「おばあさんが居るということ」
駅から遠くバス停も充分とは言えない利便性の悪い土地は、不便さに比例して空き家と古い家屋が多くなる。便利でさえあれば、都会民はひしめき合う猫の額ほどの狭い土地でも我慢する。その為に、都心から離れた辺鄙な古い街はますます人が居なくなった。東京へ出るのに電車とバスを乗り継いで二、三時間も掛かろうかというこの小さな街は、田舎というほど長閑ではなく都会というほど開けてはいない。そんな街に来る者もまた少なく、じわじわと、空き家が歯抜けのように目立っている。
その家屋には人ならざる者が棲みついていた。モルタル造りの古い空き家には幽霊が棲んでいる。かつてはこの屋の住民で、今は誰の目にも映らない老婆だ。藤田誠は散歩途中に、目線より低いブロック塀越しにこの一軒家を眺める。荒れた小さな庭と、腐りかけた縁側が見えた。
「おはようさん、」
隣りからの突然の声で振り返る。祖母が挨拶の言葉を口にすると、見知らぬ通行人は怪訝な目を向けた。誰も居ない場所に挨拶した老婆を奇異の目で見ながら、関わりにならないようにと歩調を早めて通り過ぎた。
「ばぁちゃん、」
肘でつつくと、祖母はにこにこ笑って誠を見上げる。
「誠司、もう学校から帰ったんかい? 晩御飯はまだくれないみたいだよ。」
「ばぁちゃん、俺は誠だよ。それから、さっき朝御飯食べたろ? また母さんに叱られるよ。」
祖母は痴呆が出てから、時々、誠とその父親とを間違えた。御飯をくれる人が母なのは忘れない。けれど、御飯を食べたかどうかは誠の名前と同程度には忘れてしまう。痴呆の出ている人は被害妄想になると言うが、そういうものが出ていないだけマシだと藤田家では捉えていた。
空き家の住民は庭に居る。祖母が挨拶した場所には確かに何も居ない。しっかりと確認の目を向けてから、誠は落胆した声で言った。
「ばぁちゃん、見えてるのかと思ったのにな。」
「わしゃぁ、まだまだよぉく見えとるよ。心配せんで、学校へ行っておいで。」
祖母との会話は年を経るごとに困難になっていく。誠は少し棘のある声で「違うよ、」と答えた。
徘徊に近いかたちでふらりと出ていく祖母には、家族の誰かが必ず付いていなくてはならなかった。家族が出ていく平日は施設へ預ける。休日は交代で面倒を見る。この空き家の住民も一見では祖母と変わり映えのない年齢に見えたから、同じようにふらりと出ていく事はないのだろうかと思った。
もう一度首を伸ばして庭を覗いた。空き家は崩れかけで、ブロック塀まで近付けばカビの臭いが嗅げる。屋根はまだ陥没していないけれど、かなりたゆんだ曲線を描いていた。煤けた茶色の素焼き瓦は逆に物珍しく、ところどころは苔むしている。庭はそろそろ植木と雑草の区別が付きづらい様相をしている。柘植の木は背の高い草に覆われていたし、盆栽は松が枯れたところに青々とした緑が繁殖していた。小道があり、老婆が一人外へ出て庭を掃いている。祖母の背丈ではどのみちブロック塀の向こうは見えないのだと後から気付いた。
せっせと動かされる箒の割に、砂利石の敷かれた小道はいっこう綺麗にはならない。よく見れば、箒は素通りしていて枯葉を集めることは出来ていなかった。それでも老婆は箒を使う手を休めない。掃いたかどうかを忘れているように、同じ作業を繰り返していた。このおばあさんがいつから棲んでいるのか、誠はおぼろにしか記憶がない。小さい時分には生きていたおばあさんと挨拶を交わしたような気がする。
縁側の板は大部分が黒く変色して腐っている。そこへ腰掛けて一服すると、おばあさんは腰をさすった。日に日に荒れ果てていく棲家を見回していた。何を思っているのだろう。誠は声を掛けたい衝動をいつも抑えている。素通りしていく箒と、徐々に増えては土に還り、綺麗な砂利石を埋めていく枯葉と。
