし、部屋をぐるりと見回した。これも夢じゃないのだろうか。ソファの前にあるテーブルの上は、昨夜の状況のままで乱雑だ。空になったウィスキーとビールとカクテルと焼酎と……あらゆる種類の瓶が載っていて、転がっている。酒盛りをした二人は床で苦痛の表情を浮かべて眠っている。ヘルメットはフローリングの隅に二つ並んでこっちを眺めている。酸っぱい匂いが部屋には充満していて、慌てて窓を開けにソファから足を降ろしかけて、危うく踏みとどまった。

「やべぇ、うわ、臭ぇ、」

 鼻を摘まみ、腰をずり下げて位置を変える。よく二人は起きないものだと感心する。鼻に異物が、奥に詰まっていた焼きそばが一本、にゅるん、と口内に移動した。


 健也が再び足元を見ると、鳥は居なくなっていた。


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