「聖夜のペンギン」

 愛が誠実な心だというなら、彼女は夫を愛してはいない。子供を愛してはいない。

 そして、家族を棄てることを考えもしない彼女は、当然のことで僕のことも愛してなどいない。

 彼女が愛しているのは、きっと、自分ただ独りなんだ。


 列車の窓を流れ去る景色が、徐々に田園から都会の夕暮れに移り変わる。日が落ちるのは早く、薄闇が青く世界を染める。広瀬弘毅はぼんやりと浮かんできた極論のような思考をほとんど推敲もせずに受け流した。愛だとか誠だとか、いったいいつの時代の話だというのか。馬鹿馬鹿しくて口元が自然と歪んだ。

 今時、流行らない――

 そんな屁理屈で逃げだして、向き合うことをせずに過ごしても何も不都合はない。彼女は家族を棄てることなど考えないけれど、弘毅のことを愛しているはずだ。片方に誰かを裏切っても、言葉の中の愛を信じればいい。いつか来る未来が固定されてしまっていても、今は、二人は互いに愛し合っている。たぶん。

 車窓の景色は飛ぶように一瞬で消え去る近景と、ゆったりと流れていく遠景とがあって、遠くの山々は人の歴史の歩みにも似ていると思った。どれだけ移動してもずっと視界の片隅に残り続ける朧な影だ。

 列車がスピードを落とすと、人々がにわかに動き始める。じっと立っていただけのサラリーマンはそわそわと、降りる予定の人に道を譲っていた。扉が開くと雪崩れる人々に押されて弘毅も列車から吐きだされる。人々はまるで元からの団体みたいに従順に駅のホームを流されていく。深く考えることもなく流れに沿って歩く人々もきっと、同じように愛だの誠だのの本当の意味など考えはしないだろう。どうだっていい事なのだ、きっと。今、彼女が弘毅を愛していると信じられるのなら、未来の彼女の心がどうであるかは考えなくたっていい。今、突然に床がすっぽ抜けて団子となった人々を呑みこんでしまうという可能性は、今、考えなくたっていい事なのだ。揺れ動く黒い頭髪の群れをぼんやりと眺めつつ歩く間に、どうだっていいような小難しい考えがあぶくのように浮いてはどこかへ漂い流れていった。

 改札を抜けると、階段下のごちゃごちゃとした人の群れが目に飛び込む。弘毅を追い抜かして、急ぐ人々が次々とその群れに合流していった。高架と合わさった駅前ステーションビルは小洒落た白い空間で、真新しい床が光を反射している。ネオンと照明の洪水が到着した乗客たちを出迎えた。

 脇を過ぎる人の数が減るにつれ、弘毅は歩調を緩めていく。華やいだ街並みに比べると気分は沈んでいて、今朝、起きたばかりの時の浮かれた気持ちなど吹き飛んでいる。日が落ちる様はこれから先の二人の暗示に見える。結末は承知の上で付き合い始めたはずが、今は後悔しかない。彼女が人妻だと知った時、むしろ喜んだのに。後腐れがなくていいと舌なめずりで頬に笑みを貼り付けた。それがどうだ、今は捨て去られる時を恐れて一歩の踏み出しさえおぼつかない。こっちが捨てるつもりの相手だったのに。

 冷たい風が駅舎を抜けてきた人々を容赦なく弄っていく。鬱々とした思考ごと吹き飛ばす寒風に、弘毅も人々に倣い、肩をすぼめて首を縮こめ、少しでも寒気を防ごうとした。タートルネックのセーターを着てきたが、夜の凍った空気は僅かな隙間にも侵入してくるような気がした。浮かれた出会いから時は過ぎ、憂鬱な気分で迎える季節になった。人の気持ちはもっとあくせくと、一瞬ごとに入れ替わる。こみ上げたはずの感情は、北風が攫っていったかのように消え失せていた。

 背後からは次の電車の到着を知らせるアナウンスと、頭上を通っていく列車のブレーキと、車輪の軋む音とが長く連なって耳に飛び込む。構内の商業施設からはクリスマスソングが流れてくる。変わり映えの無い駅の音響とクリスマスの音楽とが一歩を踏み出すごとに入れ替わっていった。もう、一年が過ぎようとしている、そんな感慨が先ほどの暗い気分に取って代わっていた。


 珍しく10分前に待ち合わせの駅へ到着して、弘毅は緊張した頬を緩めた。待ち合わせは階段下の変なオブジェの前だ。落涙とかいうタイトルで、巨大な青い球体が台座に乗っている。同じような待ち合わせの人々が佇んでいる中に、彼女の姿は見えなかった。いつも先に来るのは彼女のほうで、弘毅は約束より10分程度は遅れて来るのが常だから、本当にこんな日は珍しい。彼女は驚くだろう。