その姿は無害そのものと見えるのに、この家がなぜ放置されたままなのか不思議だった。誰かが住むことを考え、誰かが住んだ時にこの老婆がどうなるのかと考えた。隣りを歩く祖母がふらふらと道路の中央へ出て行きかけるものだから、誠は慌てて手を引いた。
「ばぁちゃん、そろそろ家に戻ろうよ。お散歩ももう充分だろ?」
「わしゃぁ、買い物に来たんだよ、漬物がなくなりそうだったからね。散歩じゃあないよ、誠司。」
「漬物は母さんが買ってくるって言ってたよ。」
「そうかい? じゃあ、要らないね。」
誠は嘘をついて祖母を納得させた。家族の了解で、祖母にはどんな嘘でも吐いていいことに決まっていた。寂しいと思いながら頷く。冷蔵庫の中は漬物だらけで、母はよく愚痴を零した。
ようやく祖母の足は家の方角へと向かい、よちよち歩きを始める。誠の普段の歩調ならほんの十分ほどの距離でも、祖母に合わせるとずいぶん長い時間が必要となった。これも年ごとに遅くなるような気がしている。そしてほんの数メートルと進まないうちに、祖母は歩くのを止めてしまう。休憩をする。ここでふと思い立って後ろを振り返ってみたが、ブロック塀に遮られて中の様子を見ることは出来なかった。
歳を取った祖母の巡る道順はいつも同じもので、誠もすっかりと覚えてしまった。祖母は時折忘れてしまって違う角を曲がる。そうして出現する景色を見てぽかんとした。呆然と立ち尽くす祖母に、誠は優しく声を掛けてやる。そうするのが良いのだと医師が言ったらしい。家族の方針は母が決め、一番多くこれを破るのも母だ。一番長く祖母と居るのだから仕方がないことだと父は言っていた。誠は祖母の手を握った。
「ばぁちゃん、間違えちゃったみたいだね。引き返そう?」
「うん、うん、」
こういう時の祖母の声は頼りない。
誠はこの散歩が好きではなかった。一日二日は優しい気持ちを持てたけれど、毎日続くと嫌でたまらなくなった。出掛ける最初は優しい気持ちでも、あんまり長くは保たない。忘れてしまうというのは、こういう気持ちだろうかと思うと、また優しい気持ちを思い出す。目印の書店が見える。ここまで来たら、家はもうすぐそこだ。
書店と言っても置いている本など僅かばかりで、駄菓子屋も兼ねているような小さな店だ。祖母は子供に返った目で嬉しそうに菓子棚を眺める。誠は新刊の雑誌をチェックしながら、祖母にも目を配っていた。
「誠くん、大変だね。毎日。」
書店の前で声を掛けられると、誠は愛想笑いでおじぎをする。別に毎日祖母の後を付いて回っているわけではなかったが、人にはそのように見えているらしい。書店の両隣はかつては何かの店舗で、今は両方とも古いシャッターが下ろされたままで錆びついている。建築法が改正されて、新築を建てる時には喧しくなった。その上三個一と呼ばれる建築の真ん中の家ががんばっていては、両隣が売れる見込みはない。猫の額の狭い家は東京だけに限らない。なんとはなしに溜息を吐き出して、誠は祖母と繋いだ手を離した。
「おばあちゃん、お孫さんと一緒のお出掛けで、いいね。」
人の良い店主は祖母によく聞こえるようにとゆっくり喋った。耳を傾けた祖母は解かったものか、にっこりと笑う。少し調子がいいらしい。書店の主人を、今日は覚えているようだった。
「はいはい、いつも面倒を掛けてねぇ、申し訳ないんですわ。」
にこにこと、祖母は答えた。忘れてしまうという事を誠は考えていた。思い出した時の祖母の気持ちを考えた。ちっとも急ぐ気配のない時計の針を考えた。
