【文学】短編集

柿木まめ太

「食卓風景」

 卓上には幾つかの皿がすでに用意されていた。メインとなるのは目玉焼きとベーコンの一品で、千切りキャベツが彩りに添えられていた。茶碗に軽くよそった白いご飯。湯呑みには番茶が八分ほど注がれている。茶色い汁椀はまだ伏せられていた。

 キッチンに立つ女の背中は、慣例となった動作で行き来するだけで、これといった目的もない。朝食を作る為だけの動作で包丁を握り、漬物を刻む。おたまで鍋を掻きまわした。《第一稿ボツ》


 ブラインドタッチの手が止まる。ああ、これではまるで説明だ。

 今、こんな心理ですよとシステム的なトコロを解説しているだけだ。


 卓上には幾つかの品がすでに用意されていた。メインとなるのは目玉焼きとベーコンの一品で、千切りにしたキャベツが彩りに添えられている。卵の焼き加減に気をつけて。

 黄身は半熟より少しだけ固め、薄く張った白身の膜を剥がすと濃厚なオレンジに凝縮されたような色合いで、とろりとした黄身がうずくまっている、そんな具合が良い。

 ベーコン二枚も弱火でじっくりと焼けば、水けと油けが飛んで透明感が出る。飴色にするのは簡単だけど、なかなか、カリカリとまではいかない。

 茶碗によそった白いご飯。お祝いにもらった清水焼の夫婦茶碗はもったいなくてなかなか卸してくることが出来なかったのに、その割にはすぐに割れてしまった。最初は五百円もする良いモノを買ったが、今使っているのは百円均一で適当に見繕ってきたものだ。柄など何でもいい。どうせ使う人は茶碗の内側しか見ない。湯呑みの代わりにコーヒーカップにお茶を注いでも知らん顔をしている人だ。《第二稿ボツ》


 ああ、また間違えてしまった。これでは一人称だ、三人称は三人称だと解かるように書かねば。視点の位置が曖昧になっている。(いや、視点は曖昧になってはいけないのか? 本当に?)


 描写とは、心のヒダを丁寧に書き写すこと。

 それは、仔細に渡って読者にリポートするドキュメントの文章なのか。

 三人称の語り手であっても、語り手自身を仔細に語ってしまうことなのか。


 一人称である意味は何処にある。三人称である必然は何処に。

 最適解が見つからない。いや、最適解を見つけなさいという問題であるのかどうかも解からない。

 書きたいモノを書くというだけなら、こんなにも苦しまない。

 求められるものを書かねばと思うから、悩んでいる。


 小説家になってしまえば制服が支給されるのだ。推理作家ならば推理というジャンルの制服に、その人の作風というネクタイを締めればとりあえず体裁が整う。ワードローブの中から適当に見繕ってコーディネートを変えるとか、たまにカジュアルに走っても「普段の○○」という名刺はすでに持っている。センスが悪ければダサいと言われる、それは「お呼びじゃない」という事だ。

 人前に出ても恥ずかしくない服というのではなく、ファッションカタログに載せられるコーディネイトが求められている。それがプロの資格。もっと言うなら、雑誌の方では次のムーブメントやファッションリーダーとなる人が居ないかと狙っている。それ以外はお呼びじゃないんだ。

 どこかで見たファッション、どこにでも居るファッション、垢抜けないファッション、奇抜に過ぎて理解不能なファッション、そんなもの、ファッション誌に載せられないだろう?

 ほんのひと捻りのアイデアでいい。とりあえずデビューして雑誌に載ってしまえば制服はこちらで用意しておこう。制服をベースに違った印象になるようコーディネートしていけばいいだけになる。とても楽なものなんだ。アイデアさえあればそれで全てが叶うんだ。


 知ったような言葉が溢れかえる。

 本当かどうかも解からない情報が溢れている。

 本当に求められている物はそれなのか。多くの人はだんまりだ。

(街角スナップで載るだけの人は今とてつもなく多い。)