 恋という感情は奇妙なもので、さっきまでの憂鬱はもう何処かへ鳴りを潜めている。今はただ、彼女を出し抜いて先に到着したことに少しばかりの感動と、何かを仕掛けてみようかという悪戯心とで占められている。真実の愛だのの哲学はどこか遠いところへ羽根を生やして飛び去った。

 せっかく一足早く着いたのだ、何処かに隠れていて彼女を驚かせてやろう。そんな思い付きがふいに浮かんだ。思考は目まぐるしく回転し、シミュレートを始めて幾つかの企画を打ち立てた。どこか上空では醒めた自分が冷ややかな視線で見下ろしている。気付いた瞬間、無理やりな希望はその視線に掻き消された。沈む気持ちと同調して冷えを感じる身勝手な身体。身体が主体なのか、心が主体なのか、どちらも連動する。抽象的な思考が浮かぶのは、これは現実からの逃避だと、それだけは確実に解かることだ。

 列車の中は暑いくらいだったのに。身震いを一つ、やせ我慢は限界で奥歯がカチカチと鳴り始める。建物から出るとさすがに冷え込みが厳しく、頬を撫でていく風は刃の冷たさを持っている。仕方なく弘毅はコートの襟元へ手を掛けた。躊躇があるのだ。ダウンコートの前を合わせて首までファスナーを上げてしまうと、完全に着てきた服装は隠れてしまう。地味なラクダ色のコートなど着てこなければ良かったと、襟元を見せるかどうかの迷いの中で後悔がよぎった。今日の為に用意した新しいカジュアルファッションもこれでは台無しだ。コートの裾から覗いた足元が、厚手の生地を仕立てたスーツで色はベージュだと知らせる程度の露出しかなくなる。靴は前から持っている皮製のスポーツシューズだから、気合を入れてきたようには見えないかも知れない。

 せめて年上の彼女の隣でも浮かない格好をと思って奮発したのに、認めてもらえないのは癪に障る、多少わざとらしくてもスーツの新しさが際立つ襟元は見せつけていたかった。からし色をしたネクタイに似合うファッションは弘毅をとても悩ませたのだ。秋に彼女がプレゼントしてくれたものだから、特に強調したい部分だったのに。仕方なくコートのファスナーを首元までぴったりと閉じる。負けたような気持ちに対する自身への言い訳は考えてあって、明日も明後日も授業の予定があり、風邪など引くわけにはいかないと言い聞かせた。


 風の音が聞こえる。口笛のような音階は、鼓膜に届くついでに耳の中まで万遍なく冷やしていこうとする。今年は暖冬になるという予報は、いったい何処へ行ってしまったのか。コメンテーターも司会者も、さんざっぱらに言っていた連中は素知らぬ顔で、もうその事を話題には出さなくなっている。口から出た言葉に真実はなく、書き記された文字にもそんな保障は何もない。事実、吐く息も凍るこのクリスマスの夜を見れば一目瞭然のことだから、不満に感じても誰一人文句を言いはしない。一瞬で変わる人の心のどこに永遠などあろうか。それとも、この一瞬こそが真実と開き直るのか。

 鋭い寒気が肌を刺す。弘毅は小さく身震いをする。まだ約束の5分前だ、電車が遅れているとアナウンスが喧しく繰り返す声が耳障りだ。苛立ちは消えず、たったの5分は5時間にも感じられる。不安を抱えている時、人の周りの時間はいつもよりも遅くなるに違いない。ふと、目の前を白い色がよぎった。

 いつの間にか雪がちらついて、思わず見上げた弘毅の視界に暗闇から舞い落ちる白い羽毛の群れが映りこむ。上空でサンタが羽根枕を引きちぎったのだろう。詩的な表現と哲学的曖昧思考が調和して、けれど強張る頬はぴくりとも動かなかった。

 ゆっくりと通り過ぎる女子高生の二人が、軽やかな声で綺麗ねと喋りあって脇を過ぎる。色とりどりのイルミネーションよりも、舞い踊る白一色が、涙が浮かぶほど美しいと感じる。黙って見上げている間に、聖夜が終わってしまえばいいのに。今、世界が終ってしまえば、世界は清純無垢だと信じられる。一瞬は一瞬でしかなく、これが永遠というものだ。太古の昔から、空を覆い尽くす闇の色だけは変わるまい。

 行き交う人々は急ぎ足で首を引っ込め、一点だけを睨みつけるように歩き去っていく。舞い降りる永遠には誰もが顔を背けている。青いオブジェの周囲に陣取り、イルミネーションの黄金色に照らされる人々は、弘毅と同じように所在無げに佇んでいる。指先だけは忙しく動いて、ケータイの画面を追う目元が自分だけは違うと主張している。ひとりぼっちと認めることはこんなにも困難で、弘毅もまた、用事もないのに何度となく上着の内ポケットに手を伸ばした。ホームでは感じることのなかった強い風が何度も弘毅の顔を殴りつけていく。切れるような冷たい風で、その度に身を竦める。人々の群れは同じ動きで瞬間ごとに同じように身を縮めた。目を瞑って俯く姿勢まで皆同じに見えた。氷の上でじっとしているペンギンの群れのようだ。嘲笑うような口笛が尾を引いて上空へと巻き上がっていった。いにしえから吹き付ける風に、人も鳥も等しく為す術はない。震えながら誰かを待つ人々の群れに混ざり込んで、弘毅も風景に溶け込むように目を閉じた。