誠の家は新築の一軒家だ。新築と言って十年近くは経っているが、周りがみな古いからあまり古びては見えない。隣近所はけっこう古い家屋が立ち並んで、ところどころが差し歯みたいに真新しい家に建て替えられている。毎日のお散歩コースには以前に住んでいたアパートがあって、今はロープでぐるぐる巻きに縛られている。一階の角にある一軒だけが住んでいて、そこが引き払うのを大家は待っている。あそこに住んでいた頃は、まだ祖母はボケておらず、幽霊は井戸端会議に参加していたような気がした。
「ばぁちゃん、帰ってきたよー。ただいまー。」
家の中に居る母に伝えるつもりで大声を出す。隣りのベランダから近所のおばさんが挨拶代わりに頭を下げるのが見えて、誠も愛想笑いで頭を下げ返した。祖母は玄関先に置かれた鉢植えが気になるようで、しゃがみ込もうとしていた。
「ダメだよ、ばぁちゃん。危ないよ。」
「ここに盆栽があったのに、松子さんがどっかにやった。」
「ばぁちゃん、盆栽は枯れちゃったんだよ、おととしの夏で、ものすごく暑かっただろ。」
「頂きものの立派な盆栽があったのに。」
「ばぁちゃん、」
「じぃさんが大事にしとったのに、松子さんがどっかにやった。」
手を繋ぐと、祖母は邪険に振り払った。ひと抱えもある大きな盆栽を思い出した。盆栽があった事を思い出した祖母を見て、盆栽の代わりに置かれた植木鉢を見た。去年、誠が学校で植えたひまわりだ。祖母も喜んでくれたものだったが、忘れてしまったらしい。本当は、忘れていなかったのかも知れない。盆栽が枯れたことを覚えていて、悔しくて植木鉢は覚えられなかったのかも知れない。どちらなのかは判別付かなかった。忘れたり思い出したりなのだから、もう言うのを止めようと思った。祖母は背筋をしゃんと伸ばして、急にあたりを見回した。
「財布がない。財布を入れた鞄がどっかに行ってしもうた。」
「鞄は家に置いて外に出たんだよ、ばぁちゃん。」
祖母は返事をしなかった。何か考えていた。
「ばぁちゃん、家に入ろう。もうお昼ご飯だよ。」
「晩御飯は? わしゃ、ひとつも食べとらんのに。」
盆栽はまた何処かへ行ってしまった。代わりにそっちは思い出したようだった。
◆
数日後、祖母は風邪を引いた。一人、タクシーで病院から戻った母を、誠は玄関で出迎えた。
「ばぁちゃんは?」
「おばあちゃん、入院することになったわ。肺炎になりかけてるかもって。早い目に連れてってよかったわ、あと一日遅かったら重症化してたかも知れないって、先生に言われたから。」
母はヒールを脱ぎ散らして、そのまま家にあがった。
「大変なのよ。これから入院の準備しなくちゃいけないし。誠、悪いんだけど晩御飯にお弁当買ってきて。」
「うん、解かった。」
手渡された五千円札を畳んでポケットに仕舞う時に、妙な手触りがすると感じた。もう一度出して眺めてみると、ひどくよれた柔らかい紙にお札の印字が付いていた。古い紙幣は角が擦り切れている。それに毛羽立っていて、まるで何かの皮みたいに滑らかだった。
「誠?」
「うん、行ってきます。お弁当、何でもいいよね?」
ポケットに皮のお金をねじこんで、玄関から外へ飛び出した。
自転車の速度に合わせて景色は流れていった。真新しい家の隣には古めかしいタイル張りのアパートがあって側面の一部が剥げ落ちている。一台も停まっていない駐車場に、基礎部分が剥き出しの建設予定地を通り過ぎた。立ち漕ぎで急ぐ友達の自転車とすれ違いざまに目配せをした。杖をついて歩く老人を追い越して、乳母車とすれ違う。町の新陳代謝はゆるやかに、しっかりと行われている。
商店街のコンビニで買い物を済ませて、誠は自転車を走らせた。前かごでビニール包みがガサガサと風を切り、生ぬるい空気が頬を撫でていく。金網で仕切られた空き地を横目で眺めて通り過ぎた。黒い瓦の厳めしい家が建っていたものが、いつの間にやら無くなってしまった。今は広い空き地に真新しい金網が張り巡らされている。