 私の頭の中にある一連の動作を、すべて書くことに意味はあるか。


 朝食の風景。箸を取り、茶碗を持ち上げ、口元によせて掻きいれる、その動作を逐一描画してのける事の意味はなんだ。そのシーンを読者の中に鮮明に映し出させる目的は。


 無駄なものを何一つ書かないとは、いったいどういう意味だろう。


 朝食のシーンなど、本来ならバッサリと切り捨てるべきではないか。物語の中でこのシーンが重要な意味を持つ、色鮮やかに読者の脳裏に浮かばねばならないほどの企図を作り出す、それはなんと難しいことか。


「こんなに詳しく書く必要あるの?」

「これ、朝食のシーンでなければいけないの?」

「朝食のシーンだからこその、この仕掛けだったのか!」


 重ねる意図を求められている。


 そういう事を考えながら、己にプレッシャーを掛けながら書かねば、すぐにアマチュア意識に堕してしまいそうで恐ろしい。(そういう事を何も思わず書いていた頃はすぐに作品は仕上がった。)

 私は何が書きたいのか。何を伝えたいのか。けれどその周囲には、どうやって伝えるかが渦巻いている。どうやって、とは完全に読者に向かっている。読者の求める演出だ。読者の求めに応じること、作者の出来る範囲で妥協してもらうことだ。求めに対し、完璧に応えることは実力的にムリだから妥協してもらうのであって、読者にすり寄って来させることじゃない。読者はすり寄ってなど来ない。


 朝食のシーンに重ね合せてでしか表現が出来ないテーマがあって、だから朝食のこのシーンはとても重要であるから詳細な描写が許される。そうだ、許されるのだ。

 どうでも良いシーンならば、「ごく当たり前の朝食の風景だった。」の一文で事足りる。とても重要なシーンだから、描写せねばならないシーンであるから、描写は為される。


 目の前に立ち現れる食事の風景、湯気までが動き出す脳内映像、完璧なる描写が完成したなら。

 細部に至る単語の一つ一つの働きは計算されて、作者と読者の脳髄を同化させる。(無理だ……)

 食い入るように観たかつての映像作品と並び立つ、それは巨大なインパクトだ。(私には無理だ。)

 衝撃は立体の迷路を展開する筈、なのに。(重層構造でなければそれはハリボテだ。)

 何もないのか、空っぽか? たったそれっぽっちか。(読者の罵倒が聞こえる。)


 朝食のシーンでなければならない意味は?

 朝食でしか表せないテーマは?


 ダメだ、私にはそんな極限にまで絞り込める実力はない。

 読者の求めの究極の状態は、私には実現できない。


 せいぜいお茶を濁してこの程度で勘弁してもらうしかない。朝食のシーンでなければ成り立たないというような必然性は付加出来なかったが、許されるだろうか。私の力ではこれが限界なのだ。


《第三稿》

 卓上には幾つかの皿がすでに用意されていた。メインとなるのは目玉焼きとベーコンの一品で、千切りキャベツが彩りに添えられていた。茶碗に軽くよそった白いご飯。湯呑みには番茶が八分ほど注がれている。茶色い汁椀はまだ伏せられていた。一人分の食事が店屋みたいに澄まして並んでいる。

 キッチンに立つ女の背中は、慣例となった動作で包丁を使い、おたまで鍋の中を掻きまわす。次にすることも決まっていて、段取りの通りに動けば考えることもなく物事はスムーズに進んでいく。漬物の為の小鉢を用意して、冷蔵庫を開ける。

 夏場はぬか床を冷蔵庫で保存する。温度が低いほうが管理はしやすい。厳重にビニール袋で隔離して、毎日のようにこの袋も取り換えることを条件に、冷蔵庫に入れることを許してもらった。汚いものを食品と一緒にすると夫は怒る。

 昨日の朝に沈めておいた胡瓜がちょうどいい具合に漬かっている。汚いと毛嫌いするぬか床に一昼夜沈んでいた胡瓜なのに、夫は喜んで食べる。女はくすりと嗤い、シンクの中にぬかに塗れた胡瓜を置いた。


 夫の左手が箸を掴んで、右手が茶碗を抱え込む。いつ見ても奇妙な感じがする。頬杖をついた女はぼんやりと、夫の口が開かれて白いご飯と漬物がその中へ放り込まれる様子を眺めた。胡瓜の浅漬けは自分以外の口の中で噛まれていても、パリパリと小気味よい音を空気に流れ込ませた。