 胸ポケットに仕舞いこんだはずの、小さな荷物が気になっていた。弘毅が今日、電車に乗る前に地元の百貨店で買い求めたプレゼントは、決して安くはないプラチナの指輪だ。店員がしつこく、これがいい、これがきっとお似合いですよ、と勧めて譲らないから仕方なく買ったものだ。本当はその隣にちょこんと並べられたピンクのパールが付いた指輪が気になっていたのに。

「パールが好きよ、」

 彼女の柔らかな声が脳裏を横切った。二人でウィンドウショッピングを楽しんでいて、ローンでもいいから何か買ってあげたいと本気で思ったあの日はいつだったか。物で愛情を測ろうとしたわけじゃない、ただ、気持ちを示したかっただけだけれど。弘毅を気遣う彼女の嘘は高価な宝飾品の中では見劣りした。

「なら、指輪じゃなくてネックレスにする?」

 値段の落差に思わず言葉を継いだ。

 日差しは強く、店内から見えた夏の舗道は白く路面が光を反射して、何もかもを消し去っていた。眩しさに慌てて視線を戻した先にもまた、彼女の白い指先が薄暗い室内に仄かに浮かび上がっていて。吸い寄せられる瞳を彼女が覗きこんだ時の、あの意味深な眼差し。彼女の香りが思い出された。

 ダイヤモンドに比べれば何十分の一も無い値段で、申し訳なさそうに彼女が首を振ると甘い香りが鼻腔をくすぐった。揺れる瞳の色、かぐわしい彼女の匂い、なんとも言えない気分はどこか悲しみに似ていた。とても近い距離で囁くように会話していた夏の日。

 いつでも逢いたいと思うけれどそれは出来ない相談で、だからせめてと物質に願いを込めるのだろうか。秘めた願いを見透かされたようで、彼女の顔をまともに見ることが出来なかった。彼女の家庭など壊れてしまえばいいという願いを後ろ手に隠した。


 先に着いて待っている、そんな文面を何の躊躇もなく送れたのはいつ頃までだったろう。夏のある日を境に、彼女は急によそよそしくなった。きっと、あれは何かがあったのだ。そう思う。いや、気付かなかっただけで、彼女の心が変化したのはもっと前だったのかも知れない。

 彼女に宛てたメールの半分は何度も推敲するようになった。触れてはいけない何かにうっかり触ってしまわぬように、細心の注意を払って夏が終わり、秋がいつの間にか過ぎ去っていて、気がつけばこんな風に冷たい氷のカケラが舞い落ちている。じっと見上げ続ける弘毅の注意を促すように、ケータイが聴き慣れたメロディを奏でた。心とは裏腹なアップテンポの楽曲は腹立たしくなるくらいに、この静かな聖夜に似つかわしくない。クラクションが文句を代わりに言って、遠ざかる。どこかの誰かが腹を立てている。急かすようなメロディーに、けれど身体はまったく動けないままだ。

 彼女のケータイに、弘毅の名前は広瀬とだけ登録されている。逢瀬の為のメールには、事務連絡に見せかけた冷たい言葉が幾つも並んでいた。

 泣き笑いで歪んだ唇を元に戻せないまま、真っ暗な夜の底で馬鹿のように立ち尽くしている。空々しいメロディとうそ臭い電飾がカラ元気でもいいからと慰めているようで、湧き上がる惨めさに崩れ落ちてしまいたくなった。待ちわびていたはずの曲が苦く耐え難い響きに変わっている。それでも、心の片隅ではまだ彼女の幻影を追い求めて、理想の彼女が優しい微笑みを浮かべている。明るいクリスマスのメロディが、次々と勝ち組の二人を祝福して暖かな光の許へと誘っていく。誰かを待つペンギンの群れの中から、ひとり、また一人と、暖色の建物の灯りの中へと、手を引いてくれる誰かと共に連れだって消えていく。その後ろ姿を盗み見ながら、誰かが来てくれないと出てはいけないペンギンが独り抜け出る勇気を考えていた。

 彼女は来ないかも知れない。解かっていた事だし、たぶん、このメロディが引き延ばしてきた彼女からの回答なのだろう。携帯から掛かる楽曲が終わると、クリスマスに定番のメロディが街に流れ出した。見上げた黒い天空からは、変わらぬ真っ白な羽根が輝きながら舞い降りていた。神に祈りを捧げながら、いつまでもポケットの中のケータイを握りしめていた。

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