取り壊された古い家は本当に誰も棲んではいなかった。誰も居ない空き家だったから、きれいさっぱり何もなくなってしまったのか。古い家はどんどん荒れていくのだから、いずれはこんな更地に変わる。赤ん坊が生まれて、成長して、歳を取って、痴呆になって……。新しい家が建って、古くなって、空き家になって、荒れ果てて……。
急に怖くなって、誠は自転車のペダルを思い切り踏み込んだ。
家に帰ってみると、母はまだ出発前で大わらわだった。開けっ放しの玄関扉の隙間から、母が行き来する姿が見える。玄関わきに自転車を止め、ガサリと鳴る弁当の包みを持って誠は家に上がった。台所のテーブルの上へ据えるまでに母とは二度もすれ違った。廊下で三度目の遭遇をした。小走りの母は義務のように急いでいる。
「ばぁちゃん、元気になる?」
何かがじわじわと背中に近付いてくるような気がして、誠は後ろを向いた。何も居なかった。
「肺炎っていってもごく軽い症状だけだし、抗生物質も出して貰ってるから。すぐ戻ってくるわよ。」
「一週間くらい入院するのかな?」
「なに言ってるの、誠。そんな不謹慎なことは言わないのよ。」
咎められるとは思わず、驚いた。母の目は余所を見ていた。ショルダーを斜めに掛けたいでたちで忙しなく家の中を移動する。玄関の上がり口には大きな紙袋が二個と、祖母の花柄の買い物袋が置いてある。パンパンに膨らんで、洗面器が被さっていた。母は沢山の荷物をチェックするのに忙しいらしい。
勝手に判断した母を誠はしばらく無言で見つめていた。台所の方角から揚げ物の匂いが漂ってくると、どうでもよくなった。
「けど、そうね、しばらく外出は控えて貰わなくちゃね。」
急に聞こえた声に振り返ってみると、憂鬱そうに母親が眉を顰めていた。
「遅くなるかも知れないから、戸締りはしっかりしてね。パパが遅いようだったら、待ってないで先に食べなさい。いい?」
誠が頷くのを見もせずに、母は荷物を両手に玄関から出て行った。息子のふやけた笑顔を見ていたなら、もっと出発が遅れていただろう。エビフライとコロッケのいい匂いが廊下を漂っていた。父親が帰る時間はいつも七時過ぎで、だいたいぴたりと合っている。誠は時計を見て、短い針がまだ真下にも到達していないと知ってがっかりした。溜息を吐く間に、白い針が流れるような着実さで黒い針たちを追い越して行った。
いつもなら祖母を見張っている間に過ぎていくものだから、今日は黒い二本の針が止まっているかのようだった。カチカチと響く音もずいぶん久しぶりに聞いた。着々と進んでいく秒針をじっと見ているのも、面白いような気がする。急いで出ていった母の足取りも軽かったように思えた。
針との睨めっこに飽きて、テレビの番組が一つ終わった頃には日が暮れている。とっぷりと暗くなって、室内も薄暗くなっている事に気付いて誠はようやく明かりを燈した。父が帰る時間になっていた。
「ただいまー、」
気の抜けたサイダーを持たされた時の、落胆した声が玄関に響いた。廊下から覗くと、上がり口で靴を脱いでいる父の背中が見えた。肩が下がって疲れている。いつも通りに見えた。
「お父さん、ばぁちゃんが入院したよ。」
「ああ、そうだってな。母さんから連絡があった。」
知っているとは思わなかったので、誠はがっかりした。
「ばぁちゃんの病院、見た?」
「いいや。日曜もまだ入院してたら見舞いに行こう。」
通り過ぎる時に、父は誠の頭に手を載せた。いつものような冗談は言わなかった。
祖母が居ない間、父と母は穏やかだった。なんとはなしに誠も心安らかで、のんびりしていられた。祖母は病院に看て貰っているから安心だ。それでも毎日出掛ける母は大変そうで、昼食はこの間、ほとんどコンビニの弁当かインスタントラーメンだった。夏休みがちゃんと休みになって誠は満足だったが、一人っきりの昼食の時間は少し寂しかった。そして、父母が揃った晩御飯の時にもその寂しさは紛れなかった。