 味噌汁を啜る時には音を立てない。そのまま一息に呑みほしてしまう。だから、具がたくさん入っていると嫌がる。浮き麩というくらいだから、味噌汁の具は少ないのが正しいのかも知れない。ネギが好きだから、今日の具材はあさつきだけだ。文句も言わない。

 だんまりでただ黙々と口を開いて食べ物を運び入れる夫の正面で、女はぼんやりと食事が終わるまで待っている。毎朝の儀式のように、同じ動作が繰り返される。朝の用事をしながら夫の食事を用意したら、ちょうど食べている途中で用事は終わる。少しの休憩の間、夫を眺めるようになった。


 味噌汁を一度に啜ってしまったら、次にはご飯が空になる。メインの目玉焼きとベーコンは、ベーコンだけが先になくなる。まだ玉子焼きには手をつけない。合間、合間に、浅漬けが一枚ずつ減る。一休みとばかりにお茶を啜って、また漬物。先にキャベツを片付けにかかって、ウスターソースを冷蔵庫から勝手に取り出す。行儀悪く身体を捻って、座ったままで扉を開け閉めする。思いきり腕を伸ばして中を探って、お目当てのものを引っ張り出してくる。立ったほうが楽だろうと毎日思う。

 ソースを掛けてキャベツの千切りを食べてしまうと、そこで一息つく。気合を入れ直している。目玉焼きの白身だけをカットしながら食べていき、最後には離れ小島みたいな黄身が残る。半熟が好きで、皿ごと持ち上げて啜るのが好きな人だ。メインディッシュは目玉焼きの目玉の部分。


 食事も取らずにじっと見ているだけの妻の姿は、夫の目にどう映っているのだろう。居心地が悪く感じているだろうか、それとも事情を知っているから何とも思わないだろうか。午前六時。七時には娘と息子を叩き起こして食事を取らせて学校へと送り出す。娘と一緒にパン食をした方が効率が良かった。

 クラスメートが皆パン食だからと言って、たいした理由もなくパン食を求めた娘に合わせて、女は一緒にトーストを齧る。洗う皿は一枚になるから片付けは楽だ。小学生の息子にはきちんと栄養を考える。

 結婚がいかなるものかも知らないで、ただドラマの真似事だけをしていれば良かった新婚当時は毎日が楽しかったなとふと思った。食事の意味など考えず、そういうものだからと張り切ってパンケーキを焼いて、ヨーグルトとフルーツを混ぜ合わせて。

 夫の実家では毎朝、和食を食べていた。女の実家でも毎日、朝は和食だった。そんな事はどうでも良かった。絵に描いたような新婚生活は、パンケーキとヨーグルトでなくちゃいけなかった。テーブルにはバラの花が一輪だけ、首の細い花瓶に斜めに刺さっていて、二人が差し向かいで、ランチョンマットは色違いで、お揃いの珈琲カップは一緒に日曜日に買いに行ったものでなくては。


「ごちそうさま、」

 皿に一つだけ残っていた目玉は無くなっていた。用意した朝食の品はきれいに空になった。夫は目の前で両手を合わせて、まるで彼女を拝むような姿勢で目を閉じていた。

「珈琲淹れる?」

「いや、いい。もう出ないと遅刻する。」

 時計を気にしながら、夫は椅子を引いて立ち上がる。もう彼女を一顧だにする事もなく、食堂を後にする。食べた後始末はした事がない。食べっ放し。シンクへ運ぶことも、この十数年間一度もした事はない。

 女は思う。私ではない人の気持ちは、私ではないから解かりっこない、と。そうして肩を竦めて、テーブルの皿を重ねていく。後始末に掛かる。



 ああ、まただ。またダメだ。

 人の容姿をまるで書いていない。(描くべきか、それとも蛇足か。)


 幾つもの、意味というレイヤーを描写の下に敷きこんでみる。

 隠された意図、何重の意味。思考。

 押し潰そうとする時間経過に耐えられる強度とは何だろう。

 言葉は選びきれているか。

 描写はこと足りているか。

 それとも書きすぎるのか。


 ダメだ、考え抜いたとはとても言えない。

 了(逃避。あるいは諦観。)


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