夏休みの間、学校ではプール解放で上級生はみな午後の組になる。誠が夕方に帰ったある日、母が近所のおばさんたちと立ち話をしているところを見かけた。すれ違いで挨拶するつもりで誠は早足になった。
「おばあちゃん、入院なさったんですって?」
「ええ、そうなの。風邪をこじらせちゃって……。お年寄りは暑い寒いが鈍くなってるでしょ? ここのところの寒暖差でやられたんだろうって、お医者さんが。」
母は申し訳なさそうな顔をして、どうしてだか頭を下げた。おばさんたち二人は顔をしかめていた。
「大変ねぇ、奥さん……、」
母はしっかりと頷いた。少し誇らしげにも見えた。おばさんたちは横目で誠を追っかけていて、誠も横目でおばさんたちを観察している。すれ違う寸前で、計算通りにペコリと頭を下げることが出来た。井戸端会議は長引いて、先に家に入った誠がすっかりプールのセットを洗濯カゴに突っ込んでしまうまで母は帰ってこなかった。
「ただいまー、」
母も疲れた声で家の中に呼びかけて、廊下に出て来た誠と目が合うと、肩を竦めて笑った。
「詮索されて大変だったわ。すぐ御飯にしましょ、今日は誠の好きなハンバーグにするわね。」
誠は曖昧に笑っておいたけれど、あまり嬉しくはなかった。母の作る手作りのハンバーグは好きだが、今日はレトルトだと知っている。ここのところ、母は露骨に料理をサボっていた。
「遅くなってごめんね、誠。母さんも忙しいもんだから。」
言い訳をしながら、母は台所でお湯を沸かしはじめる。密封パッケージのハンバーグを三つ、そこへ放り込んだ。
「おばあちゃん、明後日に退院できそうだって。誠も、遊びに行かずにちゃんと手伝ってね。」
「うん、解かった。」
ほっとしたけれど、残念な気もした。
祖母が居ない日々に慣れる前に、祖母が帰ってくる日が来た。誠は、結局病院には行けなかった。留守番を頼まれて朝からずっと家に閉じ込められているのは退屈だった。昼までに帰ってくればまだプールには間に合う。昼が近付くにつれ、気温が上がってじりじりと汗が浮いた。冷蔵庫のアイスクリームを思い出して、誠が立ち上がった時、自動車が近付く音が聞こえた。近所で停まったようだ。誠の部屋は蒸し風呂になりかけていたが、階下は涼しい。留守の間は居間へ避難することに決めて、読みかけの漫画を取りに戻った。車のエンジン音はまだ響いている。居間は床暖房になっていて、冬は暖かくて夏はひんやりしている。フローリングに腹ばいになって漫画を読むのが最高に思えた。
「家に帰る! 家に、……家に帰りたいんじゃ、こんな所は知らん!」
「お義母さん、ここがお家じゃないですか、しっかりしてくださいよ!」
外で二人の声がして、誠は慌てて読みかけの漫画を放り出した。玄関から誠が出ていくと、不安げな祖母の顔がいちどに朗らかになった。家は忘れていて、誠は覚えていたのだろう。
「ばぁちゃん、おかえり。」
「誠司、学校から帰ってたんかい。」
やっぱり先ほどの剣幕はきれいに忘れたようだ。誠は母に目配せをして頷いた。母はほっとした表情で、心配そうだった運転手と何か話しはじめる。祖母は誠の傍まで来て、家を見上げた。そしてしげしげと我が家を見回して、納得がいったように頷いた。玄関へ進んで行く。よちよち歩きも遅くなってはいなかったので、誠は名前の訂正をするのを止めた。
「新しい家が出来たんだねぇ。立派だねぇ。前の家は狭かったからねぇ。」
晴れやかに笑った後に、祖母は寂しそうな顔をした。誠は前に住んでいたアパートを思い出した。祖母が間違えたのはあのアパートだったのか、その前に祖母が一人で住んでいた田舎の家なのか、どっちだろうと思った。
「ばぁちゃん、久しぶりにちょっとお散歩に行こうか。そしたらちゃんと思い出すよ。」
「はいはい、お散歩かい。」
「誠、おばあちゃんは退院したばかりなのよ、」
「あんまり遠くまでは行かないよ、ちょっと、近所を一周するだけ。すぐ帰るから。」
母は心配そうな顔で、けれど返事はしなかった。両手にいっぱいの紙袋が重そうで、誠と交互に見遣っては迷っている。タクシーで帰った祖母は元気で、一人勝手に生垣にそって歩き始めている。誠は慌てて後を追った。
「お母さんは片付けてて! 行ってきます! すぐ連れて帰るよ!」
母はまだ心配そうにタクシーの脇に立って見ていた。
◆
久しぶりに歩いたので、景色が新鮮だった。いつものコースを巡って、錆びたシャッターに挟まれた本屋を過ぎ、ぐるぐる巻きのアパートを通り過ぎた。その先にはあの幽霊の空き家があって、そこがいつも散歩の終点だ。それより先にあるのは最近出来た大きな道路で、祖母が横断歩道を渡りきるには危なっかしいと思っていた。だから、いつもその手前で引き返す。
ブロック塀が見えた時、誠はぎょっとした。茶色い瓦屋根はブルーシートで覆われていて、カビ臭いモルタルの壁には足場が寄りかかっていて、家屋全体に蚊帳のような緑の生地が吊ってある。胸が苦しくなった。心臓がどきどきと飛び跳ねた。そして近付くのが恐ろしくなった。
止まってしまった誠の足に気付いたわけではないだろう。祖母は急に立ち止まり、首を傾げた。それから、数回ほどの瞬きをしてから方向転換する。孫のことは無視して元来た方へと歩き出した。どうやら誠と散歩に来たことを忘れてしまったようだ。誠は慌てて回れ右をした。近付く前に遠ざかるブロック塀の中で、あの老婆が右往左往しているだろうかと思った。祖母の後について引き返していけることで誠は安堵する。近付く勇気はなかった。
帰るなり、祖母は横になりたがって母を困らせた。中途な時間で眠ると、決まって夜中に徘徊が起こる。なんとか宥めてテレビを見せようとした。誠を見た母の目は恨めしげだ。
「だから無茶だって言ったでしょ、」
「ごめん。」
形ばかりの謝罪をして、誠はふたたび玄関口に向かう。
「どこ行くの、誠。」
「ちょっとだけ。すぐ戻るから。」
脱ぎ散らした靴を器用に足先で揃えて履いた。母は奥からまだ何か言っていたが、聞こえなかったフリで誠は飛び出して行った。
自転車を風のように飛ばす。そうまでして急いだ先のあの空き家は、やはり緑の籠に閉じ込められていた。自身のことでもないというのに、誠の心は酷く騒いだ。背伸びして覗いたあの庭も、同じように踏み荒らされている。粉々に砕けた植木鉢が、作業員の足に踏みつけられてさらに細かくなった。
誰も老婆が見えないようだった。瓦を積み重ねて運ぶ大工の後ろを何か叫びながら付いて行くのに、顔色一つ変えもしない。五人の大工が解体作業にあたり、五人の誰も老婆が見えていない。屋根の瓦は半分くらいが引っぺがされている。下地のベニヤ板が丸見えになっていて、惨かった。誠は後ずさり、慌てて自転車に乗って引き返した。
翌日、祖母と朝の散歩に行って工事の進み具合を見た。屋根は無くなって、幽霊は立ち尽くしていた。土足の大工が家の中を行き来して、内部から壊しているらしかった。ガツン、ガツン、と何かを叩く音が響いている。祖母が引き返したから、誠は仕方なく後を追ってブロック塀から離れた。
その翌日は早朝に起きて、独りで自転車に乗って行った。もう空き家は奥の壁と右側の壁だけになっていた。ブロック塀も取り払われて、タイヤの跡が行き来している。建物の敷地はゴミだらけで、庭の方は片付けられて赤茶の土がぬかるんでいた。水を撒いたのか、すべてのゴミは濡れている。散乱した色んなゴミの中には壊されたガラスケースと横倒しの博多人形が見えた。人形の綺麗な笠は泥跳ねで汚れていた。幽霊は壁と壁の隅っこで小さくなってしゃがんでいる。誠が近付いて行っても、そこから動かなかった。
「危ないぞ、ぼうず!」
大工が鋭く声を掛ける。誠は飛び退くように、工事現場から抜け出した。トラックが来ていて、ウィンカーが点滅している。到着したばかりのようで、窓から覗く顔は怒気を孕んでいた。
「ガラスの破片やら何やら、危険なものが一杯なんだ、近寄って怪我しても知らねぇぞ、」
子を心配する親の口調で大工は言った。助手席から先に降り立ったもう一人の大工が、ニッカボッカのポケットに手を突っ込んで誠の傍へやってくる。手に握られたガムを一枚、誠の前へ差し出した。
「いたずらしてねーで、帰んな。」
「ごめんなさい、」
誠は好意を受けとり、しゃがみこんだ老婆を一瞥して、停めてある自転車の方へと進んだ。ペダルを踏んだ足はなかなか力を篭める気になれなかった。二人の大人がじっと見ている。もやもやを断ち切るように、誠はペダルを踏みしめた。
住み慣れた家が無くなってしまうのは、どんな気持ちがするのだろう。
徐々に雑草に侵蝕されていく庭を眺めるのとは、どんな違いがあるのだろう。
この辛い気持ちはなんだろう。
翌日は雨だった。降ったりやんだりで、小雨がぱらつく程度だから工事は続くだろう。祖母の散歩はお休みで、誠も外出は許されなかった。
「夏休みの宿題を片付けちゃいなさい、おばあちゃんがテレビを見てるうちにね。母さん、買い物に行ってくるから、くれぐれもおばあちゃんのこと、お願いね。」
「うん、解かった。」
慌ただしく出ていく母に、声だけで応える。誠は居間で勉強をしていたが、祖母が大音量で見るテレビが邪魔をして、思う程にははかどらない。むしゃくしゃして頭を掻いたが、祖母は知らん顔でテレビを見ていた。
「松子さん、松子さん、」
「母さんは買い物に出たよ、ばぁちゃん、」
思い出して母を呼ぶ祖母に、誠は大きな声で返事をした。
「怒ってたかい? わしがまた何か大事なことを忘れたのかねぇ。」
「買い物に行っただけだよ、ばぁちゃん。すぐ戻ってくるよ。」
祖母は忘れやすくなって、くよくよ悩むようにもなった。
「あんまり長生きはしたくないねぇ。」
けれど、すぐに死ぬのも嫌だと祖母は言った。
その翌日も、その次の日も、誠はあの空き家に行くことが出来なかった。学校の宿題は心配が要らなくなったが、幽霊のことは心配だった。
「母さん、ちょっと出かけてきていい?」
「なに言ってるの、誠。台風が近づいているのよ、風が強くて、おばあちゃんのお散歩なんてムリよ。」
「独りで行くんだよ、自転車で行ってくる。」
「なに言ってるのよ、ダメよ、危険よ。」
窓の外で玄関先の金木犀が強風に揺さぶられていた。
台風は夜中に通り過ぎ、翌日はじめじめして暑い雨の日になった。
「行ってきます!」
「誠! こんな雨の中、どこへ行くの!」
もう母の制止は聞けなかった。玄関を出たところで強風に押し戻される。懸命に踏ん張って、それから自転車は諦めた。風はまだ強くて、傘を奪っていこうとする。両手で掴んで盗られないように構えて、風の方向へ傘を操った。踏みしめるような歩みはいつもより少し遅いけれど、着実に誠を目的地へ誘う。
空き家はすっかり更地に変わっていた。びゅうびゅうと吹く風の中で、雨に濡れない老婆が一人、ぽつねんと立っていた。傍に寄って、掴めない腕に手を伸ばした。やはり掴めなかった。
「行こうよ、」
誠が初めて掛けた声に、俯いた老婆が顔を上げた。
おわり
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